先にアップした文章は、文字数に制限があり、1500文字以内に収まるように手を加えました。再度、アップします。
熊澤良尊
今年82歳になった。駒づくりを趣味として始めたのが
30歳。やがて駒の歴史研究にも興味を拡げてライフワー
クとなり、52歳で早期希望退職した後は生業として今も
続いている。
前回は2冊目の本「駒と歩む」上梓について書いた。今
回は生涯の目標となった本物の「水無瀬駒」との出会いに
ついて述べる。
◇
水無瀬駒は約400年前に作られた。最初に出会ったの
は駒づくりを始めて間もなくの頃。日本美術の本に古い駒
の写真があって、それは大阪府島本町にある水無瀬神宮に
遺されていて、見たいと思った。
その話を何気なく職場で話したところ、上司の石田さん
が「島本町なら叔父貴が町会議長をしている」。渡りに船
で、願いが叶った。
将棋の歴史は出土駒や文献により平安時代まで遡ること
が出来る。さらに推理すれば、我が国に将棋の原型が渡来
したのはそれより何百年か前のことであろう。
駒が我が国独自の五角形になったのは古人の叡智であり、
伝来まもない頃だと考えてよい。しかし、古い出土駒の多
くは薄っぺらい板切れ(ヘギ)を適当に五角形に切り出し
ただけのもので、駒の文字はおもいおもいの筆致で墨書し
た粗末なものばかり。
対して、初めて見る水無瀬神宮での水無瀬駒は見惚れる
ほどの格調の高さ。優美な漆による肉筆で、いにしえの能
筆家による「古筆」を思わせた。材は黄楊(ツゲ)。五角
形の姿形は丹精で、玉将の尻底の「八十二才」は、作成し
た年齢を示している。作者は水無瀬家13代の水無瀬兼成
である。
水無瀬忠寿宮司は「ここには歴史の学者先生がしばしば
調査に来られるが、将棋の駒はあなたが初めて。これも将
棋の関係ではないか」と奥から虫食いがある和紙の綴りを
出してくれた。表紙には「将棋馬日記」(馬は駒のこと)
とあった。
小生は、和紙を破らないように恐る恐る一枚一枚剥がし
ながら眼を通す。書き始めは天正19(1590)年で、慶
長7(1602)年まで。この13年間には関ケ原の戦い
があって、兼成の駒制作と譲り先の記録だと分かった。
総数737組。譲り先は「上」(天皇)、「関白」(秀
次)をはじめ、多くの公卿や歴史に名を残す武将の名が続
々と。リピータも多く水無瀬駒が当時の上流社会で如何に
愛好されたかを示している。
中でも徳川家康は、天下分け目の戦いの前後の数年間に
53組を手にしており、部下や敵将たちに意を込めて渡し
たに違いない。水無瀬駒は大いに珍重されて、天下分け目
の戦いの勝利に少なからず寄与したと思われる。
これらのことは、これまで歴史研究者にも全く知られて
いなかったことで、「将棋馬日記」は、この時代の歴史の
ヒダを物語る貴重な史料だと知り、持つ手と心が震える思
いがした。
駒づくりと水無瀬駒研究を続けて50年。今は88歳ま
で続けたい。そう思っている。
(了)
次回、某会誌への投稿原稿を作っているところ。
来年の印刷なので、年齢はその時のもの。途中段階ですがアップします。
本物の水無瀬駒と出会って
熊澤良尊
今年、82歳になった。駒づくりを趣味として始めたのが
30歳。やがて駒の歴史研究にも興味をひろげてライフワー
クとなり、52歳で会社を早期希望退職し、生業として今に
至っている。
前回は2冊目の本「駒と歩む」上梓について述べた。今回
は生涯の目標となった本物の「水無瀬駒」との出会いについ
て述べる。
◇
水無瀬駒は約400年前に作られた。それに最初に出会っ
たのは駒づくりを始めて間もなくの頃。日本美術の本に古い
駒の写真があって、それは大阪府島本町にある水無瀬神宮に
遺されていて、見たいと思った。
早速、水無瀬神宮へ「拝見させてほしい」と手紙したが、
返事がない。その話を何気なく職場で話したところ、上司が
「島本町なら叔父貴が町会議長をしている」。渡りに船と、
すぐさま取り成しをお願いしたところ、すんなりと願いが叶
った。
将棋の歴史は、出土駒や文献により平安時代まで遡ること
が出来る。さらに推理すれば、我が国に将棋の原型が渡来し
たのはそれより100年200年、あるいはさらに前のこと
であろう。駒が我が国独自の五角形になったのは、古人の叡
智であり、伝来まもない頃と考えてよい。
しかし、古い出土駒の多くは、平べったい板切れ(ヘギ)
を適当に5角形に切り出しただけのもので、駒の文字は思い
思いの筆致で墨書した粗末なものばかり。
対して、初めて見る水無瀬神宮での水無瀬駒は、見惚れる
ほどの格調の高さ。優美な漆による直筆で、いにしえの能筆
家の「古筆」を思わせた。作者は水無瀬家13代の水無瀬兼
成である。
