島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

新緑

2021-04-30 | 京都
 
 今年の私のGWは7日間、でも不要不急の外出は控えて自粛の世の中ですので、どこにも行けません。
第1日目は土砂降りの雨なので、もちろん自宅から出ませんでした。
第2日目の今日は上天気、京都市内の御陵を地下鉄とバスで巡りました。
 先ずは沢山の天皇が眠ってるので、もう少し写真の枚数を増やしておくために、月輪陵を訪れます。
 
 全くの不要不急の外出ですので命令違反ですが、ブログに書く順番がせまってきてる陵も有るので、行かなくてはブログが進まないという、急用の外出と言うことでお許しください。
普通の人は今日は平日ですが、乗った地下鉄もバスも空いています。
月輪陵は泉涌寺内に有りますが、緊急事態宣言で閉じているのか、拝観受付に人はいませんでした。
 
 泉涌寺内には、写真の陵印を貰ってる宮内庁の月輪陵墓監区事務所もありますが、周囲は緑で最高の季節なのに、散歩の人を少しだけ見かけるだけです。
 
 隣の今熊野観音への鳥居橋も、ミドリ・緑・みどり。
影に立ってると少し冷えますが、歩くとちょうどよく、ほんまに新緑の候ですが、誰もいないのがもったいない!
 
 続いて祇園さんに。
正面交叉点にも人はまばらですが、写真を撮ってる傍の店の外には、いつもの順番待ちの列は出来ていました。
 
 最近国宝に成った八坂神社本殿、子供の時は八坂神社の氏子だったので、まあ良かったと言えば良かったのですが、今更これが国宝という気もします。
いつもならお詣りの人で一杯ですが、写真に誰も写らないぐらいですので、久しぶりにお賽銭を少し投げてお祈りしました。
 
 円山公園にある、与謝野晶子が「今宵遭う日と皆美しき」と詠んだ有名な枝垂れ桜です。
周りにこんなに木が有ったかなあと、又「皆美しいけど自分が一番美しいと詠んでるんですよ」と国語の先生が解説した時に、「美人とは思えない晶子の写真から、厚かましい女やなあ」と思ったことを、思いだしました。
 
 知恩院山門も緑が一杯、GWでこんなに観光客がいないのは、いくら何でも寂しい限りですが、状況は私みたいにのんびりしていてはいけないぐらいになってきましたね。
 ここで菅首相は、「オリンピックは止めて、競技会場や組織委員全員やオリンピック用の医療スタッフ全員を新型コロナ撲滅に振り替えます」と宣言して総選挙したら、勝てるかもしれませんよ。
 
 知恩院とこの大楠木がある、青蓮院との間にある、
 
青もみじが一杯の花園天皇陵を巡って、赤飯と柏餅を買って(写真は食べてから思いだしました)、晴れてる間に帰りました。
 明日はまた天気が悪そうです。
土・日は競馬鑑賞ぐらいしかないですかね。
 せっかくのGW、なんかむなしいですが、しかたないですね。 

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

87-1四条天皇

2021-04-28 | 天皇陵巡り
 
 第86代後堀河天皇(1212~1234)にやっと生まれた第1皇子で、母は九条道家(1193~1252)の娘竴子(シュンシ・ヨシコ)(1209~1233)の秀仁親王(ミツヒトシンノウ)は、生誕後すぐに立太子しわずか2歳で即位、第87代四条天皇(シジョウ)(1231~1242)(在位1232~1242)です。
 
 四条天皇の即位には、鎌倉幕府からは「不快」の意思表示もありましたが、外祖父九条道家の三男が鎌倉幕府4代将軍九条頼経(ヨリツネ)(1218~1256)、長男は摂政九条教実(ノリザネ)(1211~1235)であり、平清盛の権勢にも並ぶと言われた教実・頼経の祖父でもある前太政大臣西園寺公経(キンツネ)(1171~1244)は道家の舅でありましたので、絶頂期の道家の力で四条天皇は生れています。
  泉涌寺の中にある月輪陵、入り口で御陵に参拝しますと言ったら拝観料は無で通してくれました。さすが泉涌寺、太っ腹でした
 
