島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

71才の免許更新

2019-06-30 | ノンジャンル
 
 半年ほど前に送られてきた高齢者講習(合理化講習)の通知書。
運転免許証の更新を受ける70歳以上~75歳までの人は、教習所で事前に講習を受けなければならないそうです。
早速隣の教習所に予約しましたが、結構一杯で、予約が取りにくい状態になってるようですので、該当する人は早めの予約が必要ですよ!
 
 双方型講義30分は、年寄りが主役を務めるビデオを見るだけの、一方型でした。
運転適性指導30分は視力検査で、動体視力や明暗順応試験もありましたが、かなり出来は悪かったです。
でもおとがめはなし。
 
 最後は、実車指導1時間で、実際に教習所を走りました。
車庫入れやS字も走りましたが、一緒に横を走ってる若い教習生よりは、我々の方がずっと上手です。
でも、信号無視をして走ってる講習生もいましたが、これもおとがめなし。
 珍しいのは、バックで縁石に乗り上げてすぐにブレーキを踏む操作、アクセル・ブレーキの踏み間違いをみる検査のようですが、縁石に乗り上げる勇気が出なくて、アクセルを加減しすぎました。
 こうして2時間の、自宅隣での講習が終わり、5100円を払った講習生全員は合格で、この高齢者講習修了証明書を貰いました。
  
 後日高齢者講習終了証明書を持って免許更新も済ませました。
京都も街中に免許更新センターが出来たので楽になりましたし、昔と違って親切になってます。
マンツーマンでおばさんが付いてくれて、書き方や窓口まで案内など親切丁寧でした。
視力検査と写真を撮って、全部で20分ほどで、2500円払ったら、75歳までいける免許書が手に入りました。
こんなに簡単になってるので、合理化講習と言う名が付いてるのですかね。
次の更新は75歳になってるので、認知症の検査も入るようですが、この4年間の様子を見ながら、もう一回更新するかどうかは決めたいと思ってます。

     返事
花水木さん:京都もやっと梅雨に入り、
    蒸し暑く今も雨が降り続いています。
    天気に依って、体調が左右されるぐらい、
    弱い体になってきています。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大岩山

2019-06-27 | 京都
 
 大岩山付近の案内看板。
下中央のJR藤森駅から赤色の現在地を少し上った辺りまで、毎週火・木と通勤で登ってきています。
 
 今年になって木曜日は午前中しか働かないので、仕事を終えていつもは門を左に出ますが、今日は右に曲がって、すぐに貞Mの道に入ります。
 
 電波中継塔のある大岩山を目指しました。
ここで働くまではまったく知らなかった大岩山、標高は182mです。
 
 
 頂上近くの大岩山展望台、夜景スャbトにもなってるようで、1枚の写真では納められない眺めです。
 その日はやや霞んでいましたが、北は嵐山愛宕山から、南は大阪のビル群まで見えるそうです。
ここから、秀吉対明智軍の天王山の戦いや、私の先祖も戦い負けた鳥羽伏見の戦いを眺めたら、そうとう面白かったでしょうね。
 
 大岩神社もありました。
昨年の台風でか、かなり朽ちて当リも多かったので寂しく、昼間ですが、一人で長居はしにくかったです。
 
 
 何故か堂本印象のデザインした、奇妙な鳥居が建っていました。
案内板にもあったように、これが目玉商品のようです。
 そのまま反対側の大岩街道に降りて、目的であった御陵さんをしっかり巡り、その日だけは少し用事のあった、小栗栖(オグルス)の施設にも寄ったのです。
 
 
 この辺り、天王山で負けて、大津坂本へ逃げたかった明智光秀が、小栗栖の貞Mの中で土民に殺された場所で、首と胴を別々に埋めた胴塚もあります。
この胴塚はたいしたことはないですが、判りにくく、1回通り過ぎています。
来年は人気スャbトになるかもしれないのに、もったいないかも。

        返事
花水木さん:そちらが場末の居酒屋風なら、
    我が家は町内の駄菓子屋さん風で、あまり変わりませんよ。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

6月のスイーツ

2019-06-23 | 趣味
 
 6月になってだいぶ経ちましたが、京都はまだ梅雨入りもせず暑いですので、ついつい冷たいスイーツを食べてしまいますね。
 友達夫婦と山の中のレストランで食事しましたが、デザートは涼しげな器に盛ってありました。
 
 仕事を終えて午後は御陵巡りをした日は、帰りに街で家内と逢って、夕食は帰って食べることにしたので、少し制限してコーヒーゼリーパフェにしておきました。
 
 小浜まで魚を食べに行った帰りは、小浜の喫茶店で、やっぱり口直しです。
 
 琵琶湖大橋近くでランチした日は、追加料金のデザートの方をついつい頼んでしまいました。
 
 これまた御陵巡りの帰りの、久しぶりの大阪駅は、高いビルがたくさんできて、人も多く都会です。
大阪で唯一少し知ってる阪急三番街も変わっていました。
名前を知ってる喫茶店で、今年初の氷を頼みました。
 
 少しづつ蜜をかけながら食べるそうで、中からタピオカも出てきました、都会です。
ふわっとした氷で、それ程冷たくなく、たくさんありましたが完食です。
 
 暑くなってからは、毎晩かき氷を作って食べています。
今日はイチゴの蜜に練乳をかけ、爽のアイスと家内が小さく切ってくれた羊羹をトッピングしました。
いつもは、蜜とせいぜいが練乳かけで、こんな贅沢はしていません。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

