島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

70.祇園ちご餅

2024-07-17 | 京都へ、京都から

 本日(17日)は祇園祭の山鉾巡行、曇り空で蒸し暑いですが、これくらいの方が木村君は楽ですかね。

今年の祇園祭は、何も予定がなかったので、このブログを書き上げたら巡行のテレビ中継を観るぐらいです。

 ブログネタに困ったら続けていた「菓子珊珊(サンサン)」山下恵光著をもじった「菓子たくさん」、70回目になりました。

 祇園祭にちなんで、「祇園ちご餅」です。

一包み三本入り、竹の皮風の紙で包み三色の短冊で飾ってあります。

 三本の串に刺された可愛いお餅です、一包み540円。

稚児の御位貰いの帰りに、八坂神社の門前の茶屋で、稚児が一堂に味噌だれをつけた餅をふるまい、そのちご餅が疫を除き福を招くと評判になったようです。

 本家若狭屋(江戸時代創業)から別れた1893(明治26)年創業の三条若狭屋のご主人が、大正初期にこのちご餅のことを知り、それに創意工夫をし創作したそうです。

 白みそを甘く炊いたものを求肥で包み氷餅をまぶし竹串にさしてあります。

三条若狭屋から近い所に住んでいた私は、上等なのでそんなに食べる機会は有りませんでしたが、昔から好きでした。

 今回は次男一家が宵宵々山を見に行った帰りに寄ってくれて、お土産に鉾の形の箱に入ったのをくれました。

 この後8時半からの巡行中継を観て過ごします、少し晴れてきました。

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志賀山越3.

2024-07-14 | 京都へ、京都から

 いよいよ荒神口界隈を抜けて、賀茂川に架かる荒神橋(コウジンバシ)を渡ります。

向こうの山が比叡山です。(比叡山とブログでよく書くようになって、やっと比叡山と漢字で書けるようになりましたが、いつまで覚えてられるか自信ありません)

 橋のたもとの河原に、2本の溝は有る敷石が敷いてありました。

江戸時代まで立派な橋がない頃は、こんな風に河原の土手から川の中まで、こんな車石を敷き詰めて、この石の上を重い荷車や牛車を通していたようです。

 荒神橋の欄干の一部にも、車石を模したのか、こんなデザインの欄干も有りました。

 1914(大正3)年に立派な橋になり、つい最近耐震補強して、更に丈夫な橋になってます。

 荒神橋の上から上流を眺めます。

私の在学中と違って、立派な建物に変わった京都府立医科大学の校舎や病院が目につきますが、私はこの河原の狭いグランドでラグビーの練習をしていて、時々ボールを川に入って取ってました。

 川の中に飛び石が有ります、橋がない頃やあっても丈夫でない頃は、こんな飛び石を伝って人は川を渡り、荷車は車石で渡ったのでしょうね。

少しの雨でも増水時は、鴨川より東に行くことはなかなか簡単ではなかったようですね。

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志賀山越2.

2024-07-12 | 京都へ、京都から

 荒神口周辺は、大学・研修医・修練医の10年ほどはホームグランドでしたので、「荒神口食堂」「天狗」などの食堂や麻雀荘「しかま」(どう書いたか覚えてません)、喫茶店の「リバーバンク」「しあんくれーる」など、甘い甘いようでほぼ苦かった青春の思い出多い場所です。

 最近WOWOWで観た映画「ヒポクラテスたち」監督大森一樹。

私より数年下ですが、入学した時には高校時代に撮って賞を貰った、パラパラページをめくる映画で有名だった大森一樹君、学内の図書館でその映画を観ました。

その後は本当の監督になって、「ヒポクラテスたち」は私より5年ぐらい下の医学生達の生活する映画でしたが、荒神口など懐かしい場所が出てきていました。

 ゴジラなどの大手の映画も撮って活躍してましたが、数年前に死んでいたことを今回知って、驚いています。

 それなりに通には有名だった「しあんくれーる」というジャズ喫茶も有りました。

女にもてる進歩的学生になるためには、ジャズを好きにならなければと、いろんなジャズ喫茶に友達に連れて行ってもらい、ここには時々行きましたが、結局ジャズは解らずの流行歌謡曲派で終わりました。

 もう50年以上前の事なので時効と思いますが、「しあんくれーる」のメニューを無断でもって帰っていました。

1970年前後、コーヒー120円は、ジャズ喫茶なので少々高めの設定ですね。

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志賀山越1.

2024-07-05 | 京都へ、京都から

 続いて京の七口の一つ荒神口(コウジングチ)から滋賀県に抜ける、志賀山越(シガヤマゴエ)(私としては普段使ってる山中越(ヤマナカゴエ)の方が馴染みが有りますが)の回に移ります。

 地図は又、増田潔「京の古道を歩く」からの無断掲載ですが、荒神口から青矢印の経路です。

 写真で左右に走る河原町通りと前後の荒神口通りの交差する、ここが荒神口です。

私には大学や研修医・修練医時代におなじみの交差点ですので、この辺から出発します。

 その前に荒神口通りを少し西に行った所にある、最近新しい校舎になった鴨沂高校(オウキコウコウ)を紹介します。

1872(明治5)年に開校、1923(大正12)年に京都第1高等女学校、1948(昭和23)年京都府立鴨沂高等学校になった、私の出身京都市立堀川高校より名門です。

最近は成績や人気に陰りが見えてたそうで、校舎を新しくし、制服を変えて又人気が出てきたようですが、新築前の土塀と立派な門のあった時代の方がいい感じでした。

山本富士子・田宮二郎・団令子、同い年の大信田礼子や中退ですが沢田研二と、昭和のスターを鴨沂高校は輩出させています。

ちなみに鴨沂は、鴨川のほとりの意味だそうです。

 その隣にあるのがこの清荒神(キヨシコウジン)、そもそも荒神口の名は、京都七福神の一つで1600(慶長5)年にこの地に移された清荒神から起こってます。

江戸時代には護浄院(ゴジョウイン)(天台宗)の院号を賜り、今に至ってるそうなので、まあここが志賀山越(山中越)の起点でしょうね。

 境内には第119代光格天皇の胞衣(エナ)(胎盤)を埋納した、この御胞塚(オンエナヅカ)が有ったので、天皇陵巡りでも紹介していましたね。

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大原街道17.

2024-07-03 | 京都へ、京都から

 今は367号線となっている本道とクロスするようになってる旧道を、進みます。

 この辺りの山間の細長い集落が、八瀬童子と言われる人々の住居、本来の八瀬だと思います。

 八瀬(矢背)の地名の由来になってる、ちょっと疑問符の付く、第40代神武天皇の矢傷を治したと言う竃(かま)風呂の実物が有りました。

まるで大きなお饅頭ですね。

 このかま風呂は、青木・青松葉を焚き、頃合いを見て火を引き塩水を撒いて、菰を敷いて中に入る蒸し風呂です。

正面のこの小さな入り口から暗い中に入るのは(今は補強の柱が入っていますが)、小さなサウナでは時々恐怖感が出てくる閉所恐怖症の私には、入ってゆったりすることなどは無理でしょうね。

前述の平八茶屋にも、これより大きく開放的なかま風呂が有り、食事した人は入れましたが、私は入りませんでした。

 祭神として菅原道真(845~903)を祀る八瀬天満宮社(ヤセテンマングウシャ)、道真が若い頃に自己研鑽の為に比叡山に通う折に、此の地で休息したと言われています。

 山裾のある天満宮社に上って、逆に八瀬の集落や大原街道を見下ろします。

静かで誰もいませんでした。

 ここから恋に疲れたら行く、京都~大原三千院♪の

大原を通り抜け、途中峠・花折峠を越えて、朽木・熊川宿から小浜へ抜けるのが大原街道(若狭街道)です。

車ではしょっちゅう通てますが、今回の大原街道探索はこの辺りまでが限度ですので、終了します。

 次からは京の七口の一つ荒神口から滋賀に抜ける志賀山越(山中越え)を始めます。

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