島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

明日香へ輪行1.

2018-01-31 | 
   
 冬の比較的暖かい日、久しぶりに勇気を出して、奈良の明日香へ輪行です。
朝早くの空いてる地下鉄に乗って、近鉄に乗り換えて、奈良の近鉄桜井駅で下車、自転車を組み立てて出発です。
 本来の目的は天皇陵巡りですが、それはまた後程書くとして、この回は明日香周辺の石造物を紹介します。
   
 二つほど天皇陵を巡って、東の方の山側から自転車で明日香まで降りて来たところで、飛鳥資料館が目に入ったので寄りました。
 一般270円が、65歳以上だと無料、嬉しいような気の毒なような感じ、受付も若いお嬢さんではなく、近くの農家のお母さんのパートという感じが良かったです。
 広い庭には飛鳥石造物のレプリカが沢山飾ってありました。
口から水を出して、噴水になってる石人像。
  
 館内には、その本物もありました。
写真撮影も禁止してないのが嬉しい限りです。
  
 これも庭にあった、レプリカの須彌山石(シュミセンセキ)、最初に作ったのは推古天皇の時代に百済からやってきた技術者のようです。
立派すぎる姿ですが、尿道下裂のように水が出ていました。
   
 館内にあった本物、中をくりぬいて、水が流れる装置になっています。
    
 1982年(昭和57年)に発掘された時、地中の泥の中にそのままの姿で唐黷ト埋もれていたこの塀、新聞の写真ではっきり覚えています。
その山田寺の回廊が、保存処理されて飾ってあったのも驚きです。
   
 自転車で明日香の農道を走りながら見つけた、あまり聞いたことがない弥勒石(ミロクイシ)。
これを拝むと、下半身の病気が治ると書いてあったので、熱心に祈りました。
   
   伝蘇我入鹿(ソガノイルカ)首塚
飛鳥寺のそばにありましたが、周りに案内板が全くありません。
多分これだと思う、甘樫丘(アマカシノオカ)をバックにあった五輪塔です。
大化の改新(乙巳の変)で首をはねられた入鹿の首が、ここまで飛んできたそうです。
    
   伝飛鳥板蓋宮跡(イタブキノミヤ)(昭和47年4月10日史跡指定)
 高校生の時、歴史好きの友達の誘いで、10人ぐらいの同級生と来て、大化の改新の舞台だったと教えられ、感心した記憶があります。
その頃は歴史好きではなく、女の子たちも一緒に行くので嬉しかっただけですが、どんな理由であれ、史跡指定より前から来ていたというのは、プチ自慢になりますよね。

   返事
花水木さん:一夜に7度はすごいですよね!
    さすがの私も飽きてしまうというか、無理でしょう。
     今回も食ネタをはさめませんでした、すみません。

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26≠Q継体天皇皇后手白香皇女

2018-01-29 | 天皇陵巡り
   
 父親は第24代仁賢天皇、母親はその皇后で第21代雄略天皇の娘で第22代清寧天皇の同母姉である春日大娘皇女(カスガノオオイラツメノヒメミコ)、その間に産まれたのが 手白香皇女(タシラカノヒメミコ)です。
 その陵は山辺道(ヤマノベノミチ)から少し外れて山の方に、なんの案内看板もなく、柿畑?の中の畑道を抜けた先にありました。
*余談ですが、母親の春日大娘皇女は雄略天皇と采女が一夜で身籠って生まれた子供です。
それ故雄略天皇は自分の子であるかどうか疑いましたが、一夜のうちに7度も召した(そんなことをしたら太陽が黄色く見えますよ)と聞かされた家臣は、「身籠りやすい人は褌が体に触れただけでも身籠ります」と述べたので、納得したそうです。?
   