49-3光仁天皇御母紀橡姫

2019-06-20 | 天皇陵巡り
 
 紀橡姫(キノトチヒメ)(~709年10月21日)なんていっても、ほぼ皆さん知りませんよね。
前回の天智天皇第7皇子志貴皇子(後の春日宮天皇)の妃となって、難波女王と白壁王(後の第49代光仁天皇)を産んだ人です。
 光仁天皇の産まれたのは709年11月18日と伝わってるので、橡姫は光仁天皇を産んですぐに亡くなったといわれていますが、産む1ヶ月前にはもう亡くなってることになるので、単純ミスですかね。
まあそれでも、死んでから60年以上も経って、自分の産んだ息子が天皇になってしまったので、即位の翌年には皇太后を追贈され、光仁天皇御母贈皇太后橡姫として、吉隠陵(ヨナバリノミササギ)【奈良県宇陀郡榛原(ウダグンハイバラ)】に葬られました。
 
 さてこの吉隠陵、長谷寺と室生寺の間ぐらいのえらい山中にあります。
国道165号線から登って行くと、えらく大変だったとの訪問記事を読みましたので、鳥見山公園に行く道路(車の離合が難しい所もある道ですが)を車で登り、この浄水場辺りの少し広い所に車を停めて、家内には車で待ってもらって、この道路標識に従って山道に入りました。
 
 雨が降ったら水が流れるような滑る山道を、道を間違えないように、熊や猪が出たらどうしようと思いつつ、やや息を弾ませて、15分ぐらい一気に登って、やっと参道途中の石段に到着。
 
 165号線の正面から登ると、何とかこの石段にたどり着き、更にこの石段を250段登るそうですので、この見下ろした石段を降りて、石段の始まりを見るのはやめておきました。(浮ェりの私には寂しすぎでもありましたし)
 
 本当に山の中にあります。
なんでこんな所と思いましたが、特に紀氏の地元でもないようですが、まあ昔は奈良から伊勢へ抜ける道の途中なので、日本の中でのここの地位は今よりずっと高かったとは思いますし、夫の春日宮天皇陵や息子の光仁天皇陵から、山は何個か越えますが、ほぼ真南の方向になります。
 
 だいたい吉隠(ヨナバリ)なんてなかなか読めませんし覚えられませんが、隠(ナバリ)は近くに名張市(ナバリシ)があるので、ナバリの元の漢字かなあと、憶えました。
 
 明治も半分すぎてやっと、この陵を宮内庁は治定したようですが、ここの山の草を牛馬に与えても食べなかったのが、治定の根拠になったという、なんとも言えない理由だそうです。
 天智ー光仁ー桓武と、今の天皇家に直接つながる元になった母なので、身分は低くても、明治政府もほっとくわけにはいかなかったのでしょうね。

       返事
花水木さん:前回・前々回の親子二つの天皇陵は、
    そっくりでしたね。
    それでなくても同じような写真ばかりですみません。
    色々工夫はしてるつもりなのですがね。
     「頑迷」なんて言葉はないのか、心配しましたが、
    調べて有ってほっとしました、よく使ってましたので。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

49-2光仁天皇父志貴皇子

2019-06-17 | 天皇陵巡り
 
 国道に面した拝所入り口から、長い直線の参道が続きます。
 
 切通のような、両側に石垣のある部分も通り抜けます。
 
 木々の間も抜けて下がって行くと、御陵が見えてきました。
 
 息子の第49代光仁天皇陵とよく似た感じの陵ですが、それもそのはず、両陵共に奈良の東、若草山の向こう側の田原地区にあります。
 
 志貴皇子(施基親王)(シキノミコ)(~716年)、母は越道君伊羅都売(コシノミチノキミイラツメ)で、父は第38代天智天皇ですが、母の身分も低く第7皇子でもあるので、壬申の乱(672年)後も皇位を狙うこともなく、天武朝の中でひっそりと生きていたようです。
 吉野の盟約《第40代天武天皇が、皇后(後の第41代持統天皇)との間にもうけた草壁皇子が次期天皇であることを他の皇子達に誓わせ、異母兄弟同士や従兄弟同士が争わないようにさせた会議》にも末席ですが出席し、大津皇子のように皇位争いに巻き込まれて殺されることもなく過ごせたのは、志貴皇子に能力がなかったのか、若すぎたのか、権力争いが好きでなかったのか・・・・。
 
  石走る 垂水(タルミ)の上の さわらびの
     萌え出づる春に なりにけるかも
 なんとなく授業で習ったようなこの万葉和歌、リズム感が良いので憶えやすく、私のような素人の心も捕えますね。
この作者が志貴皇子ですので、主に文化人として過ごしていたのと違いますかね。
 
 志貴皇子の死後50年以上経って、紀橡姫との間の息子白壁王(6男)が突然第49代光仁天皇として即位したので(770年)、あわてて春日宮天皇(カスガノミヤ)の追尊を受け、この田原西陵(タハラノニシノミササギ)(奈良市矢田原町)に葬られています。
 父親が天皇でない天皇は、皆少なからずコンプレックスを持っていたのかもしれません、光仁天皇は自分の陵と同じくらいの同じ感じに、父の陵をしています(本当に息子光仁が作ったのかは不明ですが)

      返事
大雪男さん:阪神まだまだ実力不足です。
    パのチームが交流戦でもっともっと巨人を叩いてほしいのですが。
花水木さん:図にはしたいのですが、
    パソコンで図や系図を作れない私です。
     先週は同級生と四国に帰った同級生を訪ねましたが、
    私含め参加4人とも、年とって頑迷になっています。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする