島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

雪の小浜

2022-02-27 | 
 
 世の中何が起ころうが(ほんまにおこってますが)、定期的に魚が食べたくなりますので、雪もやっとやんだようなので、小浜までドライブしました。
小浜湾の人魚浜にも雪はありました。
 
 小浜まではだいたい鯖街道を通っていくのですが、道の駅熊川宿の旧街道も雪景色。
 
 国道自体は綺麗に除雪されていて、安全に走れますが、ちょっとした信州スキー旅行の気分を思い出させます。
 
 でも、雪の多い地方に住んでる人は大変でしょうね。
 
 道の端は、除雪された雪で、立山黒部アルペンルートの雪の大谷のミニ版でした。
 
 さすがに通行する車も少なく、その意味ではいつもより走りやすかったぐらいです。
 
 お刺身・カキフライ・唐揚げ・じゃこ飯は完食して、ゆっくり帰りました。

        返事
Toitennさん:何が「ほんまにね…」ですか?
    最近文章理解能力が落ちてますので。
和さん:水曜日午後は家ですので、
    若一調査隊は大体観てますが、
    今回も、温室以外ほぼ同じ道を歩いていました。

コメント (3)
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京都府立植物園

2022-02-25 | 京都
 
 ロシアのプーチンがウクライナにほんまに攻め込みましたね。
今の世の中でもこんな理不尽な武力が施行されるのですね。
 そんな世界で、こんな小さい話を書いてる私も私ですが。
戦後は進駐軍に摂取されていた京都府立植物園に行きました。
我が家から子供の足でも歩ける距離の植物園まで、寒い日でしたが散歩です。
 
 園内の梅林の梅も、まだあまり咲いていませんでした。
 
 花らしい花は、わずかにスノードロップという、LED電球のような花が咲いているだけ。
 
 一画で「早春の草花展」が開かれていたので、ここだけはカラフルな春でした。
 
 これ見よがしに、花屋の店先のように咲かされていましたが、それでも色があるのは春らしい気がします。
 
 私たち夫婦は70歳以上で無料、娘たちも「きょうと子育て応援パスメ[ト」で無料、歩いたので交通費もかからない遠足でした。
ウクライナも昨日までは幸せだったのに、私のようにのんびりばかりは罰が当たりそうですね。

      返事
Toitennさん:埋もれすぎて、
    腐葉土にならないようにしてください。
花水木さん:私も雪は喜ぶほうです。

コメント (2)
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彦根城

2022-02-23 | ノンジャンル
 
 北陸は雪の世界のようになってる先週でしたが、京都もちょこちょこ雪は積もりました。
この雪がもっと積もってる世界を見に行こうと、彦根までドライブしましたが、この日は思ってたより道に雪はなし。
彦根城(800円)にも雪はそれほど残っていませんでした。
 
 国宝彦根城天守、国宝の天守は他には姫路・松本・犬山・松江だけです。
最近お化粧直しをされたのか、金箔も瓦も壁もきれいでしたが、屋根に雪は少しだけでした。
 観光客もまばらですが、それなりに来てました。
 
 彦根城と言えば、時代劇にもよく使われるこの廊下橋(戦時には落とします)と天秤櫓。
 
 玄宮楽々園(ゲンキュウラクラクエン)は大規模な池泉回遊式庭園ですので、このアングルの雪景色は写真でもよく見ますね。
池は氷も張って行って、逆さに建物が映ってました。
 
 奥の鳳翔台(ホウショウダイ)で一服(500円)。
お菓子は井伊直弼が過ごした埋木舎(ウモレキノヤ)にちなんだ彦根の銘菓「埋れ木」でした。
前の庭や池、後ろの天守を見ながら、暖かくいただきました。
 結局この日はこの小さなお菓子を食べただけで、昼も食べずに、雨が雪に変わる前に帰ってきた1日でしたが、次の日TVでは彦根は大雪でした。

コメント (2)
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102-2後花園天皇後宮嘉楽門院藤原信子

2022-02-20 | 天皇陵巡り
 
 信子(ノブコ・シンシ)(1411~1488)は実父の身分が低かったので2回猶子に出され、第102代後花園天皇(1419~1471)(在位1428~1471)の寵愛を受けたので、公卿の大炊御門信宗(オオイノミカドノブムネ)の猶子にもなって、宮中に召されました。
  信子の墓は般舟院陵(ハンジュウインノミササギ)で、その制札には夫・息子の分骨所の名に挟まれて、後花園天皇後宮嘉楽門院藤原信子墓(カラクモンイン)名がありました
 