 四条天皇即位後は、父後堀河上皇が院政を敷きましたが、わずか2年で父は亡くなり、以後は九条道家や西園寺公経が政治を動かし権勢をふるいました。
  月輪陵制札にはずらっと数えきれないぐらいの名前が書いてありますが、其の1番手が今回の四条天皇です
 
 その後四条天皇は11歳で元服し、九条教実の娘彦子(ヒロコ)を女御に迎えますが、女よりいたずらの方が好きなまだ子供だったのか、次の年にお傍のものを滑らせて喜ぼうと、御所の廊下にいたずら心から撒いた滑石で、なんと自らが滑ってしまい、皆の予想外の12歳で亡くなってしまいました。
  これから何回も出てくる月輪陵、写真が重ならないように、連休にでももう一度行って、たくさん写真を撮っておきます
 
 四条天皇には兄弟も息子もいなかったので、次期皇位を巡っては物議が持ち上がりましたが、鎌倉幕府は後鳥羽-順徳系の天皇を認めず、比較的中立を保っていた土御門天皇系の後嵯峨天皇が生れました。
 こうして次期天皇は藤原家系の公家が決めるのではなく、武家社会が口出しして決める世の中に変わっていきました。
  京都駅の東南に有る御寺泉涌寺(ミテラセンニュウジ)、四条天皇の葬儀はこの寺で行われ、父後堀河天皇陵傍のこの泉涌寺内月輪陵(ツキノワノミササギ)(東山区今熊野泉山町)に葬られました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

86-2後堀河父太上天皇後高倉院

2021-04-26 | 天皇陵巡り
 
 少々過去に戻りますが、第80代高倉天皇は平清盛の娘徳子との間に第1皇子第81代安徳天皇をもうけていますが、坊門殖子(ショクシ)との間に第4皇子第82代後鳥羽天皇ももうけていましたね。
そして同じく、殖子との間に高倉天皇第2皇子として産まれたのが守貞親王(モリサダシンノウ)(1179~1223)です。
  写真は仲恭天皇陵と、その途中にある崇徳天皇皇后聖子陵への参道入り口です
 
 1183年7月の平家都落ちに伴い、安徳天皇の皇太子という形で同行し、壇ノ浦で平家が滅亡し、異母兄安徳天皇も入水し亡くなりましたが、守貞親王は救出されて京都に戻っています。
しかし戻った都では、もう同母弟の第82代後鳥羽天皇が即位していました。
  写真では分かり難いですが、聖子の月輪南陵の手前右手に、それらしきものが見えてきました
 
 その後は、守貞親王は次期天皇に推されたこともありましたが、現実は土御門・順徳と後鳥羽系が皇位を継いでいったので、1212年には出家して行助入道親王(ギョウジョニュウドウシンノウ)と名乗りました。
  写真の如く、後高倉院の鵺塚(ヌエツカ)陵墓参考地出土遺物埋納所(伏見区深草本寺山町)の碑が立つ、四角形の山だけです
  
 その後1221年に起こった承久の乱で、鎌倉幕府は後鳥羽系の皇族を処分したので、世俗に在る男子皇族は行助入道親王の三男茂仁王(ユタヒトオウ)のみとなったので、この茂仁王に白羽の矢が立ち第86代後堀河天皇(1212~1234)(在位1221~1232)になったのです。
  横には後高倉院の娘で甥の四条天皇の准母になった尊称皇后利子内親王の秘塚(ヒメツカ)陵墓参考地からの出土遺物が埋められています
 
 10歳の三男が天皇に成ったので、守貞親王(行助入道親王)は治天の君として太上天皇号を贈られ、院政を敷きました。
  二つ並んだ埋納所の上の生け垣は、もう月輪南陵です
 
 しかしながらわずか2年で亡くなった守貞親王は、後高倉院として北白河に葬られたようです。
葬られたと言われる鵺塚が元々あったのが、写真の平安神宮大鳥居と平安神宮の間にあったようで、明治27年に御陵伝説地に治定されていました。
しかし戦後すぐで宮内庁の力も弱かったのか、昭和30年にここを岡崎グランド(主に野球場)にする為に、なんと言うことか立ち退きにあったようです。
それでここ九条陵の空き地に出土遺物(どんなものなんでしょうね)は埋納され、陵墓参考地も外されたようです。

       返事
大雪男さん:4月末現在の私のセ・リーグ順位予想
    阪神➡広島➡ヤクルト➡巨人➡中日➡横浜
    無理がありますかねえ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さて何をするか?

