松静自然 -太極拳導引が教えてくれるもの-

松静自然とは落ち着いた精神情緒とリラックスした身体の状態をいい、太極拳導引の基本要求でもあります。これがまた奥深く…

練習メモ_導引三調06

2015-06-17 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
養生というのは結局のところ
動(運動)・食(栄養)・休(睡眠)の
三要素と取り組むことになる。

取り組み方としては
どこからアプローチしてもOKであること。
だが、これらはひとつとして欠かせないものであること。
ここが重要。
どれか一つだけに絞るとか
これだけはパスというわけにはいかない。
つまり全く無関心というものがなければ
三要素への比率のバランスが三角形状となるのかな。
まずは三角形を意識してみようか。

三角形の大きさにはこだわらない。
小さな三角形でも、
なるべく正三角形になるような意識をもつ。
意識しようとすることが大切かと。
とくに意識してこなかったこと・ものに対して
改めて意識を向けてみること。
何かにつけて意識してみる習慣づけが
養生のコツへとつながったりするんだろうか。

そして太極拳導引の場合。
導引は養生の三要素のなかの
動(運動)からのアプローチとなる。

導引の起源は古く中国伝統的医療法の一角を担う。
つまりは養生の考え方と同根(同源)である。
そして導引の考え方は身・息・心の三要素からの調整。
つまり運動の「動」を身体動、呼吸動、情緒動の3つに分け、
相互に関連しあう性質を利用しつつ調整を促す。

運動をスポーツとして捉えてしまうと
鍛錬はトレーニングという理解に止まってしまうのかも。
太極拳導引を始めて久しいが
太極拳導引の鍛錬にトレーニング的要素をみたことは
たぶんないんじゃないかと思う。
部分を意識することはあっても
全体があってのパーツという認識がつねにあり、
全体との整合性を求めている。
部分に特化した集中の仕方はしてないなあ。

いまこの瞬間のベスト・パフォーマンスを体現するための
ベストバランス(平衡)を求める。
心技体というのもそういう意味合いだろうと思う。

身・息・心の「息」は自と心に分解される。
呼吸は心の影響(有り様)を受けるんだなと。
自他の自があることで自らの意識的な呼吸で
心を制御することもできるんだなと。

心が不安定なときは身体を動かしてみる。
身体的不調を感じたら心の状態を慮ってみる。
心身の変化が現れるのが呼吸の状態だったりするのだろう。

産声は呼気、末期のひと息は吸気だという。
息ははじまりとおわりの表現運動でもあるのだ。
導引三調はいのちの営みの調整でもある。


練習メモ_導引三調05

2015-05-08 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
このところは虚実分明をテーマに練習中。
太極拳導引は内部環境の調整に取り組むので
虚実の関係性もまずは体内に限ってみていくことに。

虚実の関係性というと双重の概念が
セットになってくるようなところもあるが
運動が連続していく仕組みを理解すれば
おのずとわかってくることだし、まあぼちぼちと。


イメージと体感の精度が上がるにつれて
動きに求める内容も繊細になってくる。
微妙なバラツキが出たとしても
それに対応した動き方を選択し実行できれば
破綻は生じない。
ある一定のレベルの動きを維持できるのは
それなりの整合性がとれてくるからだろう。
上達とはそういうことなのかな。

動きばかりではなく心理的な面にも虚実の関係性はある。
いまこの瞬間、現実の動きを実、
それと並行して次の動きを予測し思い描く虚。
虚→実→虚→実→虚
虚実の振幅が繰り返されて連続性となる。

気の迷いは停滞、滞留、淀みを招く。
しかしまだ全身が停滞しているわけではない限り
たとえかすかであろうとも流れていると
感じる身体への全幅の信頼があれば
停滞で通りのよくない部分を
意識で徐々に通るようにすることができる。
調心が調身へと導く。
平静な心は調息から導かれる。

停滞、滞留、淀んだ状態は双重に等しいものかと。
虚実分明は動きだけに限ったことではなく
決断することが分明を導くこととなる場合もある。

かねがね太極拳導引がメンタル面においても
好影響を与えているように感じているのは
個人的にはこのあたりを意識しているところがあるかな。

練習メモ_導引三調04

2015-04-12 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
新カリキュラム実施から1ヶ月が過ぎた。
専科の練習内容は
いまのところ動作解説が中心となっている。

