島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

74-3鳥羽天皇皇后得子

2020-11-30 | 天皇陵巡り
 
 藤原得子(フジワラノトクシ・ナリコ)(1117~1160)の父は藤原北家支流でそれほどの身分ではなかった藤原長実(ナガザネ)ですが、父に愛され、並の身分の人には嫁がせないと育てられました。
  葬られた高野山陵(コウヤサンノミササギ)(和歌山県伊都郡高野町)の制札です
 
 その父の死後、1134年に鳥羽上皇に見初めれれて、叡子内親王(エイシ)・淹卞眇堂ヲ(ショウシ)を産んだ後に、とうとう第8皇子体仁親王(ナリヒト)を産み。
この体仁親王が1歳で第75代崇徳天皇の皇太子となったので、得子も女御になり、後ろ盾の白河上皇をもう亡くしている皇后璋子(待賢門院)を凌ぐようになりました。
  写真の陵は高野山内の沢山の宿坊の一つ不動院の前にあります
*注;日に章と書く字を入れると環境依存で文字化けしてしまいました、すみません。
   次回も困りそうですので、知ってる人あれば教えて下さい。
 
 そして体仁親王が数え3歳で即位して第76代近衛天皇(1139~1155)(在位1141~1155)になったので、得子は生母として、上皇の妃であるのに皇后にたてられ、1149年には美福門院(ビフクモンイン)の院号も宣下されています。
 女院;太上天皇(上皇・院)に準ずる待遇と院号を与えられた女性。
    藤原銓子が東三条院となったのが始まりで、
    以後江戸時代まで107人の女院がいます。
  陵は近づけそうで近づけず、幹道から近いのに静かでした
    
 鳥羽上皇の寵愛を受け、皇子を産み、得子自身の身内も鳥羽院の近臣として活躍したので、摂関家の人からは「得子は身分の低い女なのに」と恨みも買っています。
  写真の木の間から見えた石塔が、同兆域にある第112代霊元天皇皇子済深親王(サイシン)の分骨塔かもしれません
 
 病弱であった息子近衛天皇が17歳で亡くなった後も、得子は策をなして第77代後白河天皇を即位させたり、保元の乱(1156)・平治の乱(1160)でもその黒幕として動いたようです。
 そんな得子に夫の鳥羽上皇は菩提所の塔まで作ったのですが、そこには入らず、自身が寄進した一切経が入ってる高野山金剛峯寺内の写真の廻せる六角経堂もある、真言宗のメッカ高野山内陵を望んだそうです。
 当時は女人禁制で空海のお母さんも行けなかった高野山に、女の墓を造ることを許した真言宗も、真言宗の希望に負けた天台宗も、権勢には弱いということですかね。

      返事
大雪男さん:これで菅野が大リーグに行き、
    ちゃんと返事しない菅が総理を辞めたら、万々歳なのですがね。

コメント (1)
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94-2鳥羽天皇皇后璋子

2020-11-25 | 天皇陵巡り
 
 藤原兼家(929~990)の異母弟公季(キンスエ)(956~1029)から始まった閑院流ですが、三代目の実季(サネスエ)の頃は藤原北家本流からは大きく外れてしまっていました。
しかし、実季の妹茂子(モシ)が後三条天皇に入内し白河天皇を産み、娘の苡子(イシ)が堀河天皇に嫁いで鳥羽天皇を産んだので、閑院流は勢いを盛り返しだしました。
 
 この苡子の兄の公実(キンザネ)(1053~1107)と堀河・鳥羽の乳母であった藤原光子(ミツコ)(1060~1121)との間に産まれたのが、今回の藤原璋子(フジワラノショウシ・タマコ)(1101~1145)です。
  写真は光子が最初の居住者となった、三条烏丸御所跡に立つ標識ですが、この辺りは私の小学時代のテリトリーです。
 
 璋子は、白河天皇が身分は低いが寵愛した祇園女御に養われ、当時の摂関家の長男藤原忠通への縁談は、忠通の父忠実(タダザネ)が璋子の素行に問題ありと固辞したので、成立せず、白河院と忠実は不仲になっています。
こんな良い縁談を摂関家の忠実が断った(以前にも書いたように、忠実自身は白河のお古に一目ぼれして結婚してるのに)と言うことは、璋子と白河法皇との間に何かあったのかもしれませんし、その後璋子が鳥羽天皇との間に産んだ崇徳天皇が、実は白河の子だったという噂の原因も。ここから出たのかもしれません。
  写真のように、ぐるっと参道が廻りこむように正面に続いていて、築地の木が赤っぽく、美人だった人の御陵らしく感じます
 
 こんな璋子ですが、1118年に2歳年下の従姉弟の第94代鳥羽天皇(1103~1156)(在位1107~1123)に17歳で入内し、すぐに皇后になりました。
第1皇子第95代崇徳天皇・第4皇子第97代後白河天皇など5男2女をもうけていますので、第1皇子は鳥羽の子ではなく祖父白河の子であるという噂にしては、二人の仲は良かったのですかね。
  写真は、御陵正面です
 
