松静自然 -太極拳導引が教えてくれるもの-

松静自然とは落ち着いた精神情緒とリラックスした身体の状態をいい、太極拳導引の基本要求でもあります。これがまた奥深く…

練習メモ_集体練習2016

2016-01-12 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
今年もまた2月の大会に向けた練習が始まっている。
今回の集体も2演目でエントリーした。
24式太極拳と陳式太極拳。

24式太極拳は、基礎科の面々から
挑戦してみたいとの表明があって決まったもの。
日頃は基礎套路となる9式を練習しているので
かれらにとっては初めての挑戦となる。
専科からも有志が参加するのだけれど、
今は基礎科のメンバー中心で練習している。
どことなく緊張感みたいなものが漂っている。
微笑ましくもあるけれど、
なるべく緊張しないですむような
自分の内なる環境をととのえる経験も
少しずつ積むことができるようにと願う。

動作を真似るといっても、
予想した動作とそうでない動作とでは
心理的にはまったく違ってくる。
まずは套路が頭に入っていること。
それは緊張や不安を軽減させるための
準備にあたる。
そしてこの準備はある程度
自分でととのえることができる。
だから必要条件と言ってもいいだろう。
だいたいの流れのイメージだけでも
頭に入っていると、自分自身がラクになれる。
ほんの少しの心的ゆとりが
動きにさえ落ち着きをもたらしたりする。
完璧とはいかなくても覚えようとつとめることが
次の機会にかならず活きる。
主体的に行えばこその財産となる。

これは専科演目の陳式にも言えること。
自分を筆頭に
まだちょっと準備が不足してるように感じる。
この一年で修養してきた導引三調に基づき
それぞれができる準備をして、
集体としての導引三調をととのえていくことが
今回の目標となるのかもしれない。
まずはできる準備は不足なくやることだよと
自分に言い聞かせている。

太極拳養生という考え方-私見・太極拳導引02-

2015-12-30 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
これはあくまで個人的な見解ですが、
師が指導する太極拳導引は、
太極拳鍛煉と導引の養生理論を組み合わせて
養生の考え方を知識にとどめず
身体を動かす実践によって紹介する手法として
くふうされたものだろうと(私は)考えています。

養生は、その考え方を理解することと
日常的に実践することで効果を発揮します。
しかし現状を見渡せば
健康によいとか身体によくないといった
情報ばかりが溢れかえり、
そのために徒に翻弄されているようにみえます。
健康を考える上で基礎となるであろう
本来の自然な状態とはいかなるものなのか、
その根源的なイメージすら見失っているような。
これでは理解や実践どころではありません。


私が理解した範囲でのことではありますが
養生の基本となるのは
食べる・動く・眠るの3要素に
集約されるように思います。

現代人が訴える不調の原因と考えられるものも
これら3要素にかかわっているといえます。
そしてこれらは自分の意志で
コントロールできるものばかりです。
つまりは自分のペースで自分の生活環境に合う形で
くふうができるということです。
だからこそ養生という(健康への)アプローチは
いまを生きる人達にとって
欠かせない知性ではないかとも思っています。


ということで、改めて太極拳導引について。
太極拳導引は3要素のなかの
運動からのアプローチとなります。
運動といえば真っ先にスポーツを思い浮かべますが、
ヒトは動物なわけですから、
ここは日常生活動作全般とする方が
より自然かと思います。
そして生活とは生命活動です。
いのちを永らえようと活動できるおかげで
生きていると考えれば、
いのちに備わっている運動能力との協同作業を
養生と呼んでも間違いではなさそうな気もします。

協同作業は互いに助け合いながら行うものです。
からだの声を聴くという言い方をするように
助け合っていくには
相手の言い分に耳を傾けることが欠かせません。
思い(意)のままに
身体をコントロールしたいのならば、
その思いと身体の状態とがつりあうように
双方を調整する(ととのえる)必要があります。
それが協同作業だと思います。