三調を目的とする練習は
各自の理解位置がそれぞれなので
基本練習の繰り返しとなっていくかと思う。
理解位置とは理解を深める段階、ステップのなかで
それぞれの現在位置が異なっているという意味。
理解の程度が足りないとか
ペースが遅いというようなことではない。
したがって具体的に何を練習しているかは
理解の位置に応じて各自違ってくる。
たとえば、毎回取り上げる動作が異なることで
毎回違うこと(=新しいこと)を練習していると
思う人もいれば、同じことをやっていると
認識している人もいるわけだ。
その位置ごとの理解を深めることが次へとつながる。
これも自然の流れなので、それはそれでいいのだ。
良し悪しの問題ではない。


練習している動作は毎回違うが
アプローチはすべて一貫している。
重心、部位、方向。なぜこの3つなのか。
自分のいまの状態に気づきやすいからじゃないか。

三調は心と呼吸と身体からととのえることだが
それにはいまの状態を知ること体感できる、
現状をありのままに感じることが必要だろう。
(調子の良し悪しの判定ではない)

重心、部位、方向という項目は
とくに身体の動き方のチェックポイントとしては
観察しやすく気づきやすいのではないか。

重心のありかを意識しながら動きを観察する。
特定の部分を意識しながら動きの状態を観察する。
方向を意識しながら動きを観察する。
このように、いちいち意識的に動くことは
手間ヒマかける面倒なことでもあり
中には苦痛に感じる人もいるかもしれない。
でも、こうして手間ヒマかけることが
気づきを促す観察なのかなとも思うこの頃。
観察できる状態というのは
対象を客観視できることであり
冷静な集中状態にあることなのかなとも思う。

身体の使い方やものの見方、考え方にもクセがある。
クセは習慣化した潜在化した無意識化したもの。
各人各様の固有な仕様(個性)となるのだけれど
それでもある程度の共通した様態というものがある。
そういう要素を凝縮させたものが基礎・基本なのかも。
自分の動き方などを
基礎・基本という眼差しを介して観察してみる。
そこから何を感じたか。実践検証だろうな。

基本練習の繰り返しが続くとしたら
それは本流につながる流れだと思って間違いない。

練習メモ_導引三調03

2015-03-25 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
導引三調についての解説を受けた後は
練習で実践していくことになる。

今年は専科会員から希望が多かった内容も
練習時間枠に盛り込まれている。
身体をならした後に
全員で一回同じ套路を行う手順は
従来と変わらないのだが、
今年は春季は陳式、夏季は孫式、秋季は24式と
予め練習套路が決められており、
その期間は指定された様式の動作を題材に
導引三調を鍛錬していくようになった。
したがって現在は陳式。
套路としては36式を取り上げている。


基本的には套路練習は最初の1回のみで
導引三調の練習は単式動作で行う。
まだ始まったばかりということもあるが
単式動作の解説は型・動きの解説から始まり
動き方(動作要領)と続く。
どうもこの動き方の解説が曲者に思える。

動き方は見え方でもあり
どうしても視覚情報で動こうとする。
見た目の動作手順を覚える段階の人が多ければ
どうしてもパーツ(部分)ごとの動きを
強調する教えになる。
いいかえれば全身一体となった動き、
連動した本来の動きを分解してしまうことになる。

もう少し先の段階にある人は
その部分を自分で補正していく必要がある。
(それはそれで練習となるわけだが)
つまり目前の解説を聞きながら
本来の動作をイメージングしていくことになる。
総体をイメージしながら部分ごとの動きをみる。
それもまた意を用いる練習につながると思う。

導引三調の理解と実践が目的なのだから
そこを見失ってしまうと
なんとなく物足りない練習となってしまう可能性がある。
単式動作でも、その総体の動きや流れを
明解にイメージングできていれば
いくらでも細かく動きは分解していけるし
細かくなればなるほど
いくらでも気づくことはでてくるのではなかろうか。

意識が細部まで行き届くほどに
動き方は慎重になり微妙な変動に緊張が増す。
筋肉や神経の緊張にもいろいろあることがわかってくる。
たとえば適正かつ必要な緊張と
そうでない緊張があることなどなど。
そのさじ加減が三調の状態にかかわっているなと
わかってきた。
自分の感覚が敏感な方向やそうでない方向なども
今後もっと明らかになってくるように思う。