 陵の正式名 西殿塚古墳(ニシトノヅカコフン)(奈良県天理市)は、大和古墳群の中で最も高い所にある、全長230ⅿの大きな前方後円墳ですが、この写真のように遠くから見ると自然の山にしか見えません。
  
 第26代継体天皇は、それまでの仁徳王朝の天皇達からはかなり離れた系統から来たので、たくさんの妃や子供たちもいましたが、なんとか残っていた仁徳系統の女性である手白香皇女と結婚して、元の政権とも深く結びつこうとしたのでしょうね。
そして生まれたのが、天国押波流岐広庭命(アメクニオシハルキヒロニハノミコト)で、異母兄の第27代安閑・第28代宣化に続いて第29代欽明天皇になり、女系ですが仁徳朝の血統がわずかに残されました。
 拝所は柿畑?を抜けた所に、静かに有りました。
     
 継体天皇皇后手白香皇女の衾田陵(フスマダノミササギ)と宮内庁は治定していますが、この古墳は周囲の発掘調査で出土した初期埴輪から見て3世紀後半に出来たようで、手白香皇女の産まれた5世紀後半とはかなりの隔たりがあります。
  
 衾田陵は高い所、奈良盆地の東の山すそにあるため、天理や橿原の方も見渡せる眺めの良い所です。
 夫の継体天皇陵は大阪の茨木ですが、妻の手白香皇女の陵は夫の墓からかなり離れた、たぶん実家に近い奈良にあるのも、手白香皇女からみたら婿養子状態であったかもしれない継体天皇の姿を今に伝えているのかもしれません。

    返事

花水木さん:私の駄文を3回も読んでいただいて光栄です。
    熟読するとアラが目につくので、私の文はさらっと読み流していただいて、
    コメントいただければ幸いです。

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26≠P継体天皇

2018-01-26 | 天皇陵巡り
  
 古事記では継体天皇でも記述は少なく、第25代武烈天皇が崩じた後に天下を治める人がいなかったので、第15代応神天皇の五世の孫 袁本杼命(ヲホドノミコト) を近淡海(チカツオウミ)から呼んで即位させたと書いた後に、その妻や子の名を書き並べてるだけにすぎません。
 
 日本書紀では、武烈天皇崩御後嗣子が絶えたので、家臣の大伴金村(オホトモノカナムラ)は第14代仲哀天皇の五世孫を丹波国(タニハノクニ)から迎えようとしましたが失敗、あらためて北陸の三国から前回26≠R彦主人王の子、すなわち応神天皇から五世の孫、来孫(ライソン)である 男大迹王(オホドノオホキミ)を迎え、樟葉宮(クズハノミヤ)(大阪府枚方市)で即位させ、第26代継体(繼體)天皇(ケイタイ)となりました。
 以前に行った福井県武生(タケフ)には、継体天皇が越前の王として君臨していた宮跡の石碑もありました。
   
 この時は越前そばを食べに行ったのですが、その近くの岡太神社(オカモト)の境内にある継体天皇潜龍の地の碑。
 *潜龍(センリュウ);潜んでいて、まだ天に登らない龍。
        すなわち、英雄賢人がまだ世に出ないで、隠れていること。
 継体天皇はその頃にはもう結婚していて、目子媛(メノコヒメ)との間には、後に第27・28代天皇になる安閑・宣化天皇が産まれていました。
 頑張って数えると、継体天皇は計8人の妻に、7人の皇子と12人の王女計19人の子を産ませています。
  
 継体は越前から琵琶湖を通り淀川水系を利用し占拠していたので、最初の宮を淀川沿いの樟葉宮に置いたのちも、筒城宮(ツツキノミヤ)(京都府京田辺市)・弟国宮(オトクニノミヤ)(京都府長岡京市)と移り、それまでの政権の中枢に近い大和の磐余玉穂宮(イワレタマホノミヤ)(奈良県桜井市)に入ったのは、即位後20年も経ってからでした。
 それでも御陵は大和ではなく、最初の樟葉宮に近い大阪府茨木市にある全長226ⅿの大きな前方後円墳、この写真の太田茶臼山古墳(オオダチャウスヤマコフン)を三嶋藍野陵(ミシマアイノノミササギ)として宮内庁は治定しています。
   
 名神高速に乗って神戸や大阪に行く途中に高槻を過ぎると、いつもナビの画面左に表われるこの御陵は、防音壁がずっと続いていて車からは見えませんが、陵の周囲を歩いていると、この様に名神高速の壁が見えてきました。
    