太極拳導引の練習法を続けていれば
この協同作業を日々修養していることになるわけですね。



太極拳養生という考え方-私見・太極拳導引01- 

2015-11-26 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
導引は古代中国の人々が行っていた体操のような運動です。
そんな大昔から健康のための体操が存在したことに
まずはビックリしてしまいますが、
体操とはいっても、はり灸や方剤(薬)、按摩と並ぶ
医療としての位置づけにありました。

太極拳の起源は400年くらい前
(明代末~清代初めの頃)といわれています。
太極拳は武術でありながら
古代哲学に基づいた理論要諦があり、
それに則って鍛煉することで
闘いに耐え得るような丈夫な体をつくり
故障しにくい効率的で洗練された体の使い方を
修養せしめることから
中国文化の精華とも呼ばれるような存在なのだとか。

だから太極拳は(古代中国に生まれた)導引の考え方も
引き継いでいるとは言えるのですが、
導引と太極拳とは同じということにはなりません。
厳密にいえばそういうことになりますが、
一般的にはそんなことは
どうでもいいことなのかもしれません。
太極拳導引も太極拳の一面であることに
違いはないのですから。

太極拳の懐はもっともっと深くて広い。
もし太極拳が山だとしたら
太極拳導引はその山の持ち味の一つであり
登頂へのひとつのルートでもあるのです。
そんな太極拳に親愛と敬意を感じ、
太極拳導引というルートで歩み出したのが私です。
まだまだ途上であることに変わりはないのですが、
練習体験や師との意見交換を通じて理解し得たことを
自分のことばで表そうと試みることも
練習になるのかもと思い始めたこの頃です。


練習メモ_導引三調13

2015-11-01 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
太極拳導引ではその鍛錬内容である
調身・調心・調息の3つを称して
導引三調と呼んでいます。




調子(リズム)と調和

これまでは三調の「調」を調整(ととのえる)でみてきたが
今回は調子(リズム)という視点からみてみる。
そうすると
 調身…身体の調子
 調心…情緒の調子
 調息…気息の調子
ということになるかと思う。

調子はリズムであり
動きや流れのひとつの現象といえるかと。
リズムは運動であり
時々刻々と変動しつづけている。
そして身体・情緒・呼吸という三つのリズムもしかり。
なおかつ相互に影響しあっている。
だからこそ協調や調和というような
バランスの概念もうまれてくる。
それぞれの調子は独自のリズムをもっているから
それらが互いに影響し合って
全体としての一つの調子をつくり出している。
したがって調子のよしあしとは調和の問題でもあるかと。
調和の乱れはバランスの崩れ。

そして身体にはバランスが崩れたら
崩れたなりのバランスをとって
一時的にしのげるだけのバランス修正システムが
もともと備わっている。
導引三調は、そのシステムが機能しやすいように
体内外のバランスをととのえる手段のひとつなのだろう。
それはあくまでも本来のシステム機能を
支援するようなアプローチの仕方で。
つまりは身体の状態を観察するような
意識の使い方なのかなと。
いわゆる心身一如に基づく調和、和みを
目指すことなのかもしれないと思っている。





練習メモ_導引三調12

2015-10-14 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
太極拳導引ではその鍛錬内容である
調身・調心・調息の3つを称して
導引三調と呼んでいます。



観察ツールとしての調息

導引三調(調身・調息・調心)の調を
どのようにとらえるか。
それはどのようなみかたかといえば
「ととのえる」とみるのか
「ととのう」とみるのか、とでもいうような。
微妙といえば微妙な違いだが
主体のありか、意識の方向の違いがみてとれる。

個人的な見解ではあるけれど、
呼吸法の研究は自然呼吸の観察から始まったのではないか。
呼吸が変化する要因を探るうちに
身体面や情緒・心理面の動きや変化とのつながりに
気づいたのかなと。
そこから呼吸を意図的にととのえることで
身体動作や情緒面心理面にも変化がうまれるのではないか
そのような仮説をたてて研究検証が続けられ
発展してきたのではないのかなと。


