
第82代後鳥羽天皇第2皇子の道助親王(ドウジョシンノウ)(1196~1249)の母は坊門信清(ボウモンノブキヨ)の娘ですので、今後紹介予定の禮子内親王や頼仁親王(ヨリヒト)の同母兄にあたります。
制札の字体はやや子供っぽかったです

後鳥羽天皇の第1皇子は第83代土御門天皇で、第2皇子でしたが道助親王は11歳でもう出家し、1214年には仁和寺第8代門跡になっています。
主に美福門院の御陵に行くために高野山宿坊に泊まりましたが、そこからは少し離れた光臺院奥の静かな所に墓は有りました。

1221年承久の乱に直接は参加していませんが、父後鳥羽の為に祈祷は行ったようです。
でも、前から出家もしていたので、他の子供たちのように処罰はされなかったようですが、36歳で高野山に隠遁させられています。
墓は小さな塚になっていました

墓は高野御室光臺院(コウダイイン)で、結構立派な門構えがありました。

奥の左に木戸があって鍵がかかっていました、
たまたまか弘法大師のお導きか、この院の奥様らしき方に尋ねると、御親切にも鍵を開けていただき、おまけに道筋まで丁寧に嫌な顔一つせずに教えていただけました。

聞き及んだとおりに歩くと道助親王墓にすぐにたどり着けました。
墓の目の前には、高野山で自刃したこの写真の豊臣秀次公墓もありました。
全体にこの辺りは霊気が漂ってる感じがして、こんな時は一人で天皇陵巡りより、家内がいてくれた天皇陵巡りの方が安心でした。