島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

49-7光仁天皇皇子崇道天皇

2019-07-13 | 天皇陵巡り
 
 奈良市の東南、山辺の道の北コースに、崇道天皇の八嶋陵(ヤシマノミササギ)(奈良市八島町)があります。
写真の奈良県道188号高畑山線の角を入ってすぐです。
 
 早良親王(サワラシンノウ)(750?~785)の父は光仁天皇で、母は高野新笠なので、第50代桓武天皇の同母弟にあたります。
 
 同母兄の桓武天皇の皇太子となりましたが、次期天皇を大伴一族が推す早良親王にするか、藤原一族が推す桓武の息子安殿親王(アテシンノウ)(後の第51代平城天皇)にするかで起こった、有名な造長岡京使藤原種継暗殺事件の黒幕であると疑われ、皇太子を廃され、乙訓寺(京都府長岡京市)に幽閉されました。
 
 早良親王は無罪を訴え断食しましたが、認められずに、淡路島に流される途中に大阪で憤死しました。(それでも遺体は淡路島に流されたそうです)
 その後、替わって皇太子になった安殿親王の病や、桓武天皇妃の次々の死、母の高野新笠までも病死したので、祟りを恐れた桓武天皇は、早良親王を崇道天皇と追称し、この八嶋陵に天皇として移葬しました。
 この御陵はちゃんと土塀に囲まれているし、鳥居もありません。
この方が明治になって出来たような天皇陵より本物らしいです。
 
 陵の前には何故かゴロゴロ巨石が残されていましたので、一応写真におさめておきました。
早良親王は死の間際に石を9個投げて、「この石の落ちた所に葬ってくれ」と言われたそうです。
9個の内8個がここで見つかったので、ここに陵を作ったそうです。
 その八つ石がこの写真の石でした。
 
 知っていたらちゃんと数えていたのですが、他の写真とも合わせて数えても、はっきり8個は確認できませんでした。
 
 参拝したのが年末でしたので、陵の隣の由緒正しそうな家の玄関には門松が立っていました。
奈良の門松は、けっこうにぎやかで楽しいですね。
 
 怨霊としても崇道天皇は、菅原道真や崇徳天皇と並ぶ超一流の怨霊ですので、桓武天皇が造営した平安京の鬼門にあたる北東、八瀬に至る道の途中に、崇道天皇だけを祀る崇道神社があります。
 以前紹介した(2018年6月の小野妹子)小野毛人の墓は、この神社の奥の山の中にあります。

       返事
花水木さん:免疫力の低下と共に、
    死が近づいています。
大雪男さん:まあ後はパリーグの試合をのんびり観ます。
     顔の三叉神経領域の帯状疱疹は、珍しくは有りませんが、
    綺麗な顔が台無しなのがつらいです。
    そろそろブログの顔を塗りつぶすのをやめて、
    素顔を出して、読者を増やそうとしていた計画はおじゃんです。

コメント (2)
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49-6光仁天皇夫人高野新笠

2019-07-10 | 天皇陵巡り
 
 第49代光仁天皇は、突然なるはずもなかった天皇になった天皇で、その理由として、皇后になった井上内親王が聖武天皇の皇女であることや、他戸皇太子もいたことが挙げられます。
 今の9号線老ノ坂峠を越える道より1本ずれて、京都から丹波に抜ける昔の山陰街道が走っていますが、その沓?クツカケ)の信号を見ながらもう少し進みます。
 
 前回探し歩いて来た時は、こんな大きな石柱と山へ登って行く道を見落として、陵にたどり着けずに帰ったんですよ、信じられないですね。
この先にあるラブホテル群のことばかりが、頭の中を占めていたからでしょうか?
 