 阪急富田駅から歩いて御陵に向かいましたが、周囲には大きな藍野病院や藍野大学が並んでいて、若い学生さんも沢山歩いていました。
   
 参道入り口横には、大きな民家もあります。
 自分の父が天皇でない天皇は、25代までは日本武尊が父の第14代仲哀天皇と、父が山辺押磐皇子の第23顕宗天皇・第24代仁賢天皇の3人だけです。
その後も、歴代天皇で父が天皇でないことは、本人や周りの人の負い目にもなっていたようです。
でも、継体天皇は父どころか、祖父も天皇でない、曾祖父も天皇でない、高祖父も天皇でない、高祖父の父がやっと天皇という系統でしたが、私見ですが、あまりそういうことは気にしないぐらい力強く、また今までの天皇とは違う新しい天皇という自負もあったような気がしています。
    
 拝所は静かです。
 継体天皇の時代は500年初め(6世紀)ですが、この太田茶臼山古墳は5世紀中ごろの造営とみられ、本当の継体陵はここから歩いて訪れた、以前紹介した今城塚古墳の説の方が有力です。
   
 ぐるっと御陵を一周した後円部の方にお墓があって、そこから後円部がまじかに見られましたし、周濠も立派です。
 継体天皇は仁徳天皇からの系統とは繋がっていず、五代前の応神天皇までさかのぼってしか繋がっていません。
そこで第24代仁賢天皇と第21代雄略天皇の娘との間に産まれた 手白香皇女(タシラカノヒメミコ)を后に迎え、王家への入り婿という形でも政権を固めていったと思われます。
そして、その二人の間に産まれたのが第29代欽明天皇(キンメイ)です。
   
 継体天皇の時代、朝鮮半島でもいろいろな問題が持ち上がる動乱の時代で、九州でも筑紫君磐井(チクシノキミイワイ)の反乱があったりしています。
 82歳で継体天皇が亡くなった後、3人の子が順順に王位を継いで入ったようですが、安閑・宣化と欽明の二朝並立説もあります。
 5世紀から6世紀へと、そろそろ歴史学になってくる天皇家の歴史の中で、本当にいたかどうかも含めてなかなか興味ある天皇です。

     返事
花水木さん:他のセーターは縮んでいるのに、
    このセーターは長いのは不思議と言えば不思議ですが、今も着ています。
大雪男さん:継体天皇からみたら応神天皇は高祖父の父、
    まあ関係ない人と思うでしょうね。
    私の高祖父の父は嘉永5年(1852年)没ですので、全く知りませんよね。
    高祖父は江戸城大奥の門を守る裏門切手番、私の血に女好きがすこし入ってるのは・・・。

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26≠R継体天皇父彦主人王

2018-01-21 | 天皇陵巡り
  
 日本の天皇家は万世一系(永久に一つの系統が続くこと)と言う言葉の上に成り立っていますので、系図をたどると、一応現在の今上天皇まで繋がっていることになります。
 しかしながら、前回の第25代武烈天皇から第26代継体天皇との間の繋がりはかなり薄いところがあり、これを万世一系と言うのか、少し疑問にも思います。(他にも、もしかしたら途絶えているかとも思える天皇もありますが)
 第25代武烈天皇が崩御した後、子供や従兄弟などの近い親族に、家臣達皆もこの人を推したいと思う有力者がいなかったようです。
それは、第16代仁徳天皇天皇から始まって、第20代安康天皇・第21代雄略天皇などが、あまりにも近親者を殺しすぎたことが原因にもなっています。
   
 その薄い系統を辿るために、今回は26≠P継体天皇の前に、その父である26≠R彦主人王(ヒコウシノオオキミ)から始めてみます、
 私は家系図をパソコンで書いて出せないので、文章にせざるを得ません、ややこしくて筆力もないので解かりにくいですが、この文を元に家系図を書くか天皇家の家系図をどこかで捜して見て下さい。
 第15代応神天皇1⃣から始めると、1⃣の子には第16代仁徳天皇の他に稚渟毛二岐皇子(ワカヌケフタマタノミコ)2⃣もいました。
 2⃣の子で1⃣応神の孫である意富富杼王(オオホドノオオキミ)3⃣は、第17代履中天皇・第18代反正天皇・第19代允恭天皇とは従兄弟同士になります。
 3⃣の子乎非王(オイノオオキミ)4⃣は、第20代安康天皇・第21代雄略天皇とは再従兄弟(マタイトコ)同士になりますし、1⃣応神からみると曽孫(ソウソン・ヒマゴ)になるということです。
 そして今回の主人公1⃣応神の玄孫(ゲンソン・ヤシャゴ)で4⃣の子である彦主人王は、第22代顕宗天皇・第23代仁賢天皇とは三従兄弟(ミイトコ)同士になります。
   