また、導引三調をさらに細かくすれば
これまでの個別テーマになるわけだから
引き続きそのテーマに絞って練習することだって
導引三調の鍛錬と何ら変わらない。
導引三調という山を登るのに際して
師は頂きのある方向を示してくれている。
どのルートを採用するかは人それぞれ。

動作要領中心の指導となっても
師に確認し検証することはいくらでもできると思う。
そういう味わい方もありじゃないのかな。



練習メモ_導引三調02

2015-03-20 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
・導引とはどんなものなのか。
大雑把に分類すれば体操ということになるのかも。
ヨガなどとも相通ずるものがあると思うし
医療法として認知されてきた歴史的実績をもつ
伝統体操とでもいうのだろうか。

・導引の目的とはどんなものか。
体内環境をととのえること。

では、体内環境がととのうというのは
どういう状態をいうのか。
体内環境を左右するものには
どんなものがあると考えられているのか。

体内環境がととのった状態にあれば
そわそわと落ち着かなかったり、イライラしたり、
ふさぎ込んだり倦怠感や憂鬱だったりもせずに
穏やかに過ごせる(気が和んでいる状態)。
体調に関しても食事・排泄・睡眠などのリズムも安定し、
痛みや違和感もとくに気にならない。
要するにとくに好不調の波を感ずることもなく
リラックスしている。
このように気の状態と体の状態が互いに影響しあうことで
好調・不調が現れてくると考えられる。
なかでも体内環境により影響すると思われるのが
気の状態だろう。
気は呼吸など生理機能(体のはたらき方)に影響を与える
いのちの有り様に直接的に影響していると考えられると
いってもいいかと思われる。
したがって導引で体内環境をととのえようとすることは
いのちの根元にはたらきかけるようなものかと。
古くから至高の目標は赤ん坊と語り継がれてきたのだろう。


導引三調とは調心・調息・調身のこと。
伝統的体操(導引)の理論をもとに
具体的にはたらきかけていく対象が心・息・身なのだ。
そしてその手段として用いるのが意である(用意)。

心はいわゆる情緒面のこと。
感情が生じることは自然なことだが
それに振り回されたり、
いつまでも引きずったりすることなく
平静な状態(平常心)に立ち戻るのを好しとする。
 無情(感情の揺れ幅を抑える→冷静・落ち着き)
 無欲(練習中は結果より経過→今に集中する)
意を用いてそのようにととのえる(調心)。

息は呼吸のこと。
初期段階は導引練習中でも平時と変わらずに
自然な呼吸ができるようになる。
次の段階になると
自然呼吸の状態がより深く長い呼吸へと進化する。

呼吸は自律神経がつかさどっている機能のなかでも
自らの意によってコントロールすることができる
唯一の機能だからか、
これまでにも多く呼吸に関する訓練法や健康法が
編み出されてきた。
導引では自然呼吸に基づいて呼吸の深さ(深呼吸とは異なる)
長さや息の太さ細さ(ゆっくりとした呼吸)といった
呼吸の質を、意を用いてととのえる(調息)。

身は五体の動きのこと。
太極拳導引では太極拳の動きの特徴でもある
円心(重心)の動きを使って動くのを第一に練習する。
重心の動き幅は両足間となり
重心は前後左右上下と立体的空間を移動する。
安定感のある体の動き方は
体の関節や筋肉の使い方の良し悪しが影響する。
安定した動作となるように意を用いて
身体をととのえる(調身)。

心・息・体は日常でも反射的な反応をおこしやすい。
息をのむ(息を詰める)、緊張する、興奮するなど
思わず出てしまう反射的行為だからこそ、
だれにでもそれと分かりやすい。
しかも相互に影響しあっているから、
どれか一つをととのえることで
連鎖的に変化がおこる可能性も十分にある。
したがって状態の変化にも気づきやすくなるだろう。
つまり意を用いてコントロールする練習には
格好の素材ともなる。

こうして調心・調息・調身によって
意を用いる練習ができ、
自らを総体的にととのえることもできるわけだ。


練習メモ_導引三調01

2015-03-19 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
朋昌会では2月の渋谷大会が終わると
年間カリキュラムが更新されます。
ということで今月の練習会からは
新内容で行っています。



