島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

お茶屋遊び

2017-02-24 | 京都から
 
 先週は大学同窓会がありました。
ちなみに私の卒業大学は、現在新聞紙上を騒がしている大学で、おまけに学長は同級生です。
4割ほどの参加者がありましたが、さすがに学長は今回は欠席でした。
 
 一次会は中華料理店でしたが、今回の二次会は祇園の一力です。
若い時に勤めていた病院は、祇園と深いつながりがあったので、時々連れて行ってもらい、もてなしを受けたことはありますが、一力に行くのは初めてです。
 
 結Wの御姐さんの踊りです。
祇園で遊んで面白がるには、踊り・謡曲・三味線・着物などの素養がないとだめなので、そんな知識が全くない私は、ぼおおと観るだけです。
 
 若い舞妓さんの踊りと続きます、狭いお座敷ならこの後舞妓さんとゲームなどをしたのですが、今回はたくさんの人なので、各卓で結Wさんや舞妓さんと談笑。
五島列島福江や久賀島まで一人旅した旅好きお姐さんと意気投合し、久しぶりにワインが美味しかったし、久しぶりの祇園の鯖寿司もうまかって、酔ってしまって帰りました。
コメント (3)
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京都マラソン

2017-02-22 | 京都から
 
 先週の日曜日2月19日には、1万7千人参加の京都マラソンが行われました。
一時的に地下鉄利用以外では、私の自宅は陸の孤島になってしまいますが、応援は目と鼻の先で出来ますし、窓からも見ることが出来ます。
「選手が近づいて来ます」のアナウンスがあってから、道路に出ると先導車が来た所です。
 
 この辺は25㎞地点ぐらいですが、先頭の村刺選手が5分以上2位の選手を離してもう独走です、結局7分ぐらいの差でそのまま1位だったようです。
 ここから1㎞走ってまた折り返してくるので、「独走や!楽勝・楽勝」と、大声で応援したら、家内から「島でトライアスロンの応援した時と違って、近所の目もあるからやめとき」と注意されました。
 
 3時間ぐらいで走れる人たちもたくさん通過していきます。
けっこう早いペースですので、素人でこんな人たちが沢山いるのは驚きです。
 
 3時間半のペースメーカーが通過した頃になると、向かいを帰ってくる2㎞先を行く人に比べても、走りが違ってる人たちがたくさん通過しました。
 往診を一緒に行ってる看護婦さんも走ってるはずなのですが、時々家に帰ってたので見過ごしてしまいました。

     返事
花水木さん:40歳過ぎた頃、金網の破れ穴をすっとくぐれなく、
    落ち込んでから四半世紀。
    今回はなんとか滑れましたが、貸スキーの金具を、かがんでも自分では留められず、
    家内に手伝ってもらう始末、情けない老人です。
和さん:琵琶湖バレーはアイスバーンが多いイメージが残ってますので、
    この年ではもう行けません。
     行ったのは滋賀県最北の国境スキー場です。
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スキー

2017-02-19 | 京都から
 
 寒かったり、暖かくなったりの天候ですが、先々週はまた雪が積もり、スキーに行こうと出発した車は、軟弱にも大原の少し先で引き返すことになりました。
 
 先週は暖かくなって雨が降りそうでしたが、もう一度スキーにチャレンジ、滋賀県と福井県の県境にある国境スキー場まで、老夫婦で出発。
1時間半で到着、少し雨も降っていましたが、平日なので空いてはいます。
 
 青野原に帰っていた頃に一度行ったので、5年ぶりくらいのスキーですが、雪が悪いのか体力的な問題なのか元々これぐらいの腕なのか、なかなかつらいスキーです。
家内はそれほど急斜面でない所で転東纓ァち上がれないので、すっかり弱気になって、もうスキーは出来ないと言う始末。
私も3本だけで終了、ヒュッテでカレーうどんを食べて、午前中にスキー場を後にしました。
 
 
 近くのマキノ高原に寄って、雪空のメタセコイヤ並木を見学して、家内は好物の栗を買って帰りました。
 来週ももう一度、スキーに挑戦です。

    返事
花水木さん:天皇陵の立札はどこも皆同じで、
    1.域内に入らぬこと
    2.魚鳥等取らぬこと
    3.猪リ等切らぬこと
     と、上手なあるいは下手な字で書いてあります。
コメント (2)
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1≠Q五瀬命