 このように彦主人王は、天皇家とはかなり離れた存在になっていましたが、地方豪族として、今の滋賀県近江の国と、今の福井県など北越五か国を治め、ここ湖西の高島でかなりの勢力を築いていました。
  
 そして福井県の三国から、当時から有名な美人であった第11代垂仁天皇の子孫と言われる振媛(フリヒメ)を妃として迎え、高島の地で産まれたのが後の第26代継体天皇です。
 写真の如く参道はかなり立派ですが、制札には安曇陵墓参考地(アドリョウボサンコウチ)と書かれているだけでした。
    
 ただし、彦主人王は継体天皇が5歳の頃に亡くなり、若くして未亡人になった振媛は、子供を連れて実家の三国に帰り、実家の支援もあったでしょうが、シングルマザーとして遺児を立派に育てたようです。
 湖西の高島には車で1時間ほどで行けるのでよく行きますが、彦主人王の墓と言われるこの田中王塚古墳(タナカオウヅカコフン)を宮内庁は安曇陵墓参考地と治定しています。
 近くにある鴨稲荷山古墳(カモイナリヤマコフン)からは大きな家形石棺やこんな立派な宝冠(復元品ですが)も出土してるので、湖西地方は6世紀頃はかなり進んだ地域だと思われます。
   
 近くには、振媛が継体天皇のへその緒を埋めたという胞衣塚(エナヅカ)までありました。
奈良盆地より滋賀県琵琶湖周辺は、気候的にも農業的にもかなり住みやすい場所だった気はしますね。

   返事
和さん:*高槻中高は長男です。
     *姫路城の急階段?どこにあたるのか記憶が戻ってきません。すみません。
    天守の階段ですか?
大雪男さん:*幸せ家族も30年前の姿です。
     *たぶんこういうおそろいの服は義母からの贈り物で、阪神ファンと関係ないと思いますが、
    一応子供3人も素直に阪神ファンです。
花水木さん:*家内の足は膝から上が結構太くなっています。
     *セーターが伸びただけで、私の腕は短くなく、当時の私の腕は確かです!?
     *今は夫が妻に寄り添っては拒否されています。
     *長男も今や単に汚いおっさんです。

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正月明けの旅行3

2018-01-18 | 
  
 牛窓を出て北に向かいます。
世界最古の庶民のための公立学校である旧閑谷学校(シズタニ)も見に行きました。
 岡山県の東の端、備前にある特別史跡です。
高校の日本史で名前を知って、「閑」の字が印象的で憶えていて、一度は行きたかって、意外と行ってなかった場所です。
   
 備前焼の瓦が美しい建物群ですし、一番大きいこの講堂は国宝ですが、今も学習に使われているようです。
   
 学校全体を取り囲む765ⅿの石塀が、300年を経た今もそのままに有って、丸いカーブが美しく、私はなんとなく、五島列島の福江の武家屋敷を思い出しました。
   
 岡山藩主の池田光政が、庶民教育の学校を建てるように命じたのですが、実際に実行した家臣の津田永忠(ツダナガタダ)がなかなかの人物だったようで、その人が最後まで住んだ学校近くの屋敷跡のそばに、この黄葉亭(コウヨウテイ)と言う茶室がぽつんと建っていました。
   
 国宝ついでに、世界文化遺産でもあり、綺麗に修理された姫路城(白鷺城)にも寄ってきました。
  
 やっぱり大きい!
千円の入場料が高いか安いかは別にして(得意のシニア割引もありませんでした)、観光客は多く、天守閣の中は混みあっていました。
  
 この写真を撮っていて、このアングルになんとなく見覚えがあるので、帰って過去の写真を見てみたら、
   
 30年前に家族5人で来て、この場所で写真を撮っていました。
比べてみたら、30年前の方が木が多かったんですね、そして今よりはもう少し仲良しでしたね。
   
 子供たちも30年間で大きくなりました。
末の娘も、今春にはお母さんになる予定です。

    返事
花水木さん:京都の湯豆腐は美味しいですが、
    値段が高すぎる気はします。
     私の愛の灯はまだ燃えているのですが、甲斐バンド以上に
       カナイ おまえの愛の灯は まだ燃えて~いるか~いsymbol7break
    と心配しています。

コメント (3)
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