熊澤良尊の将棋駒三昧

生涯2冊目の本「駒と歩む」。ペンクラブ大賞受賞。送料込み5000円。
残部僅少、注文受付中。

目次

作品 文章 写真 販売品

25年前の話、その5

2024-12-13 17:18:29 | 文章

2回目の名人戦に使っていただいたところまで書きました。
その続きです。

11年余りが経って、ある時、第76期名人戦が奈良で開催されることを知りました。
「ウン? 奈良興福寺で」ということで、ある思いが涌いてきました。奈良は、長いこと住んでいたところだし、この加茂は車で25分くらいと、興福寺にも近い。
思いは、「盤を三度の名人戦。今回の興福寺の名人戦で使ってもらえないだろうか」と、いうことでした。対局者は、佐藤天彦名人対羽生善治挑戦者。
ひと月ほど考えて「ヨシ。お願いしてみよう」と、お願いすることにしました。後は、経過待ちです。

2週間ほど経って、幸運にも結果は吉。
ということで、12年ぶりに名人戦で使っていただくことになりました。もちろん、駒も一緒。
前日の夕刻、対局室での検分では、盤の由来について、皆さんに説明させていただきました。

実に幸運。
名人戦に、3回も使っていただいたのは、実に幸運。
それも、52期、64期、そして76期と、12年毎にです。
米長流で言うと、この時も「幸運の女神がほほ笑んでくれた」と、いうことだと思います。

以上で、このシリーズは終了です。
なお、別件ですが、奈良での名人戦は、61期戦でも行われました。
この時は、神吉先生の肝いりでの誘致開催で、森内名人対羽生挑戦者の対局でした。
この時の盤駒は、奈良在住の方の持ちの物でしたが、駒は小生作の「菱湖」。盤は小生の斡旋でお渡ししたものでした。
当時は、NHKによるテレビ中継があって、アナウンサーは村上信夫さんによるものでしたが、後半、村上さんによる呼びかけで、小生もライブ画面に初出演と相成りましたが、何を話したのかは、とんと覚えてはおりません。

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慌てず騒がず

2024-12-13 13:30:47 | 文章

12月13日(金)、曇り。

このところ、日中でも10℃と、
寒い日々が続きます。
その駒づくりの漆ですが、中々乾かない。
湿気を加えて固まらそうとするのですが、中々乾かず固まらない。
自然には勝てません。
この時期の漆仕事はほどほどが良いと、あきらめました。

代わって、何をするかですが、作成途上の駒の磨きに専念。
盛り上げの一歩手前の段階です。
磨いて磨いて、磨きにはキリがないので、繰り返し磨いて磨いて。

まあ、そういうことで、慌てず騒がず。
時間のままにです。

今日はこんな話でした。

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25年前の話、その4

2024-12-12 17:03:54 | 文章

この前は、山口県湯田温泉での名人戦で盤が使われた経緯について書きました。それから10年ほど経った秋のことです。
石川県にある北陸科学技術先端大学院大学(飯田弘之先生)からの要請で、駒の話をする機会をいただきました。
講演が終わって、大学が予定してくれていた辰口温泉の宿(まつさき)に降り立って、「おお、これは!」と思いました。
佇まいが、将棋タイトル戦に相応しい。そう思いました。
フロントで手続きをしながら、「社長さんはおいでですか。少しお話したいことがあります」と、社長さんに、3~40分、話を聞いてもらいました。

「将棋には7つのタイトル戦があり、年間を通して開かれています。こちらの佇まいを拝見して、タイトル戦にピッタリだと思いました。
誘致されてはいかがですか。金銭的には潤うことにはなりません。でも、全国紙がスポンサーで、NHK
テレビでの全国放送もあり、広告面でのメリットは大きいと思います。ですので、繁忙期でない時期でがお勧めです」。
「そうですね。4月5月なら・・」。
「あ、そうですか。4月5月なら毎日新聞主催の名人戦。ただし、2年くらいは後になるかもしれません。この足で、私の方から希望を伝えることにします」。

