「小さき者たちの戦争」(南方新社。著:福岡賢正)の読後感が非常によかった。作者の思いが腑に落ち、心静かに受け止められ、清々しく感じた。しっかり読み返しながら、書き留めておきたいと思う。
1 1ページ目から凄い。昭和13年に兵役を拒否した北御門次郎さんの「暴力はどんな時でもふるってはいけない」という言葉からはじまる。著者は北御門さんに「暴漢が押し入ってきて子どもに襲いかかろうとしたら、どうするのですか?」問う。答えは明快で「暴漢と子どもの間に入って、子どもをかばいながら必死に命乞いするんです」
でも、「平和」を守るためにこそ暴力が必要なのだという主張がある。また、戦死をめぐる英霊論と犬死に論もある。
著者は、その間に橋はかけられないだろうか?と考えてこの本を書いたという。
2. 終戦後に戦死した著者の祖父 1944年8月20日に歳をくった2等兵という感じで36歳で召集され、置いていく6人の子どもと妻、両親、妹のために、自宅裏の竹藪を自分の土地と交換してもらい、藪を払い、黙々と池を掘った。そこにコイの稚魚を放ち、「太ったら食え」と子ども達に言い残して、出征していったという。
翌年1945年8月9日ソ連参戦後、歩兵として絶望的な戦闘に放り込まれた。敗戦から14年以上たった1959年に戦死公報が届いた。終戦5日後1945年8月20日が戦死の日付。
3. 1942年宮崎静夫(表紙絵を描いた画家)さんの思いで。極寒の満州に送り込まれたあどけない第5次満蒙開拓青少年義勇軍の1少年が、ぜんざい1ぱいを炊事場から盗んだと裸で戸外に放り出され集団リンチを受け死去。そこに17歳だった宮崎さんもいたが、その事実を60年近く心に封印していたという。15~19歳の少年8万以上が志願して満蒙開拓青少年義勇軍に送り込まれ、2万人以上が命を落としたとされる。
軍国少年だった宮崎さんはその後も関東軍に入隊したが、軍隊の上官達のひどさに逆にソ連侵攻に対戦車肉薄攻撃に志願するが、終戦になりシベリア送りに。帰国して画家になった。
岸信介元首相(故・安倍晋三の祖父)は満州国の高官で、満州国を「民族協和、王道楽土の理想が輝き、近代的国作りだった。インドのガンジーも声援を送った。東亜のホープであった」と本の序文に書いたが、軍国少年として個人としてはそんなつもりではなかったが、「あれは紛れもなく侵略だった」と宮崎さんは言い切る。
宮崎さんは、2005年ノモンハンでソ連の戦車の展示をみて、これに飛び込んだかもと思いながら、ふいに「自分も死ぬけれど、(戦車にのる)相手も故郷に家族を残している人間なんだ」と気づいたという。
北御門さんの言うように、「ほんの少しでも暴力を正当化してしまえば、それが堤防にあいたアリの一穴となり、戦争まではあとひと息となる」 でも、北御門さんが兵隊に行かなくても、他の誰かが行く・・・「だからこそ、一個人の暴力忌避でなく、流れを跳ね返し押し戻す為のうねりを起こす努力が必要」と宮崎さんはいう。
4.特攻隊で大義に殉じた人が美しいとされたが、特攻隊が落ちて、1945年5月20日母と妹2人の命を奪われた家族がいる。
5.復員者や引揚げ者の船着き場のモニュメントはある。戦地へ送られ帰ってこなかった「出征軍馬の水飲み場」のモニュメントもある。しかし、勝ち目のない戦にほうり込まれた戦争の被害者とも言える出征していった港にモニュメントはない。彼らの犠牲を美化し愛国心を掻き立てるよすがにされてはと「左」は警戒し、出征先でおこなった日本軍の加害行為に光が当たると英霊の尊厳が傷つけられると両すくみの構図なのではないか。被害性が際立つ原爆や空襲の犠牲にばかり目を向け、加害性をまとった兵士の死は考えてこなかった戦後の日本人の精神がここに見られる。1997年加藤典洋は「敗戦後論」で。2000万人のアジアの死者に日本国民が真に頭を垂れるために、300万人の日本人戦没者の「汚れた死」を汚れたまま、まず悼まねばならないと主張。論争になった。
6.ヒロシマで、日本は被害者意識をもつことができた。画家・香月泰男さんは、「私のシベリア」の中で、満州の線路脇でみたリンチを受け全身の皮膚を剥がされた「赤い屍体」と原爆の「黒い屍体」を対比させて書いている。<戦争でしかたがないと思って兵隊に出て、たくさんの赤い屍体が生み出された。戦争の悲劇は,無辜の被害者の受難によりも、加害者にならなければならなかった者により大きいものがある。1945年、もし私があの赤い屍体をかかえて、日本人の一人一人に突きつけてあるくことができたなら、そして、一人としてそれに無関係ではないのだということを問い詰めて歩くことができたなら、もう戦争なんて馬鹿げたことの起こりようもあるまいと思う>
