小野妹子のついでに、息子小野毛人に続くその子孫について。
小野家の出は元々、滋賀県湖西の琵琶湖大橋の少し北、小野の郷らしいです。
近くには、小学校の水泳遠足で行った和爾浜水泳場があるので、小野家のもっと先祖になる和爾氏(ワニシ)ゆかりの地でもあるようです。
家から車ですぐの小野毛人墓のある崇道神社の横を通って、八瀬大原を抜け、途中峠を越えると、小野妹子そのままの名前が付いてる道の駅まである、小野の郷までは30分ぐらいで着きます。
小野の郷の新興住宅地の真ん中に残った、小高い丘のような唐臼山古墳(カラウスヤマコフン)は、7世紀前半に造られたようですが、ここも小野妹子の墓だと言われています。
そこには鳥居をくぐって、急な石段を上がる、小野妹子神社もあります。
小さな小野妹子神社本殿の裏にある小山は、太子町磯長にある妹子墓や崇道神社奥の毛人墓になんとなくイメージが似ていました。
唐臼山古墳の展望台からは、住宅地の向こうに琵琶湖大橋や、湖東の三角形の近江富士も見渡せました。
小野妹子から5代後の小野篁(タカムラ)(802~853)、参議篁として小倉百人一首の11番目の歌でも有名です。
妹子は遣隋使として2回も中国に渡っていますが、篁は遣唐使として派遣されるのを拒否して、嵯峨上皇の怒りにふれ、隠岐に流されています。
その後は許され、昼は朝廷に出廷し、夜は冥土へ通じる六道の井戸を通り、閻魔大王に使えていたという伝説もあります。
この篁と小野一族を祭神として祀る小野篁神社と小野神社、この本殿は、何故降格されたか知りませんが、誰かの怒りに触れたのか、旧国宝で現在は重要文化財でした。
小倉百人一首第9番小野小町も、篁より2代後の小野一族とも言われていますが、判りません。(奈留島百人一首のため島の官舎の部屋で撮ったカルタ写真、官舎の畳が懐かしい!)
小野神社境内には、小野小町の塔もありました。どんな由緒かはわかりません。
小野神社から梅雨前の暑い道を歩くと(家内にも付き合ってもらいました)、よく似た造りの小野道風神社にたどり着きました。
小野道風(トウフウ)(894~967)も篁の2代後になりますので、妹子から数えると道風は7代後、妹子の仍孫(ジョウソン)(孫の孫の孫の子)になります。
この本殿も、旧国宝の今重文でした。
字の上手な三筆は、空海・嵯峨天皇・橘逸勢(タチバナノハヤナリ)、三蹟は、藤原佐理(スケマサ)・藤原行成(ユキナリ)とこの小野道風です。(昔から何回憶えても覚えきれませんでした)
花札の「柳に小野道風」の絵柄でも有名ですので、鳥居横にはこんな池もありました。
暑い中いくら待っても、蛙は柳に飛びつけませんでしたので、行動しなければなんの結果もかち得ないということを知りました。
小野家は、菓子の免許を与えることを許された家でもあったので、小野家は日本の華道・菓道両方の創生発展に寄与していたようです。
帰り道、琵琶湖大橋のちょっと有名らしい店でランチしましたが、小野家の墓参りをしたおかげか、そのデザートは豪華で美味しかったですよ。
返事
花水木さん:池坊はごたごたしていて、
京都でも人気はもひとつのようです。
珍しい名前と言えば、奈留島にいた大学柔道第3位になった
熊埜御堂未来(クマノミドウミライ)さん、もうせっかくの苗字も変わってますかね。