それから一月ほどして、毎日新聞から「石川県の件。社長さんと話をしたいので、伝えてください」と。
このような経過で1か月後、社長さんが大阪に来て、その席に小生も同席することになり、会話は、次のようなモノでした。

「来年の名人戦。第1局から4局までの開催場所は決まっていて、5局の
以降は未定で、6局目はどうか。必要な部屋は対局室のほか大盤解説など全部で15部屋ほど。だが、最悪、2週間前に終了して、キャンセルになることもある」。
「分かりました。よろしくお願いしたい」。と、運よく話は進みました。
年が明けての第64期名人戦。
名人は森内さん。挑戦者は谷川さん。幸い戦いは6局目まで進み、盤と駒は小生が準備して、対局場に向かい、盤はもちろん「実力名人戦ゆかりの盤」。
以上が名人戦での2度目の使用となった、経緯でありました。

次は、3度目の名人戦使用について、述べたいと思います。

 

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実力名人戦ゆかりの将棋盤。

2024-12-12 11:06:11 | 写真

12月12日(木)、晴。

実力名人戦ゆかりの将棋盤。

その盤面の映像です。先ほど撮影しました。

盤面の年輪。分かりますでしょうか。少し粗いところでは1ミリに1本くらい。。緻密でより細かなところでは、1ミリに2.5本くらい。
そうだとすると、平均的には1cmに20本以上。
盤の幅は33cm余りですので、20本だとすると、20x33=660本。
あるいは、25本だとすると、25✕33=825本。
私が虫眼鏡で数えたところでは、全幅で800本ぐらいの木目を数えることが出来ました。
おそらくは1000年以上の筋の良い素直な大木から木取りしたのだと思います。

なお、「榧」といえば、今は綾営林署が有名ですが、聞いたところでは(確証はありませんが)、この盤は、綾の隣の高岡営林署区域で採れたものとのことを聞いております。
因みに、現在の高岡営林署にはほとんどありませんが、100年くらい前の高岡には、綾、以上に「良い榧」があって、それは大正時代の頃に採りつくされたそうです。

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実力名人戦ゆかりの盤の揮毫

2024-12-11 17:11:21 | 写真

12月11日(水)、曇り小雨。

実力名人戦ゆかりの盤、裏面の揮毫と覆い蓋。
先程、撮影しました。アップします。


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25年前の話、その3

2024-12-11 06:22:21 | 文章

前回の続きです。

その頃、私は日本将棋連盟の月刊誌「将棋マガジン」で、執筆をしており、名人戦米長名人対羽生挑戦者、第2局の取材で愛知県蒲郡の銀波荘へ行っておりました。

楽屋裏の控室では、立ち合いの先生、新聞記者に交じって私も話し込んだりしていたのですが、担当の加古明光記者に「この前、昭和10年に始まった実力名人戦ゆかりの将棋盤を手に入れました。それには昭和11年2月と関根名人の署名と、贈・阿部真之助殿とある」と話したところ、その盤を次の第3局に持ってこれるか」とのこと。
私は飛び上がって喜んで「ハイ、持ってゆくようにします」。
その3週後、奈良から山口県にある湯田温泉へ。

対局前日の検分でのこと。対局場には、2面の将棋盤が中央に並べられており、やがて対局者が入室。
一方の盤は既に予定されているモノで7寸近く、その横が私の盤で高さは5寸2分。その差は5センチくらいの違いがありました。
やがて、加古記者から、こちらは「実力戦ゆかりのもの」だとの説明があって、部屋は暫し静寂。
その間、およそ2分ほど。私は下手の片隅で息を殺しての緊張で、長い時間でした。

やがて、米長名人。「ヨシ、二つの盤を日替わりで使おう」。
私はホッと力が抜けたようで、初日に使っていただくことになったのでした。
盤には、米長名人によっての「曙」に、両対局者の署名。
「曙」は、将棋界の曙となった実力名人戦ゆかりの盤、という意味を込めて、これは私が寝ながら考えたもので、丁度その頃、横綱・曙も誕生し、私にとってはこれを取り持った加古記者の名前、明光(=曙)ということ
も含めてのものでした。


この続き。まだまだ。
ではこの次に。






 

