1966年の第3回日本グランプリに出走したデイトナ・コブラです。
フォードV8、4727ccのエンジンを積んだモンスターマシン、運転するのはデビュー3年目、弱冠23歳の酒井正というドライバーでした。
前日の予選は大雨の中で行われたため、大排気量の車には不利な条件となり、そのせいかカーナンバー21のコブラは最下位からのスタートとなってしまいました。
16位からスタートしたコブラは1周目に5位に上がり、その後着実な走りで42週目には2位に付けました。
46周目にコース上でストップ、そのままリタイヤとなってしまいました。
記録ではエンジントラブルとなっていますが、一説にはガス欠だったとの話もあるようです。
このミニカーは京商製、コブラのアメリカンスタイルが良く表現されていると思います。
台座の端には「コブラ」のエンブレムが付いているのがちょっと珍しいです。
このあとのレースで全日本SⅡクラスのチャンピオンとなった酒井選手は、翌1967年の第4回日本GPには2リッターのポルシェカレラ6(カーナンバー7)で出場しました。
予選は生沢徹選手についで第2位。
決勝ではスタートと同時に飛び出し3位をキープ。生沢選手の乗るカレラ6と高橋国光選手のニッサンR380とがもつれあってスピンする間に首位に立ちます。
その後追い上げてきた生沢選手と激しい首位争いを繰り広げますが、46周目に30度バンクでスピンしてコースアウトしリタイヤしてしまいます(優勝は生沢選手でした)。
腕と足に怪我を負い救急車で運ばれた酒井選手ですが、数ヵ月後に行われた「全日本スポーツカー船橋」という大会ではあのデイトナ・コブラで優勝しています。
1968年の日本GP、酒井選手はタキ・レーシングの一員としてローラT70Mk2というクルマで出場しました。
エンジンはシヴォレーV8、5500ccの大排気量マシンです。
予選は4位。
エントリー直前にエンジンを積み替えたりして必ずしも調整が十分とはいえないクルマに乗ってこの順位はそれほど悪い結果ではなかったのですが、決勝レースでは6周目にコース上でストップしてしまい最下位に転落、結局17周でリタイヤするという不運な結果に終わりました。
ちなみにポルシェカレラ6とローラT70MK2はエブロ製です。
酒井選手は1969年の日本GPにも安田銀治選手と組んでローラT160というクルマ(エンジンは何と7600cc!)でエントリーしていますが、予選10位、決勝では1周目でミッション・トラブルのためリタイヤしてます(ですから酒井選手はドライブする機会がなかったのではないかと思われます)。
決勝の結果がぱっとしないせいなのか、残念ながらこのミニカーは発売されていません。
エブロさんあたりで発売してくれないものでしょうか?
酒井選手はその後1971年度の初代富士グランチャンピオンシリーズの総合タイトルを獲得するなどした後、1973年に引退しご自分のチームを運営されていましたが、2001年4月に58歳の若さ(今の私と同年齢)で亡くなりました。
常に華々しいスポットライトを浴びていたとはいえない酒井正さんですが、一部のファンに強烈な印象を残していったドライバーの一人だったような気がします。
今回、記念すべきデイトナ・コブラを入手することができたので、酒井正さんというドライバーと日本GPにまつわるお話を書いてみました。
フォードV8、4727ccのエンジンを積んだモンスターマシン、運転するのはデビュー3年目、弱冠23歳の酒井正というドライバーでした。
前日の予選は大雨の中で行われたため、大排気量の車には不利な条件となり、そのせいかカーナンバー21のコブラは最下位からのスタートとなってしまいました。
16位からスタートしたコブラは1周目に5位に上がり、その後着実な走りで42週目には2位に付けました。
46周目にコース上でストップ、そのままリタイヤとなってしまいました。
記録ではエンジントラブルとなっていますが、一説にはガス欠だったとの話もあるようです。
このミニカーは京商製、コブラのアメリカンスタイルが良く表現されていると思います。
台座の端には「コブラ」のエンブレムが付いているのがちょっと珍しいです。
このあとのレースで全日本SⅡクラスのチャンピオンとなった酒井選手は、翌1967年の第4回日本GPには2リッターのポルシェカレラ6(カーナンバー7)で出場しました。
予選は生沢徹選手についで第2位。
決勝ではスタートと同時に飛び出し3位をキープ。生沢選手の乗るカレラ6と高橋国光選手のニッサンR380とがもつれあってスピンする間に首位に立ちます。
その後追い上げてきた生沢選手と激しい首位争いを繰り広げますが、46周目に30度バンクでスピンしてコースアウトしリタイヤしてしまいます(優勝は生沢選手でした)。
腕と足に怪我を負い救急車で運ばれた酒井選手ですが、数ヵ月後に行われた「全日本スポーツカー船橋」という大会ではあのデイトナ・コブラで優勝しています。
1968年の日本GP、酒井選手はタキ・レーシングの一員としてローラT70Mk2というクルマで出場しました。
エンジンはシヴォレーV8、5500ccの大排気量マシンです。
予選は4位。
エントリー直前にエンジンを積み替えたりして必ずしも調整が十分とはいえないクルマに乗ってこの順位はそれほど悪い結果ではなかったのですが、決勝レースでは6周目にコース上でストップしてしまい最下位に転落、結局17周でリタイヤするという不運な結果に終わりました。
ちなみにポルシェカレラ6とローラT70MK2はエブロ製です。
酒井選手は1969年の日本GPにも安田銀治選手と組んでローラT160というクルマ(エンジンは何と7600cc!)でエントリーしていますが、予選10位、決勝では1周目でミッション・トラブルのためリタイヤしてます(ですから酒井選手はドライブする機会がなかったのではないかと思われます)。
決勝の結果がぱっとしないせいなのか、残念ながらこのミニカーは発売されていません。
エブロさんあたりで発売してくれないものでしょうか?
酒井選手はその後1971年度の初代富士グランチャンピオンシリーズの総合タイトルを獲得するなどした後、1973年に引退しご自分のチームを運営されていましたが、2001年4月に58歳の若さ(今の私と同年齢)で亡くなりました。
常に華々しいスポットライトを浴びていたとはいえない酒井正さんですが、一部のファンに強烈な印象を残していったドライバーの一人だったような気がします。
今回、記念すべきデイトナ・コブラを入手することができたので、酒井正さんというドライバーと日本GPにまつわるお話を書いてみました。
コブラ、大好きな車です。
酒井正さん、この方の持ち込む車にはいつもワクワクしていました。
タキレーシングのような組織の方では無かったはずですから『この人はきっとお金持ち』という印象でしたね。
すこしアウトロー的な雰囲気もこの方の魅力だったと思います。
この頃のレースは面白かった.....と思わずつぶやくのは年取った証拠でしょうね。
また色々紹介してください。
楽しみにしております。
今回調べていて、実績のある方なんだと再認識しました。
1968年の時にはタキ・レーシングがトヨタ・ニッサンに対抗して3台のローラT70をそろえて参戦したので、大排気量マシンを操れる腕を見込まれたのだと思います。
今回のブログには書きませんでしたが1966年の日本GPはポルシェカレラ6や優勝したプリンスR380だけでなく、トヨタ2000GT、ジャガーXK、それに排気量が1300ccに満たないロータスエリート、アバルトシムカ、ダイハツP-3などが走りました。さぞかし面白いレースだったんだろうなあと思います。