専科クラスではここ数年、
月ごとに練習課題を変えてきたのだが、
今年からはこれらを総括した導引三調として
年間を通して練習していくことになった。
導引三調とは「調心・調息・調身」のことで
これまでも折にふれて繰り返し解説されてきたもの。

ところで導引の起源は非常に古いものだが
現代人に比べれば昔の人は
もっと身体を使っていたといわれているのに
そんな大昔の人ですら体操のような運動を
必要としていたのかと驚く。

ただ当時はだれもが医師のてあてを
受けられるわけではなかったから、
自分の身は自分で護るものと考えるのが主流かと。
武術が広く普及した背景にも
そのような事情もあったとされる。

おそらくは導引を必要としていた人達というのは
どちらかといえば労働をしなくてすむ階級層や
比較的身体的負荷の軽い労働をしていた人かとも思う。
肉体労働を中心にした人向けというよりは
運動不足が原因で体調を崩す人に向けて
意識的に運動させようとの目的で
導引はうまれてきたのかもしれない。
ヒトが運動不足を意識しだしたのが
昨日きょうのことではないというところに
深く感ずるものがある。


大会を終えて

2015-02-26 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
今年も渋谷区民太極拳大会に参加しました。
朋昌会としては2回目となります。

今年は基礎科クラスから初出場の仲間がいましたので
初めてならではの緊張感を漂わせる仲間の存在が
心地よい刺激となりました。


今年は個人部門の参加を見合わせました。
家の事情もありましたが、
自身でもいろいろと思うところがあって
決めたことです。
その代わりといってはなんですが
朋昌会でエントリーした集体2演目については
両方参加しました。


この時期の練習会の練習内容は
大会に向けたものが中心となるので
久々に集体練習に集中することとなりました。
練習会のない日々の練習内容も
集体を意識した個人練習となりがちです。

父の介護が始まってから自主練時間も減り出し
朋昌会の練習会も週1回参加に。
年々練習時間が減っていたところに
さらに今回はほぼ練習会での練習だけ
といってもいいくらいの状態で
本番を迎えることになりました。

でも、なんか…思いの外よかったかも。

練習量は少なくとも
やり方しだいでなんとかなる。
気持ちと身体の状態が程よく中和していれば
そこそこ動けるだけの蓄えはある、
そんな状況だったのかな。
それと集体だったことも幸いしたと思います。
個人と集体とでは練習も違いますから。

総じて練習量が減ってしまった分
体力や運動量の低下はハッキリ自覚していたし、
もしこの状態で自主的に集中練習を敢行していたら
故障や怪我をしたり、疲労を貯め込んだ状態で
大会を迎えていたかもしれません。

まだいける、まだいけそう

気持ちでぐいぐい引っ張って
身体もついてくるような年代ではないのだなと、
改めて思わせてくれたというべきか。
そうか、そうか…
残念とか悔しいといった感情は
不思議と湧いてきませんでした。
想像していた以上に淡々と受けいれてましたね。

なんだ、ちっともショックじゃないんだ。
年を重ねて衰えていくことへの
漠然とした不安ばかりが大きくなり
ちょっと怯えすぎてたのかもしれません。
ことに老親との暮らしが主軸となって以来、
自分がいまの親の状態になるまでの残り時間を
カウントダウンしはじめたり、
その時までに準備すべきことを考えたり
思い悩んでみたり。
行く末を案じすぎて
いまを愉しむチャンスを逃すようでは
それはたぶん本末転倒となるのではなかろうか。

いまだからできることがある。
いまならではの愉しみ方、味わい方があると
信じてやってみて好いんじゃないのかな。

だって、いまこの瞬間がいちばん若いんだもの



肩の力がまた少し抜けたことで
これまでにない自身の内なる世界を
見出したような今大会でした。






練習メモ - 評価はいらない -

2015-01-27 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
前回の練習メモ(集体練習03)で触れた
動きの分割についての補足です。


動きの分割とは
アニメーションを何枚ものセル画に
分割して描くようにして
動きをコマ割りで体感してみることを
個人的にそのように呼んだもの。

例えばA地点からB地点への
動作の移ろいをコマ割りで描くとする。
移動時間は同じという条件で
コマ割り数が4つの場合と8つの場合とでは
どんな違いがあるのか。
コマ割りに描いたものを重ねて
パラパラとめくると
動いているように見える。
つまり同じ動作で同じ時間で動き終わる条件で
4コマと8コマのものがあるということ。