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25年前の話、その2

2024-12-10 17:10:57 | 文章

先の話の続きです。
この盤、さてどうするか。
ブログではどうするかと段落をつけましたが、その時の私は、とにかく買いたい気持ちいっぱいでした。

「この盤は、どうして手に入れたのですか?」と聞くと、「この間、さるお屋敷で披露販売会があって、立派な碁盤、将棋盤がいくつも並んでいました。その中で、これを落札したわけです」。
「そうですか。その、さるお屋敷というのは文京区では?」と問うと、「よく分かりましたね。しかし、それ以上のことは、商売上の仁義なので話せません」。

私には、実は思い当たることがありました。
と言いますのも、あるとき上京して、よく立ち寄っていた水道橋のM碁盤店を訪れたときのこと、店主曰く「文京区に財閥の当主がいて、その人は碁盤、将棋盤の収集が趣味で、すばらしいのをいくつも集めて、自分でも脚を作ったりで、鋸の目立てやノミの研磨などをこちらがやっている。時々ここにも来るのだが、今はコレクションの収納展示室を普請中で、その内、お屋敷にお連れしようか」。「ハイ、普請が終りましたら、連れて行ってください」と。
だが、最近になって尋ねたときには「あの話、当主が亡くなってしまった」と。残念に思っていたところだったので、骨董屋の話にピーンと反応したのでした。

ところで、示された値段はかなりなもの。我が家の経費の半年分くらい。
ザーッと盤を確認して、「買いたいと思っている。だが相談するところもあるので2~3日待って欲しい。それまでは厳重に箱に入れて、キズがつかないように、奥に直しておいてほしい」と、あわただしく、千葉に向かいました。
その途中、どこだったか、総武線の乗換駅で時間があったので、家内に電話。「東京に将棋盤があって、このようなモノはこれからは出会わない。コレコレの値段だが、許可が欲しい」ということで、許可を得て、骨董屋に「買うことにした。値段はこれぐらいにしてほしい」と。購入契約を終えたのでした。

話は、まだ続きがあります。
それはこの次。



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25年ほど前の話

2024-12-08 17:08:50 | 文章

12月9日(月)、曇り。
今日も寒く、ブルブル震えました。

今は日本国中そういうこと。しばらく辛抱して春を待つことにします。

コメントで将棋盤について、最上品は天地柾だと書きました。
その天地柾の中でも「すだれ柾」が最上級ということになるでしょう。
すだれ柾は、木口の年輪模様が簾(すだれ)のように、上方から真っ直ぐ下にタラタラと垂れていて美しく、その数は少なく、私はほんの数台しか見たことがありません。

ところで、先日書きました「名人戦創設ゆかりの盤」ですが、その入手した時の経緯を思い出しました。
もう、25年以上(実際は28年くらいかもう少し)前のことです。
ある時、出張で上京して、仕事前にいつものように、上野池之端にある櫛店「十三や」さんを尋ねようと御徒町で下車し、商店街にある骨董店のウインドウの蒔絵の盤を見つけました。
この骨董店は、「十三や」さんに行く前後に良く立ち寄る店で、この日もそうでした。
ウインドウの盤は吉祥の貝の漆蒔絵がしてあって、貝は少し膨らんだり凹んでいたりとリアルそのもの。値段を聞くとかなりなものであった。その盤の蒔絵がこれ。

値段は少し高かったので、多少値引きしてもらって、思い切って買うことになった。

それから2カ月したある日のこと。
その骨董屋から電話があって「熊澤さん。またすばらしい将棋盤が入りました。どうですかネ?」と。
盤はもちろん日本榧。細かな柾目で厚みは五寸5寸2分。蓋には十三世関根名人の署名と揮毫があって、贈・阿部真之助殿とある。」とのことだった。
ウムム。これはただなならならぬものだと直感。詳細を尋ねました。
その結果、「分かりました。二~三日中に伺います。それまでは暗いところにしまっておいてください」と。
 ということで、急遽、千葉工場での仕事を作り、そのついでに(ついででなく、これが本命なのですが)骨董屋さんに立ち寄りました。