材は駒に最適材の黄楊(ツゲ)。五角形の姿形は丹精。玉
将の尻底に書かれた「八十二才」は、作成した年齢を示して
いる。
水無瀬忠寿宮司は「ここには歴史の学者先生がしばしば調
査に来られるが、将棋の駒はあなたが初めて。これも将棋の
関係ではないか」と、奥から厚み5ミリほどの虫食いがある
和紙の綴りを出してくれた。表紙には「将棋馬日記」(馬は
駒のこと)とあった。
緊張しながら和紙を破らないように恐る恐る一枚一枚剥が
しながら眼を通す。書き始めは天正19(1590)年で、慶
長7(1602)年まで。この13年間には関ケ原の戦いが
あって、兼成の駒制作記録だと分かった。
駒の記述の一組ごとに小将棋(駒数40枚の現行将棋)、
中将棋(同92枚)、大将棋(同130枚)などの種類と、
素材、それに譲り渡し先の名が添えられていて総数737組
を数えた。
譲り先には「上」(天皇)、「関白」(秀次)をはじめ、
多くの公卿や歴史に名を残す武将の名が続々と。リピータも
多く水無瀬駒が当時の上流社会で、如何に愛好されたかを示
している。中でも徳川家康は、天下分け目の戦いの前後の数
年間に53組も手にしている。部下や敵将を含め、周りに意
を込めてこれを渡したに違いなく、当時の水無瀬駒は大いに
珍重されて、戦いの勝利に少なからず寄与したと思われる。
これらのことは、これまで歴史研究者にも全く知られてい
なかったことで、「将棋馬日記」は、この時代の歴史のヒダ
を語る貴重な史料だと判り、持つ手と心が震える思いがした。
以来50年。駒づくりと水無瀬駒研究を続けて、今は88
歳まで続けたい。そう思っている。
(了)
- 11月5日(木)、曇り。
昨日から、原稿を書いている。出来上がるのは明日。
以前勤めていた会社のOB親睦会誌への投稿原稿で、A4、1枚と少しだが、元々、筆は遅くざっと3日がかり。
その間の駒づくりは、1寸刻みである。
ところでどこかの国。
分からないことが多く、触ることもはばかられるので、この程度に止めておく。
先日、このブログでビックリしたことがあった。
いつもは、400人から500人台。
ところが、昨日は1600人以上。
ビックリした。
何がそうさせたのか、不明。
こんなこともあるんですね。
11月4日(水)、晴。
本日の映像は、「八十二才の水無瀬兼成の筆跡に倣った玉将駒」。
文字はもとより、駒形、大きさも八十二歳の駒に倣って作りました。
(箱の台座の布模様は3種類ありますが、特定はできません)
先の「水無瀬駒見学会」のために作りました。
少し多めに作成して、ご希望の方に頒布したいと思います。
価格は一つ送料税込みで1万円。
希望者はコメントで、お名前と返事先のメールアドレス、あるいは電話番号をお知らせください。
在庫限りの限定ですので先着順とし、「可、不可」はご返事します。
「可」の場合のみ、代金をお送りください。到着次第、発送します。
今日2回目のアップです。
というのも、今日はラジオで国会中継が流れていました。
しかし、最近はほとんど私の耳には入らなくなりました。
それは特に、石破さんの答弁です。
何んでかということですが、石破さんに、信用が持てなくなったからです。
それまでは、信念の人だと思っていたのですが、さにあらず。
首相になった途端、それはがたがたと崩れてしまったのです。
国会中継では、辻本清美さんが、それを言っていました。
首相になった途端、それまで言っていたことを180度翻して、周りに同調したかのように変化。
首相の座に固執し、石破さんは首相になりたかっただけの人だと分かったからです。
それ以降は、何を言っても信用のおけない人だと思っています。
それだけです。
人間は信用が第一。
にも関わらず、首相になった途端、周りに同調して、自分の地位と安全に固執する。
そんな首相は、誰が信用するモノか、です。
私が石破さんに聞く耳を持たないのは、それが今も続いているからです。
これからも続くでしょう。
一方、野党第一の立憲民主党。
昔、民主党が政権を持った時もそうでした。
中国船から故意的な接触事故があった時、オタオタしての腰抜け対応。
福島の原発事故でも、放射線物質が漏れだした時、緊急避難を呼びかけることなく、「直ちに人体への影響はありません」と、近隣住民を欺いた当時の官房長官。
その人が、今でも大きく幅を利かせているのです。
このことも忘れておりません。
日本の行く先は、真っ暗。
そう思います。
国民の一人として、どうすれば良いのでしょうか。
この2~3日は、「水無瀬駒見学会」と、「マイナンバーカード」(健康保険証)について、触れました。
結果、何人かの方から、応答するコメントをいただきました。
