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【絵合(えあわせ)の巻】 その(6)
紫の上の言葉に、源氏も今更にあわれを覚えられて、
「うきめ見しそのをりよりも今日はまた過ぎにしかたにかへる涙か」
――今日こうして、この絵を見ると、当時に返る思いがして、辛かったあの頃より、余計に涙がながれる――
「中宮ばかりには、見せ奉るべきものなり」
――この日記は、藤壺だけにはお目にかけねばならないものだ――
と、見苦しくなさそうなものを、お選びになるついでにも、明石の住いのことが思い出されて、まずどうしているのかと、片時もお忘れにはなれないのでした。
このように源氏も絵を集めておられるとお聞きになって、権中納言は、いっそう熱心に、絵物語の軸、表紙、紐の飾りを立派にお整えになります。
季節は三月の十日ほどの頃で、空の景色もうららかに、人々の心も伸び伸びして、趣ぶかい季節ですが、取り立てて節会などもないので、内裏では、ただただこのように、絵をもてあそぶような日を送っておられます。
源氏は、同じ事なら、帝がいっそう興深くご覧になれるようにして差し上げたいとのお心も加わって、特に気を入れて集められた数々を、斎宮女御の方へお上げになりました。
「梅壺の御かたは、いにしへの物語、名高くゆゑある限り、弘徴殿は、その頃世にめづらしく、をかしき限りを選り書かせ給へれば、うち見る目の今めかしきはなやかさは、いとこよなくまされり。」
――梅壺の女御(前斎宮が入内後、梅壺に住まわれたので、このように呼ばれる)の方は、昔の物語の名高い趣のあるものばかりを。これに対して、弘徴殿女御の方は、その頃、世にめずらしく興のあるものばかりを選んでお描かせになりましたので、ちょっと見た目のはなやかさでは、ずっと立ち勝っているように見えます――
帝にお付きしている上臈の女房で、絵に嗜みのある者たちは、この絵は、あの絵はなどと、批評し合うのを、この頃の仕事にしているようです。
その様なある日、藤壺中宮も参内なさった頃のこと、
「かたがたご覧じつつ棄てがたく思ほすことなれば、御行いも怠りつつご覧ず」
――藤壺の中宮は、もともとお好きな道ですので、仏前の勤行も怠ってはご覧になるのでした。――
◆絵合わせ=平安時代貴族の間で盛んにおこなわれた「物合わせ」の一つ。左右に組を分け、判者を立て、おのおの絵や、絵に和歌を添えたものを出し合って優劣を競う。
◆写真:絵巻物
ではまた。
【絵合(えあわせ)の巻】 その(6)
紫の上の言葉に、源氏も今更にあわれを覚えられて、
「うきめ見しそのをりよりも今日はまた過ぎにしかたにかへる涙か」
――今日こうして、この絵を見ると、当時に返る思いがして、辛かったあの頃より、余計に涙がながれる――
「中宮ばかりには、見せ奉るべきものなり」
――この日記は、藤壺だけにはお目にかけねばならないものだ――
と、見苦しくなさそうなものを、お選びになるついでにも、明石の住いのことが思い出されて、まずどうしているのかと、片時もお忘れにはなれないのでした。
このように源氏も絵を集めておられるとお聞きになって、権中納言は、いっそう熱心に、絵物語の軸、表紙、紐の飾りを立派にお整えになります。
季節は三月の十日ほどの頃で、空の景色もうららかに、人々の心も伸び伸びして、趣ぶかい季節ですが、取り立てて節会などもないので、内裏では、ただただこのように、絵をもてあそぶような日を送っておられます。
源氏は、同じ事なら、帝がいっそう興深くご覧になれるようにして差し上げたいとのお心も加わって、特に気を入れて集められた数々を、斎宮女御の方へお上げになりました。
「梅壺の御かたは、いにしへの物語、名高くゆゑある限り、弘徴殿は、その頃世にめづらしく、をかしき限りを選り書かせ給へれば、うち見る目の今めかしきはなやかさは、いとこよなくまされり。」
――梅壺の女御(前斎宮が入内後、梅壺に住まわれたので、このように呼ばれる)の方は、昔の物語の名高い趣のあるものばかりを。これに対して、弘徴殿女御の方は、その頃、世にめずらしく興のあるものばかりを選んでお描かせになりましたので、ちょっと見た目のはなやかさでは、ずっと立ち勝っているように見えます――
帝にお付きしている上臈の女房で、絵に嗜みのある者たちは、この絵は、あの絵はなどと、批評し合うのを、この頃の仕事にしているようです。
その様なある日、藤壺中宮も参内なさった頃のこと、
「かたがたご覧じつつ棄てがたく思ほすことなれば、御行いも怠りつつご覧ず」
――藤壺の中宮は、もともとお好きな道ですので、仏前の勤行も怠ってはご覧になるのでした。――
◆絵合わせ=平安時代貴族の間で盛んにおこなわれた「物合わせ」の一つ。左右に組を分け、判者を立て、おのおの絵や、絵に和歌を添えたものを出し合って優劣を競う。
◆写真:絵巻物
ではまた。