著者は、そこで、まずアジアの死者たちに深く頭を垂れねばなるまい。そして、加害をあがなわされる形で死んだ祖父達の死も悼みたい。そして、両方の死者たちに誓おうと思う。加害をあがなわされた死を再び悲しむことのないよう、日本人として考えつづけると。結んでいる。
7.隣人や家族として善良な人達が戦争に行くとどうして残虐な殺人ができてしまったのか(中国での殺戮に笑みを浮かべる日本兵の写真)
軍隊内のいじめ。陰湿なしごき。それに耐えて見返してやろう。最初は躊躇があるが、慣れると日本民族は優秀で、東亜に君臨するのは当然だとおもっていた。人を殺しても痛痒を感じない「鬼」が巣くうまで3ヶ月だったという。鹿田さんの証言。
その鹿田さんが、本当に自分のしたことを悪いと思ったのは、捕虜として全てを打ち明けて、なお周恩来の「今の戦犯は、20年後には我々のともだちになる」という遠謀によるといわれているが、無罪放免され日本にもどり、なお先のこと。結婚して、自分の娘が見合いをするという前に、元戦犯仲間と自分たちが中国でしてきたことをマスコミに証言することになり、娘のために証言は今回だけは~と断ろうかと悩み、自分が父親の前で娘を殺したことが蘇った。その父親は娘を失ったのに、ここで逃げたら、自分は人前で物をいう資格なんてない。苦しくなったが、話して・・・被害者の気持ちが分かった。加害者の立場で話すのだけれど、被害者の気持ちにならんと・・・加害者の責任もとれんという初歩的な認識をつかんだ」
人はいとも簡単に醜くなる。でも、とことんまで醜くなりきってしまった人が、美しく生きなおせていると著者は思ったという。
8. 残忍さ
南京大虐殺の証言。1979年熊本の師団の中国での加害行為に焦点を絞った証言集を出版。創価学会青年部熊本県反戦出版委員会「揚子江がないている」松岡環さんは、加害の証言を集めていたが、老人達の話から「あれは侵略戦争だった」といいつつも、強姦の話を笑いながらするなど、心から悔いているひとばかりでなかったという。戦争が悲惨なだけなら、戦争は起こらないかも知れない。(戦争は面白い事ありましたか?)と問いかけると、「食料調達にいってクーニャンを追いかけるとか・・・」と含み笑いをする人も。下の兵隊へのいじめも・・・。
詩集「野にかかる虹」を書いた井上俊夫さん。「日本が戦争をしていた頃は、内地におっても全然面白くなかった。満蒙開拓にしても、東北地方の貧困や農家の次・三男坊対策でもあった」という。
戦争とは、権力が起こして民衆に協力を押しつけると考えられるが、民衆の中に、権力と共鳴しながら高揚したり、陶酔状態に陥る中で深みにはまっていったとも見える。だから、同じ事をもうしないとは言い切れない。前記の井上さんも、古参兵からいじめ抜かれる初年兵には、中国人集落の検閲は憂さ晴らしになったという。戦争に負けて、反対に向こうの兵隊に銃剣を突きつけられて、初めて怖さがわかった。
相手の人格を忘れて、自分の欲望を満たすようになると、人は力の感覚に酔う。
他者の痛みや悲しみに無頓着なまま、ひたすら個々人がバラバラに自己実現を目指す。そんな「平和」では、阻害された人々が高揚感や生きがいや力の感覚を求めて、再び戦争へと導かれかねない。
目指すべきは他者を踏み台にするのではなく、他者との感情の交流によってえられるしみじみとした幸福感を大切にする文化だ。
この本を読んで、平和の基本は非常に明快で単純なことと思った。それは、自分以外の立場に立てる人間なら戦争は起きないということだ。普段から、いろいろな国も立場も違う人達ともけんか腰でなく、しなやかに、謙虚に互いの理解を深め合う努力を怠らない。
今、ウクライナ侵攻でロシアは西側諸国では厄介者扱いだ。しかし、第2次大戦では日本が今のロシアのように、周辺国から取り残され、孤立し、資源もなく、活路を求めて戦争を始めてしまった。ロシアの民間施設攻撃や、そもそも話し合いもなく突然の侵攻は許しがたいが、このまま兵器を増やして戦争が泥沼化する前に、何かできないものか。このままでは、軍需産業だけが大喜び。ウクライナでも、ロシアでも人がどんどん命を失う事態をどうにか避ける手立てはないものか。非力過ぎて何もできないが、まず、ロシアを少しでも理解してみようと、「ロシア点描」(小泉悠:著)を読んだ。知ること、平和への道を模索することを諦めないこと。奇跡を待つより、何か探していく。その先にしか「平和」は訪れないだろう。平和のために、私は何ができるだろう。
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