ブログをやっていて、無反応の一方方向でなく、応答や何かの反応をいただくことは、続ける動機付けにもなり、大変ありがたいものです。
ありがとうございます。
ですが、多くの方は引っ込み思案なのか、思ったより少ないのですね。もう少し多ければ、さらに力になり、もう少しいただければ、さらに嬉しく。
勿論、反論でも構わないのです。
今後とも、よろしくお願いします。
12月3日(火)。只今、0時を過ぎました。
眼が覚めたので、パソコンに向かっています。
昨日から、新しい健康保険証の発行が取り止めになったニュース。
ですが、私は最後まで、これを使い続けます。
近年、愚策は多い中で、今回の健康保険証発行廃止は超愚策。「天下の大愚策」です。
そうは思いませんか。
それを無理やり推し進めようとしている政府と、河野なんとか大臣の強引さ。
多くの国民と、医療機関が困っています。
その陰には、厚生省役人と何も語らない石破首相。マスコミのテイタラク。
この国の将来が見えません。
私に出来ることことは、この程度のつぶやきであります。
それにしても、今なら健康保険証の全面使用停止は、マスコミの力で思い止めさすことが出来るのではないでしょうか。
その風が吹くことをあきらめきれません。
皆様は、どう言う思いでおられるでしょうか。
赤くなったモミジの大鳥居と山門をくぐって、境内に。
山門を入ってすぐの左には、ポリタンクを抱えた10人を超える人の列。
「水無瀬に出でる水」を求める人たちで、これはいつものこと
正面が拝殿。左には社務所。その間が客殿で、今日の会場。
靴を脱いで、中に上りました。
今日の参加者は、23名ということで聞いていましたが、1時間以上も前なのでまだ、誰も来ていません。
奥の別座敷には今日のメインとなるお宝が準備されていて、前もって下見することにしました。こんな感じです。
30分前になると三々五々、少しずつ増え始めました。
まだ少し時間があるので、皆さんと雑談。
といっても、この雑談の双方向コミニケーションは貴重で、緊張が和らいで、今日の雰囲気づくりにも役立ちます。
14時きっかりに満杯になりました。
遠くは九州長崎、関東は群馬、東京、千葉からも。
やがて、主催者側の総合司会があって、いよいよ私の出番。
その時の映像ですが、中央最前列の方が、ニッコリと。
先ずは、参加者皆さんへの敬意の言葉から始めて自己紹介のあと、今日お渡ししている資料類は「水無瀬駒」の大写し映像コピー、島本町教育委員会発行の小冊子「水無瀬駒」等々で、その確認。
次に、「水無瀬神宮に遺されているお宝は何があるか」の再認識をして、その一つ一つの説明を約1時間。
その後がメイン、お宝の見学で、3組に分かれて、別室での対面でした。
その間、待ち時間を利用して、小生が「玉将」とか「観」とか、各人の希望を聞いて即席の墨筆も。
その後は、本物の「水無瀬駒」等を見ての感想等、質疑応答の時間。
これが活発に20分ほど。
織豊時代の研究を専門にされている学者先生も二人参加されていて、「水無瀬神宮にこのような貴重な馬日記があるのは知らなかった」など、ご感想もお聞きできたのは、小生、望外のことでもありました。
そんなあんなで、予定きっかりの16時。今日の「水無瀬駒見学会」が無事終りました。
終了後、みなさんの感想アンケート全てに目を通して、帰宅が20時。
皆さんの帰宅は、いつになったでしょうか。
やあ、お疲れさんでした。
12月1日(日)、晴。
午前中の8時半。群馬県からのお客様。
その方が、持ってこられた「駒」。彫り駒でした。
箱は小生のタイプではなく、誰かが作った駒なんだろうと思いながら、「淇洲、シッカり彫られている駒ですね」と。
しかし、ジッと眺めているうちに「アレッ。ひょっとすると私の駒?」と尋ねると「そうです」。
聞けば、四日市「東海将棋ファンの集い」で買っていただいたとのこと。
「アッ、そうですか。漆は黒漆でなく木地漆。40年くらい前の駒ですね。少し思い出しました」と。
こんな会話をしながら、10時過ぎに、そのお客様の車で水無瀬神宮へ向かう。
24号線を北へ。八幡あたりから淀川を渡って大山崎に。
それを左に。やがて水無瀬の里の辺りで、軽い昼食。
丁度、1時間の行程でした。
水無瀬神宮の前に、島本町歴史資料館に立ち寄って、ここには、以前、小生が作った「小将棋駒」と「中将棋駒」、水無瀬駒のレプリカが2組展示されていました。
でも永年、展示ブースに入れっぱなしの為か、木地表面のしっとり感が消え失せていたのが、気になりました。
水無瀬神宮には、12時半に到着。
映像は、大鳥居をくぐって赤くなったモミジの参道の情景。
山門をくぐると、ここに湧き出る「お水」を求める人の行列。
相変わらず10人を超える人々。静かに行儀よく並んでおりました。