あけましておめでとうございます
十干十二支では癸巳(みずのとみ)にあたる今年。
干支は、幹を干、枝を支として
要は植物の生長になぞらえて
その過程をあらわしているわけです。
癸は十干の最後ですから
ひとつの生命体の最終段階にあたります。
実を残して自らは枯れる。
終わりは始まりでもある段階。
大きく転ずる、変化する時期です。
これまでの仕組みや働き、価値観など
いろいろな場面で
大きく揺さぶられるんだろうなと思います。
ものごとの本質をみきわめる
根源的なものに立ち返るときなのかもしれません。
また十二支の巳という漢字には
包(旧字体では中が己ではなく巳)に含まれる
巳と同じ意味、つまり胎児の意味をあらわすとも
いわれてます。
というわけで、個人的には
命とか生存にかかわるようなこと、
生き延びる努力を問われるような気がしてます。
そこまでの気力が意志があるのかと。
活かされるのは生きてこその話だろうと。
でも、だからといって危機感をもって
サバイバル的に取り組もうというわけではないのです。
昨年末の国政選挙の結果をみても
この国のバランス感覚はあまりにお粗末。
ことあるごとに内外から揺さぶられ
試され続けることになるのだろうと思います。
そうした意味では
漫然と過ごすことはできなくなりそうだなと。
そして我が身においては
老親のこともいくばくか背負って
頑張ってきたつもりでいましたけども、
自分の足腰の限界を超えれば
無理というもの。
気持ちの問題で解決できないこともあります。
やはりどこかで自分が可愛いくて
自分がラクになることを考えてしまう。
振り子はいつも揺れ続けており
自分自身のことすらも最低限のことさえも
できずにいたりするのです。
いまだに肚が座っていません。
そんな自分の精神的支えでもあった
太極拳導引教室も閉鎖となり
新たな環境で自分達の団体として
太極拳導引を続けて行くことに。
まずはこの一年をなんとか無事に乗り切りたい。
基盤づくりの一年です。
どこを向いても転機を迎えています。
自然の営みはどこへ向かおうとしているのか。
いま改めて古人が残してくれた教えなどを頼りに
さまよっています。
まあ、なるようにしかなりませぬ。
山あり谷ありのように見えても
たいていのものは平らに戻ります。
そんなものであります。
ということで、
今年もぼちぼちとやっていきます。
十干十二支では癸巳(みずのとみ)にあたる今年。
干支は、幹を干、枝を支として
要は植物の生長になぞらえて
その過程をあらわしているわけです。
癸は十干の最後ですから
ひとつの生命体の最終段階にあたります。
実を残して自らは枯れる。
終わりは始まりでもある段階。
大きく転ずる、変化する時期です。
これまでの仕組みや働き、価値観など
いろいろな場面で
大きく揺さぶられるんだろうなと思います。
ものごとの本質をみきわめる
根源的なものに立ち返るときなのかもしれません。
また十二支の巳という漢字には
包(旧字体では中が己ではなく巳)に含まれる
巳と同じ意味、つまり胎児の意味をあらわすとも
いわれてます。
というわけで、個人的には
命とか生存にかかわるようなこと、
生き延びる努力を問われるような気がしてます。
そこまでの気力が意志があるのかと。
活かされるのは生きてこその話だろうと。
でも、だからといって危機感をもって
サバイバル的に取り組もうというわけではないのです。
昨年末の国政選挙の結果をみても
この国のバランス感覚はあまりにお粗末。
ことあるごとに内外から揺さぶられ
試され続けることになるのだろうと思います。
そうした意味では
漫然と過ごすことはできなくなりそうだなと。
そして我が身においては
老親のこともいくばくか背負って
頑張ってきたつもりでいましたけども、
自分の足腰の限界を超えれば
無理というもの。
気持ちの問題で解決できないこともあります。
やはりどこかで自分が可愛いくて
自分がラクになることを考えてしまう。
振り子はいつも揺れ続けており
自分自身のことすらも最低限のことさえも
できずにいたりするのです。
いまだに肚が座っていません。
そんな自分の精神的支えでもあった
太極拳導引教室も閉鎖となり
新たな環境で自分達の団体として
太極拳導引を続けて行くことに。
まずはこの一年をなんとか無事に乗り切りたい。
基盤づくりの一年です。
どこを向いても転機を迎えています。
自然の営みはどこへ向かおうとしているのか。
いま改めて古人が残してくれた教えなどを頼りに
さまよっています。
まあ、なるようにしかなりませぬ。
山あり谷ありのように見えても
たいていのものは平らに戻ります。
そんなものであります。
ということで、
今年もぼちぼちとやっていきます。