12月25日(水)、晴。
本日の映像はコレ。
東京の某所から到来したのが、餡子がたっぷりのどら焼き。その包み紙がこれでした。
大山名人による「天下一品」とありました。
このどら焼き、大山名人のお気に入りだったようですね。
大山名人といえば、色々お世話になりました。
初めてお会いして、話をしたのは京都。
何を話したのかは全く覚えていませんが、駒づくりを始めてしばらくして、南口先生に連れられて訪れた京都新聞社主催イベントの楽屋裏だったと思います。
それをきっかけに、仕事で東京に出張した時は、千駄ヶ谷に新築なった将棋会館に度々訪れて、5階の宿泊室にも良く泊まりました。
その千駄ヶ谷の将棋会館での対局は、とうとう終了して、駅前の新しいところへ移ったのですね。
旧将棋会館の思い出は、他にもいっぱいあります。
訪問した時は、先ず、秘書室に向かい、大山名人が居られるかどうかを尋ねて、不在の時は秘書の方と暫し雑談したり、その他のスタッフとも挨拶したり、時には将棋世界や将棋マガジンの編集者と執筆の打ち合わせをしたりです。
地下には「あゆみ」というレストランがあって、そこには特別対局室で対局中を映したテレビもありました。
或る時、昼食をとりながらテレビに映った局面を見ていますと、
画面の両端から、手が伸びてきました。
「オヤっ」と思う間もなく、その手は盤面の駒を2~3回、掬うようにして、盤面から駒が消えたのでした。
時刻は、12時半ごろだったと思います。
「少しおかしいな」と思っていたのですが、やがて、それが分かりました。盤面の駒がソックリ盗まれたのでした。
以来、その駒の行方は分からずでしたが、聞くところでは、7年余りたって、その駒が将棋会館のある棚に置かれていたと聞いています。駒を持ち去った犯人は、バカな行為をズーっと悩んだことだと思います。良心の呵責。
そしてたまらず元に戻した。そのように思うのです。
将棋会館の思い出はまだまだあり、いずれまた。
売店では竹風作とか重雄作があったように思います。
近くの鳩森神社に行ってみたが、大山書の王将ゴマは
見られなかったような。
あのころはめちゃくちゃで、鷹山作の上彫り注文して裏は赤にしてもらったり、菱湖の盛り上げ注文して、王将は大山書、飛車は竹風の書体で、裏は朱漆
盛り上げで、とか何も考えずに気に入った書体で組み合わせていました。
王将にはその人の趣味趣向が反映されるように思います。大山書が一般人の考える王将のイメージかなと思います。
水無瀬駒の王将はまったりとして
王将というより王様とか王者といった悠揚迫らず といた感じですね。いや玉将だから王将としてみるのは全く間違いでした。
王将と言うのはいつから出来たのか謎ですが、
イメージとしては坂田三吉でしょうか、
大山書にはその強さ、頑固、孤高のようなものを感じます。