そのように考えると自然呼吸で行う太極拳導引における
調息の調はととのうなのかな。
本来的には息がととのっている状態であることなのかも。
したがって練習中の息の状態を意識する(観察する)ことが
調息の基本なのかも。
意識的に呼吸をおさめようとするのではなく
身体の使い方(動かし方)や情緒・心理面の状態の結果が
呼吸の状態に反映されるとするスタンス。

呼吸導引で練習している自然呼吸のあり方が
太極拳導引が目指す呼吸の状態で
その呼吸の状態に近づいたときの身体感覚や心理状態を
呼吸導引練習で養っているのではないか。
呼吸導引でいま現在の自分に適した呼吸状態をつかみ
次に太極拳の動作練習に入る。
身体動作や情緒・心理状態は時々刻々と変動する。
そのなかで呼吸はどのように変化しているかを観察する。
いま現在の自分に適した身体の動きができていて(調身)
情緒・心理面も落ち着いていれば(調心)
呼吸も穏やかな自然呼吸となっている(調息)のではないか。

もし呼吸に乱れや硬さ、
息づかいの様子などが違ってきたら
身体の使い方や動き、情緒や心理面への意識濃度を
少し上げてみる。
そうして呼吸が自然呼吸に戻るまで
できるだけ焦らず落ち着いて身体的調整を繰り返す。
もちろん身体や情緒の状態を
目安としても構わないと思うのだが、
状態の変化のわかりやすさという点では
呼吸なのかなと感じたので
自分はそっちからのアプローチが多いのかもしれない。

意識的に呼吸をととのえるというのは
意外と難しかったりする。
呼吸導引練習でもそうなのだが
意識すればするほど身体がかたくなったり
できないことがプレッシャーとなって
心理的にも負担が増すのは茶飯事。
呼吸導引は苦手と感じる人もいると思う。
私もそうだった、と過去形にしていいのか?とも
思うほど苦手なのだ。
一つには疾病履歴も影響するが
とにかく呼吸にまつわるトラウマがあったのも事実。
二つには、何かにつけ委ねることが下手で苦手なこと。
ついつい自分でしないと納得できないタチだから
呼吸も制御したくなる。委ねベタの緊張しい。
そんな自分の資質を受けとめてつきあうにしても
調息からのアプローチが有効なのかなと思い始めたり。


たかが呼吸、されど呼吸。
呼吸運動は生きていることの証でもあるが、
呼吸しているから生きているとみるのは体外からの視点で
生きているから呼吸するとみるのは体内からの視点。
こうした双方からの視点を持ち合わせる習慣をつくれるのも
太極拳導引鍛錬の成果のひとつかもしれない。


練習メモ_導引三調11

2015-09-29 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
太極拳導引ではその鍛錬内容である
調身・調心・調息の3つを称して
導引三調と呼んでいます。



調息と呼吸導引

太極拳導引では緊張するような状況を極力避ける。
初級レベルであれば
練習中に何度か息を止めていないか
慌ててはいないか、落ち着いているか
というような注意喚起をすることがある。
一所懸命に集中する対象に意識が向きすぎれば
他へ向くはずの意識は総じて薄くなってしまう。

意識の過不足による影響は連鎖的に広がる。
自分のことくらいはわかっている気でいたけれど
じつは分かっていないんじゃないか?
このような自らの心身へ向けた謙虚なまなざしが
内観には欠かせないのかもしれない。

最近になって調息についても
その解釈を少しばかり見直し始めている。
調息は自発的に呼吸の仕方を変えるなどして
調整すること、意識で呼吸をコントロールすること
と理解してきたが、
もしかするとそれだけではないかも?と思い始めたのだ。