目につく違いは滑らかさの違いかな。

仮に一周する円運動を描いたとする。
これを4枚に分けて描くと
円周に4つの点ができる。
この点を結べば四角形になる。
同様にして8枚に分けて描く場合は
八角形になる。
どっちがより円に近く見えるか。
滑らかさとは
そういうことなんじゃないかなと思う。

たしかに滑らかな動きは美しくみえる。
円や球体には安定や調和も感じるだろう。

太極拳導引で求める協調性の象徴は
形すらない融合にみる調和だと思っている。
粗-滑、遅-速、硬-軟などは象であって
比較したりして優劣を問う必要はない。

各象にはそれぞれの象にかなった調和がある。
その調和を求めることが目指すべき方向だ。
一回の動きにその時にしかない調和を求める。
体勢と動きのバランス、
動きと速度のバランス、
心と体と動きのバランス…。

粗い象につりあうバランスがととのっていれば
滑らかさに匹敵するような美しさや安定が
備わっていると思う。
各自があわてず落ち着いて
それぞれのバランスでととのえていく。
たぶんわれわれが集体で目指す調和は
そういうことなんじゃないのかな。


前回の内容ではなんだか
粗い動きは良くないみたいな印象だけを
残して終わってるように感じたので
追記してみたしだい。


練習メモ(集体練習03)

2015-01-25 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
集体練習(孫式38式)は全体練習の前段階
個々で動作の確認をしている。

仲間の練習をみていると面白くなる。
一様にそれぞれの“らしさ”が
にじみ出ているから。
だからアドバイスを求められたときには
その人らしさに則った伝え方が
できることが理想なんだとは思うのだが
自分の体でつかんだものを
相手に伝わりやすい表現に変換するのは
なかなかうまくいかない。
自分の流儀で説明することで
精一杯の段階なのだろう。
相手には申し訳ないなと思う。

後になって、ふと気づいたことがあった。
彼の動きがどうも粗くみえるような気がする。
彼の動き方は速くない。
せっかちな一面を持ちながらも
むしろ動作をできるだけ分解して
一つずつ丁寧に理解しようとしている。
動きに多少の硬さがみえるのは
早く理解したい思いが強いからで、
一過性のものだから早晩解消されるもの。
私のような緊張しいタイプとは質が違う。

ここでいう粗さのイメージとは
たとえばパラパラ漫画で表現する
動きの分割画の多少のようなもの、
アニメーションでいえば
何枚分のセルに分割して描き分けているか
というようなもの。
つまり彼の動きのイメージが
何枚分のセル画で構成されてるのか
という目安を私が把握しておらず、
彼の動きに自分のセル画を重ねていたのではないか
と思い当たったわけけ。

だから流れがしっくりこないと感じている
彼の感覚は、その意味で間違ってない。
彼のセル画数と私のとは違うからだ。
彼は彼のセル画数の動き方をすれば
よいのではないか。


練習メモ(集体練習02)

2015-01-22 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
今年の集体演目は孫式太極拳(38式)。

個人で練習するときは
正しい(落ち着き安定した)動きの確認を
メインで行う。
できる範囲でゆっくりと動き
協調状態を細かくチェックしていく。
意識は隅々まで自在に移動できるか
状況に応じて意識配分ができているか
いつでも修正に対応できる
準備(余裕・落ち着き)が保たれているか
その他諸々のチェックする。


実際の表演では制限時間や楽曲など
さまざまな条件がつきもの。
今回は通常練習よりも
速めに動くことになるので
正しい動きの確認は
さらに入念にと思ってはいるのだが。
このままではマズイぞと気づく頃には
既に修正もままならない状態だったりで
先を見越す力が足りない。
まだまだ磨きをかける必要がある。

いくらそれらしく取り繕ったつもりでいても
内なる制御が稚拙であれば
内外の調和はいつ破綻してもおかしくない。
つまり砂上の楼閣よろしく
不安定な状態に変わりはないわけで。
それを自身の体を通して
読み取れるようになっているのだから
それはそれで向上といえるのかな?
いや、向上というよりは
むしろ確認できたってことかもしれないな。