 近づくと、桓武天皇御母御陵参道とはっきり彫られていました。
井上・他戸が廃された為、光仁天皇の宮人(キュウジン)にすぎなかった百済からの渡来系氏族の娘が産んだ山部親王(ヤマベシンノウ)(後の第50代桓武天皇)が立太子したので、高野新笠(タカノノニイガサ)(~790)と高野姓となり、夫人ともなりました。
 
 ここからまずまず整備された山道を登ります。
 高野新笠は山部親王以外にも、光仁天皇との間に、先ずは第1皇女の能登内親王を、また弟の早良親王(サワラシンノウ)も産んでいますが、皇后にはなっていません。(この頃皇后になれるのは内親王だけです、藤原一族の例外はありますが)
 
 少し息が切れた頃に拝所が見えてきました。
ここは京都の西の端、ここを越えると丹波の亀岡に至ります。
 
 光仁天皇皇后高野新笠大枝陵(オオエノミササギ)と書かれた石柱も立っていますが、皇后とはなっていないと思います。
明治になってやっとこの陵を高野新笠の陵と治定したので、この時に無理矢理皇后と付けたのかもしれません。
 
 高野新笠は息子が天皇になったので、薨去後に贈皇太后を、孫も天皇になったので贈太皇太后(タイコウタイゴウ)を贈られ、諡号も天高知日之子姫尊(アマタカシラスヒノヒメノミコト)となりました。
 制札を読むと、光仁天皇夫人贈太皇太后天高知日之子姫尊 大枝陵(京都市西京区大枝沓樺ャ)。
 
 夫の第49代光仁天皇陵は奈良の山奥に有りますが、息子の第50代桓武天皇が都を平安京に移したので、その母親高野新笠陵は夫とは遥かに離れた京都の西北になってしまいました。
 ここで明らかに、今の天皇家に繋がる家系に朝鮮半島の民族の血が入ったことに成ります。
今の世の中、もっともっと日韓友好に、このことを活用した方が良いと思うのですが。

       返事
和さん:ありがとうございます。
    今年はインフルエンザにも罹患しましたし、
    自転車で転唐オた肘はまだ痛く、傷も変色して残ってます。
    そして71歳の誕生日には、
    左目周囲や眉間・鼻尖に帯状疱疹が出来て、
    唯一自慢の顔が、ミニお岩さん状態です。
    そろそろ私の免疫力も低下してきて、
    誕生日は冥土の旅の一里塚になってきたようです。
花水木さん:ありがとうございます。
    私より若い女性二人から誕生日を祝福してもらったので、ブログもし甲斐があります。
     大阪の御陵の周囲には、洗濯物がひるがえってる所もたくさん有ります。
大雪男さん1:ありがとうございます。
    男の人の祝福も、それなりにうれしいです。
    拓郎さんは心配ですが、陽水さんが逝ったら、いよいよ自分の番と思うでしょうね。
     もう今年は完全に終わりましたね。
    広島と最下位争いをしましょう。
    でもこれでのんびりと勝敗にこだわらずに野球観戦が出来ますよ。
    (毎年そうですが)

大雪男さん:下の画面までスクロールして押したら、
    元のPC画面になりました、さすが!ありがとうございます。
    でも今度は、元のスマホ画面は出なくなりました。
    まあいいか。
コメント (2)
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49-5光仁天皇皇太子他戸親王

2019-07-07 | 天皇陵巡り
 
 秋の奈良県五条市、前回49-4井上内親王の宇智陵をやっと見つけた後、そこから広い車道を下って行きます。
向こうに見える小さな森が目的地です。
 
 この柿畑とお墓の間の森が、井上内親王が45歳の高齢出産で産んだ(養子説もありますが)白壁王との間の息子、他戸親王(オサベシンノウ)(761~775)の墓です。
 
 車では行けないと思って、丘の下に車を停めて、家内に車で待っていてもらい、歩いて探したのですが、ここも広い道だったので、車で行った方が楽でした。
ただ入り口は柿畑の中に、小さい看板だけなので、見落としがちです。
 
 父親の白壁王が60歳を過ぎてから突然予期せぬ第49代光仁天皇になったので、11歳で皇太子になりましたが、母の井上内親王(皇后)が夫である光仁天皇を呪詛したという罪で皇后を廃され、これに連座して他戸親王もわずか数カ月で皇太子を廃されました。
 柿畑の中の参道を登って行きます。
 
 あげくの果てに母親と共に庶人(ショジン)に落とされ、母と共にここ五条に幽閉された後、母と同じ日に死んでいます(ほぼ殺されています)。
藤原一族のこれまた陰謀でしょう。
 