2021-04-25 | ノンジャンル
 
 藤が咲く季節になりましたが、京都も今日から緊急事態宣言下に入ります。
老人ホームの特養入所者と介護職員には1回目ワクチン接種無事終わりました。
養護入所者の人はまだ予定たっていませんが、私は医療従事者として連休前後にはワクチン接種できそうです。
 どこも行けないので、今朝は近くの宝ヶ池散歩して、朝からブログを書いています。
 
 写真中央はUFOではなく、懐かしい古いキミマロズームで撮ったので、レンズのシミです。
 明日から3日働くと、私は丸々1週間のゴールデンウイークですが、どこも閉まってそうですし、得意の滋賀県イオンや平和堂にも来るなと言われてるようなので、困ってます。
 
 新緑の候、プロ野球TV観戦か競馬勝負かWOWOW鑑賞ぐらいしか思いつきません。
自転車で京都市内の御陵も廻っておかないととか、断捨離で本棚整理出来ればよいのですが・・・。
 先ずは午後からの競馬に勝って、阪神も勝って、楽しくゴールデンウイークを迎えたいものです。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

86-1後堀河天皇

2021-04-23 | 天皇陵巡り
 
 承久の乱直後、鎌倉幕府は討幕計画に加わった後鳥羽上皇(1180~1239)の系統を嫌がって、第80代高倉天皇(1161~1181)の孫にあたる茂仁親王(ユタヒトシンノウ)(母は藤原基家の娘陳子(チンシ))をなんとか探し出して、わずか10歳でしたが第86代後堀河天皇(ゴホリカワ)(1212~1234)(在位1221~1232)として即位させました。
  写真の石碑の立つ泉涌寺横の参道を登って行きます
 
 茂仁親王の父守貞親王(モリサダ)(1179~1223)は、異母兄第81代安徳天皇と共に壇ノ浦まで連れて行かれ、なんとか京に戻った時には、同母弟第82代後鳥羽天皇が皇位に付いていたので、1221年には出家し行助入道親王(ギョウジョニュウドウ)と名乗っていました。
 
 後堀河天皇が誕生したので、皇位に付いていなかった父守貞親王(行助入道親王)は高倉院として院政を敷きましたが、2年で亡くなったので、後堀河天皇の一応院政が始まりました。
  参道途中左の脇道が、後堀河天皇陵の参道になっていました
 
 後堀河天皇のもとには、前太政大臣三条公房(キンフサ)の娘や関白近衛家実(イエザネ)の娘が入内しましたが、皇子は産まれず、前摂政九条道家の娘竴子(シュンシ・ヨシコ)(1209~1233)が入内し、やっと皇子秀仁親王(ミツヒト)(1231~1242)が産まれました。
  少し石段を上がって曲がると御陵です
 
 後堀河天皇の治世中は、もっぱら鎌倉幕府による承久の乱の戦後処理が行われ、道家の外祖父に早くなりたい意向と、病弱なために早く退位したい後堀河天皇の願いが一致して、鎌倉幕府の反対はあったようですが、強引にまだ2歳の秀仁親王に譲位し、四条天皇の下院政を開始しました。
 
 愛する美人妻竴子が三度目のお産で亡くなったこともあってか、譲位後2年にして23歳で後堀河は亡くなり、泉涌寺が見下ろせるこの観音寺陵(カンオンジノミササギ)(東山区今熊野泉山町)に葬られています。

       返事
じょんのびかあさんさん:お久しぶりです
    高校の時は可愛いだけの女の子と思っていましたが、
    小学校で習ったことをまだはっきりと覚えてる才女だったんですね。
    ト音記号の書き方なんか、全く記憶にない私です。
Toitenlabeeさん:ハニホヘトイロハがドレミファソラシドなんですね。
    病院の頃は単におもろいおばはんと思っていましたが、
    なかなか賢いおばはんだったんですね。
    文書プロ級だったですよね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする