島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

82-3後鳥羽天皇皇子道助親王

2021-02-28 | 天皇陵巡り
 
 第82代後鳥羽天皇第2皇子の道助親王(ドウジョシンノウ)(1196~1249)の母は坊門信清(ボウモンノブキヨ)の娘ですので、今後紹介予定の禮子内親王や頼仁親王(ヨリヒト)の同母兄にあたります。
  制札の字体はやや子供っぽかったです
 
 後鳥羽天皇の第1皇子は第83代土御門天皇で、第2皇子でしたが道助親王は11歳でもう出家し、1214年には仁和寺第8代門跡になっています。
  主に美福門院の御陵に行くために高野山宿坊に泊まりましたが、そこからは少し離れた光臺院奥の静かな所に墓は有りました。
 
 1221年承久の乱に直接は参加していませんが、父後鳥羽の為に祈祷は行ったようです。
でも、前から出家もしていたので、他の子供たちのように処罰はされなかったようですが、36歳で高野山に隠遁させられています。
  墓は小さな塚になっていました
 
 墓は高野御室光臺院(コウダイイン)で、結構立派な門構えがありました。
 
 奥の左に木戸があって鍵がかかっていました、
たまたまか弘法大師のお導きか、この院の奥様らしき方に尋ねると、御親切にも鍵を開けていただき、おまけに道筋まで丁寧に嫌な顔一つせずに教えていただけました。
 
 聞き及んだとおりに歩くと道助親王墓にすぐにたどり着けました。
墓の目の前には、高野山で自刃したこの写真の豊臣秀次公墓もありました。
 全体にこの辺りは霊気が漂ってる感じがして、こんな時は一人で天皇陵巡りより、家内がいてくれた天皇陵巡りの方が安心でした。

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82-2後鳥羽天皇皇女尊称皇后昇子内親王

2021-02-26 | 天皇陵巡り
 
 第82代後鳥羽天皇(1180~1239)は沢山の妃にたくさんの皇子女を産ませていますが、奥さんで宮内庁治定陵に上がってる人は誰もいません。
しかし、皇子女は次期天皇に成った二人も含めると、8人もの治定陵墓がありますので、ここは一応順次巡って行きます。
  ここは昇子内親王墓と言われている、あくまでも陵墓参考地ですが、浄菩提院塚陵墓参考地(ジョウボダイインツカリョウボサンコウチ)(伏見区駐c小屋ノ内町)
 
 後鳥羽天皇の唯一の皇后は、摂政関白九条兼実(カネザネ)(1149~1207)の娘九条任子(クジョウタエコ・ニンシ)で、産まれたのが、立っても座っても光ってると言われた第1皇女昇子内親王(ショウシ・ノボルコナイシンノウ)(1195~1211)です。
  名神高速京都南ICの南、城南宮の近くの小さな空き地が陵墓参考地でした
 
 第74代鳥羽天皇皇女しょうし内親王(八条院)の猶子となったので(生後すぐ)、莫大な八条院領を譲られ(1才)、異母弟第84代順徳天皇の准母ともなっていて(13才)、春華門院という院号も宣下されています(14才)。
でも、義母となった八条院が亡くなって5カ月後に、昇子内親王は17歳で亡くなったので、八条院領はそのまま順徳天皇に相続されたそうです。
順徳天皇も1221年の承久の乱で佐渡に流されたので、八条院領は誰のものになったんですかね。
  聡恍シ後なのか、綺麗でした
 
 
 浄菩提院塚陵墓参考地辺りは、鳥羽離宮があったので、白河・鳥羽・近衛天皇陵も近くですが、現在は名神高速道路京都南ICがあって、誰かは不明ですが後宮塚(コウキュウヅカ)・中宮塚(チュウグウヅカ)陵墓参考地もありました。
 このゴミ捨て場のようにも見える後宮塚陵墓参考地は、本当にラブホテル街の真ん中にあって、塚の前の道の両側ともにラブホテルでしたので、一人で訪れるのは恥ずかしかったです(と言っても、この年では二人で訪れるのはもっと恥ずかしいかもしれませんが)。

      返事
Toyさん:トップにならないように(成れないか)生きてきましたので、
    たった二人になった我が家でも、トップは家内です。
花水木さん:人の目の基準が変わってきてるだけのような気はしますが、
    若い時の思い込みは、なかなか断捨離出来ません。

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82-1後鳥羽天皇

2021-02-23 | 天皇陵巡り
 
 今日は令和の天皇誕生日、まだピンと来ない祝日ですが、
天皇陵巡りを書くには絶好の日ですね。
 尊成親王(タカヒラシンノウ)は第80代高倉天皇(1161~1181)の第4皇子で、母は修理大夫坊門信隆(ボウモンノブタカ)娘の殖子(ショクシ)(1157~1181)ですので、後白河天皇の孫・安徳天皇の異母弟になります。
 
 1183年都落ちに伴い、高倉天皇第1皇子安徳天皇(1178~1185)や第2皇子守貞親王(モリサダ)を連れて、平氏一門は三種の神器と共に西国へ逃げました。
第3皇子惟明親王(コレアキラ)や以仁王の遺児北陸宮(ホクロクノミヤ)とは争いましたが、結局(後白河の前でむずかしがった6歳の惟明より、ニコニコしてた4歳の尊成の方が気に入られた)、わずか4歳の尊成親王が三種の神器も無く即位し、第82代後鳥羽天皇(ゴトバ)(1180~1239)(在位1183~1198)となりました。
  写真は秋の大原三千院前です
 
 したがって、第81代安徳天皇が壇ノ浦の露と消えるまでの1年半ぐらいは、同時に二人の天皇(両人ともに幼稚園児ぐらいですが)が並び立ったことになります。
  三千院には入らず、その少し奥の勝林院の手前に御陵は有りました
 
 1190年11歳で元服した後鳥羽天皇は、10人以上の女に20人以上の子を産ませていますが、皇后九条任子(タエコ・ニンシ)には内親王しか産まれませんでした。
しかし2人の皇妃から、第1皇子の第83代土御門天皇や第3皇子の第84代順徳天皇が産まれています。
 
 治天の君であった祖父後白河法皇も亡くなり、19歳の後鳥羽天皇は4歳の第1皇子土御門に譲位して院政を敷き、多倦ス才ぶりを発揮して「新古今和歌集」も編纂しましたし、鎌倉幕府とも渡り合っていきましたが、自身の三種の神器無き即位に対する屈辱感と自己嫌悪からか専制的になり、とうとう承久の乱(1221年、はからずも今年は丁度乱後800年にあたります)を起こし、北条家鎌倉幕府と対峙しました。
  陵の前一段低い所にある法華堂の屋根が見えます
 
 しかし、結束した鎌倉武士団にわずか1ヶ月にして敗れて、後鳥羽上皇は隠岐の島に、土御門上皇は土佐に順徳上皇は佐渡島に配流されました。
  御陵横の法華堂、陵の鳥居が少し見えます。第10皇子の尊快法親王が遺骨をここに安置したそうです
 
 18年に及ぶ隠岐での寂しい生活のまま、後鳥羽上皇は60歳で亡くなり、隠岐の島で火葬されましたが、残念ながら私は今回火葬塚は行けてません。
この大原陵(オオハラノミササギ)(左京区大原勝林院町)には、息子で佐渡で亡くなった順徳上皇と共に眠っていますが、陵の形はそれぞれ違って、写真右に写ってる十三重塔が後鳥羽の陵です。
 
 小倉百人一首は、天智・持統の親子天皇から始まり、後鳥羽・順徳の親子天皇で終わっていますが、編者藤原定家は後鳥羽上皇を慕っていたようです。

       返事
花水木さん:白蜜と黒蜜が有るので、
   三密の3番目は何蜜ですかね??

コメント (2)
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第70回長浜盆梅展

2021-02-21 | 
 
 滋賀県の知事さんが、「京都の人は滋賀に来ないでほしい」と言われていたので、毎週ぐらい行っていた滋賀県に、2か月以上行きませんでしたが、滋賀の感染者数も京都の感染者数も少なくなって、あまり変わらなくなったので、2か月ぶり以上の本格的滋賀県訪問です。
 大津SAから大津市と琵琶湖を眺めてる写真ですが、SA駐車場の車は他府県ナンバーばかりでした。
 
 少し雪の残る長浜慶雲館の第70回長浜盆梅展に今年も行ってきました。
 
 玄関に飾られた盆梅です。
 
 今年も寂聴さんの鰍ッ軸がありました。
 
 いつもの年よりはやはり少なめの入場者なので、床に映る梅も邪魔されずに、ゆっくり写真も撮れました。
 
 今年は切り絵作家早川鉄兵さんと、いつもの京都件p大学とのコラボらしいです。
 帰りに、去年はあっさり枯らしてしまった盆梅を、今年も買って再挑戦ですが、私が世話をするわけではありません。
 
 いつもの長浜のレストランでランチ、黒壁通り辺りも観光客は少しずつ増えてるようです。
 
 琵琶湖を一周して帰りますが、湖北は一昨日かに降った雪が残ってましたが、気温はもう春です。
もう1~2回寒くなったら、春ですかね。

       返事
和さん:今年の桜は、
    人出がまだ少ないままなら、人気スャbトに行きたいです。
toitennさん:まあこのお札を家に貼るかどうか、
    迷うところですがね。
花水木さん:50年前なら、
    金閣炎上後まだ日がったてない時ですよね。
     緑は抹茶アイスです。
    白蜜って、どんな蜜ですか?  

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衣笠散歩

2021-02-18 | 京都
 
 今日は寒いですが、先週は暖かかったですね。
感染者数も減少気味なので、先週は暖かさにつられてバスに乗って、その後ブラブラ衣笠を散策しました。
 50年ぶりぐらいの金閣寺。
 
 入場料400円、入場券はお札になっていました。
臨済宗相国寺派鹿苑寺(ロクオンジ)で、舎利殿金閣が有名なので、金閣寺ですね。
 
 冬の良く晴れた天気の中、観光客は少なく写真の邪魔にもならないぐらい、最近金箔貼り直したところなので、ピッカピッカでこれぞ金閣寺!
 
 後ろ姿では、逆光もあってか、1層の白壁と2層・3層の金箔に、やや違和感を覚えましたが、雨水の樋まで金です。
 
 回遊式庭園を巡って、裏山からの金閣寺の眺めもまた良いものでした。
 
 そのままブラブラと、途中にオムライスを食べて、立命館大学衣笠校舎向かいの「堂本印象美術館」にも寄ってみました、と言うかこれが目的だったかも。
 
 
 私の大学時代に出来た美術館ですが、入ったのは初めて、府立に移管してきれいに整備され、しかも510円の観覧料が65歳以上無料でした。
そこまで年寄りに奉仕せずに、もっと若い人を安くしたらいいのにとは思いますが、遠慮なく二人とも無料で入りました。
私が3歳ぐらいの頃に、京都駅から皆に見送られ「つばめ」でヨーロッパ旅行に旅だったようで、印象と言えば抽象画と思ってましたが、ピカソと同じでヨーロッパのスケッチなども上手ですね。
 
 と言うことで、無料で件pに接したので、浮いたお金で、帰り道の喫茶店であんみつとコーヒーセットをいただきました。
三密はダメな世の中になりましたが、黒蜜ってなんでこんなに美味いんですかね。

コメント (3)
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