 この母子の死後、天地異変が相次いだので、怨霊となることを恐れた桓武天皇などによって、立派な墓を母親の陵から500mほどの所に与えられました。
  光仁天皇皇太子他戸親王墓(奈良県五条市御山町)

 仁徳天皇陵などが世界遺産に登録されました。
めでたいとは思いますが、仁徳天皇陵すぐ横のラブホテルはどうなるのでしょうか。
これを機会に少しは天皇陵を発掘していただければ嬉しいのですが。

      返事
じょんのびかあさんさん:私のスマホ画面も、
    PC画面でしたが、1カ月前ぐらいから替わってました。
    これをスマホ画面と言うのですね。
    なぜこうなったかわかりませんし、元のPC画面に戻すことも出来ません。
     8月18日(日)堀川同窓会あります、
    参加ご希望ならまたN君に連絡してください。
    参加で花を添えてくれるなら嬉しいです。

コメント (4)
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49-4光仁天皇皇后井上内親王

2019-07-03 | 天皇陵巡り
 
 第45代聖武天皇には、皇后として光明子がいましたが、夫人もいて、その夫人である県犬養広刀自(アガタイヌカイノヒロトジ)との間にも3人の子供をもうけています。
今回の主人公井上内親王(イノエナイシンノウ・イガミナイシンノウ)(いのうえと読みません)(717~775)と、妹の不破内親王(フワナイシンノウ)【夫の塩焼王は恵美押勝の乱で仲麻呂と共に殺されていますし、息子の氷上川継(ヒカミノカワツグ)が謀反を起こそうとした罪で流罪になった時に、自身も淡路に流されてます】と、45≠Sでも紹介した弟の安積親王(アサカシンノウ)【権勢を誇っていた頃の仲麻呂(恵美押勝)に毒殺された可能性大です】のあまり幸せでない最後の3人です。
 
 井上内親王は聖武天皇の第1皇女でしたが、11歳で斎王として伊勢に下向、弟の安積親王が死んだので、30歳で斎王を解任されました。
帰ってから白壁王(後の第49代光仁天皇)の妃になりました。
38歳で酒人内親王(サカヒトナイシンノウ)を産み、なんと45歳の高齢出産で他戸親王(オサベシンノウ)を産んでいます。
当時としてはあまりにも高齢出産なので、他戸親王養子説(誰からもらったかは知りませんが)もあります。
 
 そうしてなんと夫の白壁王が60歳(62歳)で第49代光仁天皇となったので(父聖武天皇の血を引く自分が妃であったことと、息子もいることが有力な理由でもありますが)、井上内親王も54歳で皇后になり、翌年には息子他戸親王も11歳で皇太子になりました。
このまま他戸親王が次期天皇になったら、天智系男系と天武系女系が合体した最強天皇になるはずだったのですが。
 
 他戸親王を推していた藤原北家の永手(ナガテ)が死に、式家の百川(モモカワ)らの陰謀だと思われますが、773年に夫の光仁天皇を呪詛(ジュソ)したなどの言いがかりを付けられて、井上内親王は皇后を廃され(翌年には他戸親王も皇太子を廃され)、奈良の南五条市辺りに幽閉されてしまいました。
775年には井上内親王と他戸親王は、二人同日に亡くなっているので、多分殺されたのでしょうね。
 
 五条市にあるこの宇智陵(ウチノミササギ)(奈良県五条市御山町)は、ご当地名産の柿畑の中にありました。(丁度大売出し中の柿農家の販売所の横)
最初は墓でしたが、二人の死後天地異変が続いたので、怨霊を恐れて再び皇后の身分に復帰させ陵としたようです。

      返事
花水木さん:実車講習は京都も三人一組でした。
    静岡は前進で縁石乗り上げのようですが、京都はバックで乗り上げ、お国柄?
     全くのペーパードライバーの人も上手に運転してました。
    「なんで今更更新?」と尋ねたら、「もうじき田舎岡山に帰るので必要」とのことで、
    納得しました。
     毎日のように高齢者の運転事故が報道されてるので、
    緊張して運転するようにはなりましたが、安全運転しすぎて、
    これはこれで浮「時あります。

コメント (1)
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