太極拳導引の練習内容のなかには
呼吸導引という練習法がある。
これは自分のできる範囲(=自然呼吸で行える範囲)で
呼吸は細く長くゆっくり均しくして
過不足なく十全に行うもの。
細く長くゆっくりで均しい呼吸は
あくまで自然呼吸で行われるものであり
深呼吸にはならない。
もし練習中に呼吸が苦しくなってきたとしたら
それはどこかで無理をしている(緊張している)から。
また深呼吸になってしまうのも
それもどこかに無理があるということになる。


太極拳導引における鍛錬とは
過不足のない十全たる状況を目指すことであり
備わった資質を活かしきるための身体の使い方や
心のあり方を発揮するためのもの。
そして十全を目指している限り限界は無となる。
なぜなら我慢とか耐えるような状況がないからだ。

もし耐えたり我慢していると感じたら
それはどこかで無理をしているのだと思う。
どこでどんな無理をしているのかは
個人によりまちまちだろう。
本来の資質を十分に発揮せずに抑え込むことも
現状の資質以上を求めることも
どちらも無理をしているとはいえないか。

呼吸導引は呼吸に集中することで
心身にひそんでいる無理に気づく感覚を呼び覚まし
その精度を磨きあげるような気がする。
やがてそれが調息につながっていくのではないかと。


「無理せずできることだけを十全に行う」
これは呼吸導引に限らず太極拳導引のキモなのかなと
自分では思っているのだが、はたしてどうかな。

練習メモ_導引三調10

2015-09-18 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
太極拳導引ではその鍛錬内容である
調身・調心・調息の3つを称して
導引三調と呼んでいます。



気息(呼吸)の調整

調息の「息」とは気息のことで
今で言うところの呼吸を意味する。

息は会意文字に属し、自と心を合わせたもの。
自とは鼻のことで
“いき”の出入りするところをあらわしている。
心気(しんき=心の気)が
鼻から出入りする“いき”を「息」と表記した。



太極拳導引は鼻から吸って鼻から吐き(鼻呼吸)
自然呼吸で行う。

鼻呼吸は呼吸の仕方(呼吸スタイル)であり
自然呼吸は呼吸の状態かなと、現状では解釈している。

例えば速く激しく動いたり心理的に緊張すれば
呼吸は浅くなり呼吸数も増えて激しい息づかいとなるし、
座したり横になったり、
あるいは心理的に平静なときの呼吸は
比較的深めでゆっくり落ち着いた状態となる。
このような心身の状況に応じて自ら変化する呼吸を
自然呼吸(自然な呼吸状態)と呼んでいる。
これはなにも特別な方法ではなく、
だれもがごくごくふつうに行っているものだ。

呼吸に限っていえば
自然のままに行うこともできるし
意識的にコントロールすることもできる。
それゆえに古くからさまざまな呼吸法が編み出され
健康法としても広く普及している。


呼吸法という枠組みでみれば
自然呼吸もそのひとつということになるかと。
しかし自然呼吸が他の呼吸法と大きく違う点は
生まれながらに備わっている
その人固有の先天的な呼吸スタイルであること。
つまりデフォルト仕様みたいなものかなと
個人的には思っている。
かたや他の呼吸法は意識的に修得することで、
はじめて手に入れられるものであり、
本来の呼吸スタイルをカスタマイズした
後天的な呼吸スタイルである。
そのように考えてると、呼吸の本質みたいなものは
自然呼吸にあるのかなと思えてくる。

太極拳導引が自然呼吸で行う根拠も
もしかしたらこんなところにあるのかもしれないなと。



練習メモ_導引三調09

2015-09-01 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
太極拳導引ではその鍛錬内容である
調身・調心・調息の3つを称して
導引三調と呼んでいます。



