3寸用盤の将棋チェストのリクエストをいただきました。
3寸用は、過去にもリクエストがあって、こしらえたことがあり、お受けいたします。
この場合、盤の高さに比べて引き出し式の駒台がかなり離れますので、3寸盤用の駒台を捜して、組み合わせてお使いになるのがよかろうと思います。
8月16日(日)、晴れ。
今日は38度まで上昇。暑さがつらくて、外出もままならぬ一日でした。
旧暦では6月27日なんですね。
映像は、久しぶりの新作「錦旗」。
漆はたっぷりと。シッカリ磨き上げました。
続いて柾目で、間もなくもう一組が出来上がります。
出来上がりましたら、映像をアップします。
ところで、錦旗のルーツは水無瀬兼成卿の筆跡駒。
それがなぜか、大橋家では「後水尾天皇筆跡駒」だと偽って伝えられてきた。
「伝・後水尾天皇真筆駒」と「伝」が付けばまだ良いとして、厳密には「伝」が無いと断定になるので、どうかと思うのです。
回想記・その6、「名駒大鑑」。
一介の将棋好きなサラリーマンが、突然作った駒が時の名人と九段の記念対局に使われて、世間に知られるようになった。駒づくりは面白いと「駒づくりを楽しむ会」を作って提案した結果、駒づくりの輪が広まった。
それから数年が経って、本業として駒づくりをしたいと思うようになった。上京した時などは、仕事が終わった夕刻には、マーケットリサーチのつもりで駒を売っている盤屋周りもした。このころには私を知っている店も多いので、名刺を出して単刀直入に「ここにある駒の仕入値段はいかほどですか」と、聞いたりもしました。
分かったのは仕入れ値の安いこと。それは半端なことではなく「駒屋は乞食」のたとえ話はその通りで、これでは駒づくりでは生きて行けないとった思いのは当然で、私の選択は、会社勤めを続けるしかない、という判断でした。
しかし、これで諦めるわけにはゆかない。やるべきことは、もっといい駒を作り続けること、そして名前を売ることに尽きると思いました。
私にはもう一つの夢がありました。それは「駒の本づくり」です。それを身近な友人にも話したりしていたのですが、丁度そんな折り、Ⅿさんから「二人で本を出そう」との逆提案があり、「よし作ろう」と決めたのは当然のことでした。
本の資金は二人で折半して、大きな写真はプロカメラマンに依頼して、原稿は私が書く。資料はこれまで私がため込んだりした知識や資料。それを余すことなく持ち寄って二人で構成を決めて行く。コンセプトは駒の専門書、唯一のバイブルとして平易で見やすく読みやすく、活字の大きさにもこだわり、50年経っても陳腐化せずに後世の研究者が資料として活用できるものにしたい。しかも、文字はできるだけ減らして、どのページを開いても写真やイラスト、図表がある絵本感覚にと。
内容は、第1章・名駒写真集。第2章・将棋駒の歴史。第3章・将棋駒のルーツ水無瀬駒。第4章・象戯(しょうぎ)図。第5章・水無瀬兼成と将棋馬日記。第6章・豊島龍山秘話。第7章・駒関連人名用語集。第8章・駒づくりのすすめ。以上、カラー写真も入れて240ページ。掲載する駒の作者にも渡りをつけて、準備に2年ほどがかかりました。
価格はいくらにするか。発行部数も判断がつきかねましたが、エイヤーと、1部2800円(後に3500円)で予約販売を受け付けたところ、たちまち大きな反響で、10年が経つ頃には、印刷した2700部のほとんどは底をついてしまいました。
以上が38歳の時、40年前の記憶です。
しかし、材料のツゲの櫛板は入手出来ても、機械や道具をどうするかです。市販されている木工機械には安全に使えるものはなく、自分で作るしかない。必要なのは切る機械と削る機械。できるだけシンプルで、メンテナンスが容易なもの。そして能率的で使いやすく、騒音と埃を撒き散らさないことも必要。最も重視したのは安全性で、部品は使えるものは利用して、足らない部品は独自に設計して鉄工所に発注したり、自分でできる木工細工で作ったりしました。
機械類の設計は、子供のころからいろいろやりました。面白いのです。
中学生から高校の頃は、小型カメラ、水中翼船、海に潜るときのアクアラングなど。
8月12日(水)、
只今、夜中ですが、なぜかやかましい蛙の声はありません。
暑すぎるのでしょうか。
一昨日の月曜日は「山の日」だったのですね。当方、全く実感がありませんでした。
ところで、10万円給付金は、受け取られましたか?
このほど複数の方から、将棋チェストの購入希望が寄せられました。
希望者が5人以上あれば、この際、追加制作しようと考えます。
5人以上なら、価格は前回に近い6万円(送料、別途)に抑えることができそうです。
この条件にて希望者を募りたいと思います。いかがでしょうか。
納期は10月または11月(代金振り込みは10月)予定とします。
希望される方は8月20日までに、お名前と連絡先をコメントでお知らせください。
詳細が決まり次第、ご返事いたします
なお、コメントは匿秘扱いで、公開はいたしませんので、ご安心ください.