 8歳年下の後花園天皇との間には、歓心女王(カンシン)(1334~1491)・成仁親王(フサヒト)(1442~1500)が生まれています。
  般舟院陵(上京区今出川千本東般舟院前町)は嘉楽中学の隣で、平安京朱雀大路のそばでもありましたので、今でも町中になりますが、たぶん秀吉が伏見城を造る時に、近くにあった伏見宮家ゆかりの般舟院をここに移築させたので、こんな町中に陵があることになったんだと思います。
夜や土日はこの門は閉じてあるそうです
 
 後花園天皇と他の妃の間には皇子が生まれなかったため、唯一の皇子成仁親王が第103代後土御門天皇になれましたが、余りにも実父の身分が低い信子が女院嘉楽門院の称号を与えられたのは、危篤に陥ってからでした。
しかしその後は快方に向かい、7年後に亡くなってこの般舟院陵に祀られましたが、陵ではなく陵内の墓です。

         返事
Toitennさん:ネタよりシャリの質を問うとは、
    なかなかのもんですね。
花水木さん:踊っても・歌っても・外科医も、
    もう出来なくなってる私です。
     静岡も結構感染者数多いですね、
    でも3月にはもう終わると思いますよ。

 
コメント
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102-1後花園天皇

2022-02-17 | 天皇陵巡り
 
 北朝天皇としては6代目の第101代称光天皇(1401~1428)(在位1412~1428)が、精神的にも肉体的にも弱く、たびたび危篤状態になって、その度に南朝方が勢いを増すので、くじ引きで室町将軍になった第6代足利義教(ヨシノリ)(1394~1441)は、後小松上皇(1377~1433)に次の天皇を早く決めるように急かしていました。
  写真の制札のように、後花園はひいひいじいちゃん(高祖父)にあたる北朝初代光厳天皇と同じ陵に眠っていますし、ここは息子後土御門の分骨所でもあります
 
 北朝方としては、称光天皇より3代さかのぼって長子にあたる北朝3代崇光天皇の子孫から人を選ばざるを得なくなり、称光天皇が崩御すると、崇光の皇子で皇位に就きたかった栄仁親王(ヨシヒト)(昨年9月参照)の息子伏見宮3代目貞成親王(サダフサ)(昨年10月参照)の第1皇子彦仁王(ヒコヒトオウ)を、後小松上皇の猶子として親王宣下のないまま9歳で即位させ、第102代後花園天皇(ゴハナゾノ)(1419~1470)(在位1428~1464)となりました。
  陵印も山国陵と同じです
 
 後花園天皇の父貞成親王も、一度は後小松上皇の猶子になって次の天皇になる準備をしていましたが、これは称光天皇の怒りに触れて出家させられていたので、後花園天皇の成立は崇光流の伏見宮家の念願成就で、喜んだとのことです。
 これは明らかに、伏見宮家の子種の多さの勝利でしょうね。
  京都の北の山の中、常照皇寺の横の道の参道を上って行きます
 
 養父の後小松上皇が亡くなると、父貞成親王も天皇の実父として存在感を示すようになりましたが、嘉吉の乱(1441年)で足利将軍義教が赤松満祐(ミツスケ)に宴会の席で殺されたり、1443年禁闕の変(キンケツノヘン)では禁闕(皇居内裏)に後南朝方が押し入り、三種の神器の内剣と勾玉が奪われるという事件も起こっています。
  近寄れない陵を仰ぎ見ます
 
 女院藤原信子(ノブコ・シンシ)(1411~1488)との間に産まれた成仁親王(フサヒト)(1442~1500)に譲位し、上皇としてその直後に起こった応仁の乱(1467年ヒトノヨムナシ)の初期を生きた後、後花園は崩御し、遺言によって光厳天皇陵と同じ常照皇寺内の後山国陵(ノチノヤマグニノミササギ)(右京区京北井戸町)に葬られました。
分骨所は般舟院陵に、そして写真の火葬塚(上京区扇町)は大應寺境内にあって、今は堀川鞍馬口に面した高校駅伝などでもよくTV画面に映ってくる場所です。

         返事
Toitennさん:私の城陽訪問が知れたら、
    旗と幟の歓迎が待ってるので、
    恥ずかしくて言えませんでした。
    「糸八」新装されてましたね、上握り2800円になってますか!
    昔は2000円しなかった気もしてますが。

コメント (2)
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