 「天下水より柔弱なるはなし(天下莫柔弱於水)」

天下莫柔弱於水 而攻堅強者 莫之能勝 以其無以易之
弱之勝強 柔之勝剛 天下莫不知 莫能行
是以聖人伝 受国之垢 是謂社稷主 受国不祥 是謂天下王
正言若反


道徳経(老子)の一節。
水の性質を比喩として「柔よく剛を制す」の視点から
老子の考える治世(政治=まつりごと)における理想の姿を説いている。

俗にいう「水の徳」を説くカテゴリーに分類される内容で
この中には有名な「上善水のごとし」の一節も含まれる。

水の柔弱性を説いたこの一節では
水は柔弱であるがゆえに固定した形をもたない。
そのため器に応じて方円自在に姿を変える柔軟性に優れる。
その一方で水は滴に姿を変えれば
堅固な岩をも貫通させるほどのつよさも備えている。

自己主張をひそめ周囲に合わせる行為は
外見上は主体性を感じさせないようにみえるが
自らの意志で(意を用いて)受け身に転じることは
内なる自分を外圧から守護する力を持っている。
いたずらに心を弱らせたりプライドを傷つけずにすむ。
いわゆる心が折れるなんてことには
ならなくてすむかもしれない。

挫折は昔からあったことだけど、
これまでは挫けたり凹むくらいで
おさまっていたのだけれど、
昨今の心は折れてしまうものらしい。
こんな表現が流行るくらいだから
よほどかたく強ばっているんだろうなあ。

世の中の仕組みが変わったのか
人の志が変わったのか。
柔弱なるものへの眼差しの向け方を
すこし見直してみればいいんじゃないのかな。




道徳経にはこんな一節もある。

「人の生まるるや柔弱(人之生也柔弱)」

人之生也柔弱 其死也堅強 
万物草木之生也柔脆 其死也枯槁
故堅強者死之徒 柔弱者生之徒
是以兵則不勝 木強則折 強大処下 柔弱処上

人の誕生と死滅、草木の芽生えと枯死に喩えて
いのちの本源は柔弱にあると説いている。


草木の若芽は柔らかく弱々しい。
だから陽光を浴びやすい上方や枝先に集中させる。
そうやって次々と若芽は生育し
強く堅い幹や枝は下部にあってそれらを支えている。
下部にあるということは、より土に近いということだ。
土といえば五行(木・火・土・金・水)の要素でもある。




ここ数回にわたり、やわらかさや剛柔について考察してきたのは
この数ヶ月間、集中して陳式套路を練習してきたことも影響している。
陳式套路を用いて導引的練習を続けて行くにあたり
いわゆる発力動作というものと
どのように向き合い取り組めばいいのか。
このあたりについて師の見解をきいてみたかったからだ。

師の見解は簡潔だった。
その解説も丁寧でわかりやすかったと思う。
だが身体を通して得心するまでには
もう少し時間を要するだろうなあ。


水は器に従い方円自在に姿を変えるほどに弱々しいが
滴となって岩をも貫通するほどの強さを秘めている

導引三調とはやわらかな身体と
その核(芯)となる意を養うためのものなのかも。
そして用意不用力への礎となるのだろう。



練習メモ_導引三調08

2015-08-28 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
太極拳導引の鍛錬内容は
調身・調心・調息の3つを称して導引三調と
呼んでいます。


「やわらかさ」と「かたさ」について

調身で求める動きのやわらかさが
「柔」であることはわかった。
ついでといってはなんだけど、
やわらかさの対語でもある「かたさ」についても
ちょっと調べてみた。(新選漢和辞典・第5版・小学館より)


柔の対語となるかたさは「剛」。
軟の対語は「硬」。

剛…かたい・こわい、くじけない
【解字】リットウは形、岡が音をあらわす形声文字で
リットウは刀であり、岡には堅いの意味がある。
剛は刀の刃がかたいことを表わし「かたい」「つよい」の意味となった。