回想記・その3、続・駒づくりを楽しむ会。
前回は「駒づくりを楽しいむ会」でやろうとしたこと、やりたかったことについて述べました。
私は当時34歳。扶養家族は4人。仕事は日本板硝子に勤務するコンピューターシステムエンジニアで、当時の就業規則には会社以外の業務をしてはならないとありました。
私がやろうとするのは会社とは関係が無いライフワークであり、クビになっては家族が路頭に迷う。「カクカクシカジカ、将棋駒づくりの会を作って活動したいので許可が欲しい」と直談判したところ、相談相手の人事係長(後の社長)からは「よろしい。分かった」との即答を貰って、安心して船出できたのは大きかった。
やがて私の駒づくりが社内報に載ったりして会社内外に知られると、会社主催の取引先との親睦会では、引っ張り出されて「駒の話」とか「私の生きざま」を話したり、社外では日本生命会社の社長会や、トヨタ自動車の取引先親睦会からも呼ばれたりした。
会報は年4回の発行して、展示会は賛同者に支えられて毎年開催。入会者はたちどころに200人300人を超えて、やがてと今日・大阪・静岡では新しいサークルも生まれたりして、駒づくりの根が全国に広がってゆきました。
映像は後日、12年間の会報1号から50号までを一冊にまとめたもの。全部で436ページ。私の歩みの記録でもあります。
一方、山形県天童市の駒づくりは工程すべてを一人で賄うというのではなく、木地師は木地成型、彫り師は彫るだけ、書き師は文字を書くだけで、上に立つ親方がすべてを取り仕切っている100年前から明治大正時代からの旧態依然の分業体制。質より量で、作られているのは廉価な駒ばかりでした。しかし丁度このころ、それに飽き足らない上物志向の人が二人三人と出始めたり、本会に入会する若手も出たりで、少なからず刺激はあったように思われます。ですが幸いにも、こちらへの嫌がらせや圧力は一切ありませんでした。
ところで私は一日の時間の1/3が会社勤め、1/3が会の運営と自分の駒づくり。残る1/3が睡眠というの生活。しかし、まだやりたいこともある中で、体力維持の睡眠はしかっりと取るべく、一日が1時間でも2時間でも増えてほしい願いは残りました。
①、会報の発行。
1、駒づくりを始めたころ
駒づくりを始めたのは29才の時。もともと将棋が好きで、職場では先輩と将棋同好会を立ち上げ、師範に南口繁一先生を招いて将棋を楽しんでいました。駒はデパートで買った「楷書、歩兵彫りの大阪駒」。ある時、文字が凹んでいない彫埋め駒もあることを知って、文字の彫り跡に漆紛いの黒い塗料を埋め込んで悦に入ったりしておりました。
当時、駒づくりの名人として、宮松影水さんが東京にいました。先生には、宮松さんが作る盛上げ駒は当時のサラリーの3倍の5万円はすると聞いていました。
ならばと間を置かず、今度は彫り駒の名手、大阪の赤松元一(駒権)さんを訪ねて「何万円かの上等な彫り駒」を注文することに。しかし、3か月が経ち半年が経つ頃、再三、赤松宅へ出向いても、私が注文した駒を彫っているような気配がない。そこでやむなく、自分で作ろうと思うようになったのです。
日曜日早朝、降り立った天童駅前の店にすぐさま飛び込んで、「かくかくしかじか。一組、駒の材料を売ってほしい」と頼みこんだが、色よい返事はもらえなかった。普通の天童の将棋駒は買う気にはならず、代わりに「チェスの駒」を買ったことで、一組分の駒形木地を分けてもらうことができた。
別の店では駒を彫る実演をやっていて、2時間ほど「ウムフム」と感心しながら、道具や手並みに注目。その様子を頭に叩き込んだ。帰宅後は早速、よく切れそうな彫刻刀を専門店で探し、彫るときに使う保持具の彫り台は自作し、駒の文字は自分なりのものを用意するなどと、とにかくすべてを手探りで駒づくりを始めた。
当時、駒づくりのノウハウは秘密でした。でも、文字を彫って漆代わりの黒い塗料を塗り込んで、塗料が乾いてから余分な塗料をサンドペーパーで摺り落とせば、黒い文字が浮かびあがり、それなりの駒が出来上がるはず。そう考えながら、駒一枚の表面を摺った時でした。
眼に飛び込んだのは、黒いシミでオバケのような無残な文字。黒い塗料が木目に沿って流れた滲みでした。 天童では彫る実演だけを見て、木目の空洞を塞ぐ「目止め工程」の知識も知らずに、駒づくりを始めた結果の失敗でした。
この失敗は黒い塗料を塗る前に透明な塗料を下塗りしておけばクリヤーできるに違いない。今度は、大阪の盤屋さんに頼みこんで、再度、駒木地を入手し、やっぱり目指すのは盛上げ駒だと決めたのは、30歳直前の再チャレンジでした。
正月明けの翌日、会社には休暇を出して再び京都へ。京都にはツゲ櫛の専門店が2軒。そのうちの一軒では親戚筋の製造元を聞き出し、その足で訪問したところ、私の希望を聞いてくれて、一抱えもある堅いツゲの根っこの塊を貰い受けたのは更なる幸運でもありました。
この続きは、ボツボツと書き連ねたいと思います。
先ほど、SNS を見ていたら、オヤッ。
どこかで見たことがある将棋盤。そうです、将棋チェスト。
輝いているではありませんか。何戦かな?
対局は、内山あやさんと、久保翔子さん。
因みに、久保翔子さんは、久保九段のお嬢さん。
宣伝が過ぎましたかな。謝謝。