2017-02-15 | 天皇陵巡り
 
 五瀬命(イツセノミコト)は神武天皇の長兄です。
二人は日向の国(宮崎県)の高千穂の宮にあって、国を治めていましたが、東征することを決めて日向の国を出発、分かり難い写真の地図のように、宇佐・筑紫・安戟E吉備と瀬戸内海沿いにゆっくり東上、大阪湾に到りました。
  
 ここでこの地に住むナガスネヒコの軍と戦い、敵を太陽の方向東に置いたために敗れてしまいましたので、ぐるっと南紀を廻って紀伊半島を縦断して、大和に到らねばならなくなりました。
  
 この大阪湾難波の戦いで、長兄の五瀬命は手に矢傷を負い、南紀へ向かう途中の和歌山近くの男之水門(オノミナト)で、その傷が悪化したためあっけなく亡くなりました。
 
 墓は和歌山県竃山(カマヤマ)にあるとの記述のごとく、和歌山市の東の方にありました。
昨年和歌山に1泊旅行したのは、ャ泣gヨーロッパや和歌山城に行くのが真の目的ではなく、この竈山陵に行くのが目的でした。
 
 
 五瀬命を祀ってある竈山神社はナビですぐにわかりましたが、その真裏にあった御陵はちょっと迷いました。
  
 以前に訪れた人のブログ写真では、中の方まで行けたようですが、今はここまで。
 長兄なのに末弟の神武天皇に仕えていた五瀬命は、東征途中で死んでしまいます。
なんでこういう話を古事記に入れなければならなかったのか、必ずしも長男が家長に成るのではないことの教訓として挿入されたのでしょうか。

     返事
花水木さん:私の手書きも、皆からは「読めない」と、不評です。
コメント (1)
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1-1神武天皇陵

2017-02-11 | 天皇陵巡り
 
 ウガヤフキアエズノミコトとワニのタマヨリヒメとの間には、五瀬命(イツセノミコト)・稲氷命(イナヒノミコト)・御毛沼命(ミケヌノミコト)が産まれ、さして最後4番目に若御毛沼命(ワカミケヌノミコト)すなわち神日本磐余彦尊(カンヤマトイワレヒコノミコト)=神武天皇が紀元前711年に九州で生誕しました。
 歴代天皇で近畿以外で生まれたのは、神武・応神・継体と大正・昭和天皇だけだと思います。
 
 次男は母の国の海原へ、三男は常世の国に行ってしまい、長兄の五瀬命と共に日向の国を治めていた神武天皇は、アヒラヒメを妻としてタギシミミノミコトとキスミミノミコトの二人の子をもうけていました。
 
 日向の地はあまりにも辺境なので東へ進もうと、何故か考えた神武天皇は、妻と別れ兄の五瀬命と息子のタギシミミノミコトを引き連れて東征を開始しました。
そして地図のような道を10年以上かけてたどって、紀元前660年辛酉正月に橿原宮で即位しました。
今の天皇が高齢で退位の話もありますが、計算上は神武天皇は111歳で即位されたことになります。
   
 大和に到った神武天皇は、三輪神社の娘ヒメタタライスケヨリヒメと結婚し三人の息子をもうけけました。
  
 初代神武天皇陵は畝傍山(ウネビヤマ)の麓にあって、その横には宮内庁の畝傍陵墓監区事務所があります。
土日は休みですので、一度失敗した陵印はもう一度行き直してもらいました。
 
 神武天皇は紀元前585年に127歳で崩御しています(古事記では137歳)。
この様に実在も疑わしい天皇ですし、この陵もはたして誰の墓か不明ですが、さすがに初代の陵は綺麗に聡怩熏sき届いていました。
 
 この神武天皇の畝傍山東北陵(ウネビヤマウシトラノミササギ)は15年ほど前に始めた天皇陵巡りでも来ていますが、今回も2回来て特に変わった様子は感じられませんでした。
   
 天皇陵の隣にある橿原神宮、近鉄橿原神宮前駅もありますし、京都では近鉄の奈良方面行急行が橿原神宮行なので皆が知ってる名称です。
出来たのは平安神宮や明治神宮と同じく明治になってからの明治23年4月創建ですので、新しい神社です。
私の長男の息子は、その頃近くだったので、ここでお宮参りと七五三をしています。
 いよいよ待ちに待った天皇陵巡りが始まりましたが、思っていたほど自分自身の盛り上がりに欠ける文になってしまいましたね。

    返事
花水木さん:私はC型と言う名からからO型に変わったと思ってましたが、
    最近のTVで0(ゼロ)型からO型になったと知りました。
コメント (1)
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