店の前に行くと、ウインドウに飾ってあるではないか。
これを見た私は、すぐさま「盤をむき出しで、ウインドウに飾るのは盤の為にならない。すぐに引っ込めてください」と言って、しげしげと眺めました。
盤は思っていた以上。まぎれもなく、昭和10年に始まった実力名人戦に関わるものだと分かりました。
「それにしても、このような盤はどうして手に入ったのですか」と尋ねたところ、「過日、さるところで内覧会があって、そこには立派な碁盤、将棋盤がいくつもあって、私はこれを落札しました」と。
「その内覧会は文京区のコレコレではないか」というと、「商売上の仁義で、詳しくは言えないが、よく分かりましたね」と。

実はその前に、水道橋にあったM碁盤店で「文京区にあるさるお屋敷の大企業の当主が、碁盤、将棋盤を集めるのが趣味で立派なものをたくさん集めていて、この間は、熊澤さんとそのお屋敷に、その内、一緒に見に行こうかと言っていたが、先ほど亡くなってしまった」と、聞いていたところだったのでした。

示された値段は、当時の我が家の年間家計費の半分くらい。それでも欲しいと思いました。
さてどうするかです。

この続きは、後ほど。


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出会いと幸運の女神

2024-12-08 11:53:57 | 文章

12月8日(日)、晴。
今日は、昨日より寒くなりました。

手元の「将棋ペン倶楽部・秋号」を読み返していると、水野保さんが書かれた「実力名人戦の発足ー関根金次郎十三世名人とその時代」という一文を見つけ、その中で、オヤッと眼についた下りがありました。

この中で下段に、関根名人が、当時の主催社学芸部長の阿部慎之助さんに贈った盤のことが書かれていて、それは小生が所有する将棋盤ですが、近年になって3回の名人戦に使われたことも書かれています。

チョッと宣伝がましいですが、記憶に従って少し書き足しておきますと、1回目は米長名人対羽生挑戦者戦(山口県湯田温泉)で、盤へは米長名人に「曙」の揮毫と対局者二人の署名をしていただきました。
それから12年の2回目は、森内名人対谷川挑戦者戦(石川県辰口温泉)。さらに12年経っての3回目は、佐藤天彦名人対羽生挑戦者戦(奈良県興福寺)。

1回目は、2週間前に行われた名人戦の控室で、担当記者の加古明光さんに「昨年、コレコレの名人戦創設に関わる将棋盤を手に入れた」と話したところ、「次の第3局に持ってこれるか」との誘いがきっかけで、山口県まで自分で運ぶことにしたところ、幸い、使われることになりました。
第2回目は、能美市にある北陸科学技術先端大学院大学(飯田先生)から、講演で呼ばれて日本旅館「まつさき」に泊まった時、社長に将棋タイトル戦に相応しいと説明し、「開催を希望してはどうか」と持ち掛けたのがきっかけで、幸運にも翌年の名人戦6局で、開催が実現した経緯があります。
第3回目は、地元の奈良県ということで、将棋連盟にお願いして使っていただいたきました。
以上のことはいづれも、出会いと幸運の女神がなされた結果であり、関係皆様と幸運の女神に感謝感謝、であります。

 

 

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迷惑メール

2024-12-07 21:11:37 | 文章

11月7日(土)、晴。

今日も寒かった。

まあ、これぐらいが平年並みのように思います。
それにしても、変な迷惑メールの多いこと。
騙しも多い。
何とかならないものか。

毎日、何件もあって手を変え品を変え、多い時は10件を超える。
勿論、これらに関わることはしないが、毎日、抹消するだけで手間がかかる。

このような迷惑メールを無くす(少なくする)ための方策だが、
メール発信に課金するようになれば、と思う。
例えば、1件当たり1円とか2円で良い。
勿論、普通のメール発信にも払うことになるが、それは仕方がない。
容認するとする。
一方、迷惑メールの発信だが、おそらく何千件、何万件。
否、機械的で、もっともっと発信数は桁違いのはず。
そうなれば、1件1円でも、発信元にはかなりの額が課金されよう。
そうにはならないものだろうか。



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駒の写真集

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