硬…かたい・つよい
【解字】石が形と音をあらわし(形声文字)、
更には固くてつかえるとの意味がある。
硬はかたい石をいう。

両者ともにかたいのだが、
形声文字としての成り立ちの形の部分が
はっきりと違うことがわかる。

剛は「刀のようなかたさ」
硬は「石のようなかたさ」のイメージか。


そして刀にもしなりと呼ばれるような弾性がある。
ということは調身が求めるやわらかさ(柔)とも
関係性がありそうだ。

用意不用力を理解するためのヒントがここにもありそう。
柔らかな動きにはいくつものレベルがある。
そしてより柔らかな動きを求めていくことは
かたさからはどんどん遠のいていくようにみえるが、
柔らかさへの理解が深まることで
かたさの種類やレベルなどがわかってきたりする。
そうやって練習を続けて行けば、
あるときふっと剛なるものを体感したりするのだろう。



「天下水より柔弱なるはなし」
道徳経・老子のなかの一節にもあるように
柔弱なることからのアプローチは
まさに導引的だなと思う。


練習メモ_導引三調07

2015-08-17 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
太極拳導引の鍛錬内容は
調身・調心・調息の3つを称して導引三調と
呼んでいます。


調身が目指す「やわらかさ」

導引は全身をまんべんなく動かす体操に近いのかもしれない。
つまり動くようにできているところは
くまなく動かすように意識して行う。
ふだん動かしていない、動きの少ない部位に気づいたら
意識しながら動かしてみようというもの。

太極拳導引は、ゆっくりと動くことで
全身の動きの状態を自らの意識を用いて確認する。
具体的には関節と筋肉を意識的に導いて動かして行く。

導引が目指す動きの様態は「やわらかさ」といわれる。
それは「柔らかさ」であって「軟らかさ」ではない。
「柔」と「軟」とでは、やわかさの意味あい(質)が違うのだ。

ということで、久々に新選漢和辞典(第5版・小学館)で調べてみた。


柔…やわらかい・安らかにする・やわらげる・弱い・もろい

【解字】木が形を表わし矛が音を示す(形声文字)
(矛は音に関係はなく)柔を会意文字とする考え方もある

矛とはいわゆる「ほこ」(武器)のことで、
ほこには弾力のあることが求められる。
また、矛は新しく芽の出る意味ともいわれ
木の芽が初めて出てやわらかく弱々しい様をいうことも。


軟…やわらかい・ぐにゃぐにゃなこと・かたくるしくない・かよわい

【解字】クルマへんが形を表わす。車の振動をやわかくするために
車輪に蒲(ガマ)を巻き付けた(タイヤの起源か)ことによる


どうやら両者の特徴と思しきポイントは
柔=弾力のあるやわらかさ
軟=ぐにゃぐにゃしたやわらかさ となるようだ。

弾力を感じさせるやわらかなイメージは
風船やボールのようなやわらかさ。

一方のぐにゃぐにゃしたやわらかさのイメージには
一度へこんだらへこんだままになる
たとえば粘土のようなやわらかさなのかなと。



太極拳導引に求められる
動きの柔らかさ(調身の目標)とは
どういうものなのか。

師にいわせれば円であると。
円をイメージさせるような動きだと。
曲線であったり螺旋であったり。
たとえば書家の筆使いのようなものかなと
個人的には思ったりしている。

弾力…弾むような力とは何か。
単にやわらかいのではなく力強さがある。
武器の「ほこ」とはまさに矛先と言われるように
最先端にあって相手と直に交わる。
矛の性質をフルにいかすための身体操作を練り上げる。
筆先も同様の柔らかさ・しなり・張り感があり
それを自在に操っているのも書家の身体操作かと。

けっして手先の動きだけではないはず。
身体操作の巧拙が矛や筆の動きとなって現れる。
そして身体操作には意が反映されている。
表現を通して伝わっているものは
各人の意ということになるのかもしれない。

柔らかさは意の柔らかさでもあるのか。
円は意のイメージでもあるのか。
円心とはそういうことでもあるのかもしれない。
ならば円心力とは? 円心力で動くとは?




久々の更新となってしまいました。
書き留めたいことはいくらでもあるのに
なかなか向き合うことができませんでした。
心理的にも時間的にも落ち着いていられなかった。
すべて余裕がなかったんですね。
こういうときこそ導引三調が肝要なのですが…
まだまだです。