 その後、鳥羽天皇が譲位するとともに、璋子も待賢門院の院号を宣下されていますが、それでも1129年に白河院が亡くなると、鳥羽院は高陽院を皇后にたてたり、美福門院の産んだ第8皇子を第96代近衛天皇にしたりで、璋子からは離れて行っています。
  奥の灯籠には待賢門院と彫ってあります
 
 璋子は1142年には妙心寺とJR花園駅近くの法金剛院にて落飾し、この寺には西行法師もよく訪れたようです。
昔、結局最後まで読めなかった辻邦夫さんの「西行花伝」にも、西行がこの身分の高い絶世の美人であった待賢門院に惚れていた話があったような気がします。
 亡くなった璋子は、法金剛寺の裏山にある花園西陵(ハナゾノノニシノミササギ)(右京区花園扇野町)に葬られました。
  璋子の陵の左横から、写真左端に写ってる仁和寺宮墓の制札がある仁和寺宮墓地に行けましたが、途中で柵に遮られ横からしか見えませんし、誰が葬られてるのか見えませんでした

        返事
花水木さん:この頃から江戸時代にかけて、
    仏式の墓で眠ってる天皇家の人は多いですよ。
大雪男さん:巨人がなすすべなく負けて行くのを、
    気持ち良く観戦していますが、
    それに負けてる阪神はもっとだらしないですよね!

コメント (1)
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74-1鳥羽天皇

2020-11-21 | 天皇陵巡り
 
 第73代堀河天皇がまずまずの身分の妃、苡子(イシ)の命と引き換えにもうけた息子宗仁親王(ムネヒトシンノウ)は、誕生後すぐに立太子しています。
そして父堀河天皇が亡くなると、すぐに満5歳にもならないうちに即位して、第74代鳥羽天皇(トバ)(1103~1156)(在位1107~1123)になりました。
  鳥羽天皇安楽壽寺陵(アンラクジュインノミササギ)(伏見区駐c内畑町)は、自身が上皇として院政をしいてた鳥羽離宮にあります
 
 即位したと言っても5歳、実権は祖父白河上皇(1053~1129)が握り、自分が寵愛していた藤原璋子(ショウシ・タマコ)(1101~1145)を1118年に鳥羽天皇に入内させ、1119年に第1皇子顕仁親王(アキヒト)が産まれると、ひ孫である顕仁親王を(実は白河の子?説もあり)を直ちに第75代崇徳天皇として即位させました。
したがって鳥羽天皇は退位して新院と呼ばれるようになったので、約15年の天皇の間には、ほとんど仕事をさしてもらっていません。
  鳥羽天皇陵は陵堂と言って、仏式のお堂に納骨されています
 
 21歳にして上皇になった鳥羽は、白河崩御後は疎まれていた前関白藤原忠実(タダザネ)(1078~1162)を政界に復帰させ、白河時代には止められていた忠実3女泰子(タイシ・ヤスコ)(1095~1156)を39歳の高齢でしたが入内させ、周囲の反対を押し切って、上皇妃であるのに女御→皇后としましたが、さすがに二人の間には子は出来ませんでした。
  鳥羽陵正面ですが、土塀に囲まれて内部の堂はてっぺんしか見えません
 
 鳥羽は璋子との間に5男2女(二人が天皇に)までもうけていましたが、白河崩御と共に璋子を遠ざけて、家柄が低い藤原得子(トクシ・ナリコ)(1117~1160)を入内させ、得子が1139年に体仁親王(ナリヒト)を産むと、女御にして直ちに体仁を崇徳天皇の皇太子にし、崇徳には譲位を迫り、3歳に足らずして体仁親王は第76代近衛天皇になりました。
  ここまでしか近寄れませんでした
 
 鳥羽は天皇時代の璋子(待賢門院)はもちろん、上皇時代の泰子(高陽院)・得子(美福門院)も異例の皇后としており、近衛天皇が17歳で病没すると、今度は崇徳系ではなく、璋子の産んだ雅仁親王(マサヒト)を第77代後白河天皇として皇位につけています。
 
 ごたごた続きで、遺恨を残すような皇位継承が続き、摂関家自身の内紛も誘発したので、鳥羽の死後9日目に保元の乱が起こっています。
 京都の南、鴨川と桂川に挟まれた水辺に造られた鳥羽離宮近く、安楽壽院陵に鳥羽は葬られました。
  鳥羽離宮の再現絵図が、陵の近くにありましたが、洪水は大丈夫だったのでしょうか

       返事
花水木さん:一番顕著なのは、
    異性の好みだと思います。
和さん:27日(金)19時から、
    YOUTUBE配信の朝橘さんにも、座布団1枚以上お願いします。

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73-2堀河天皇女御贈皇太后苡子

2020-11-18 | 天皇陵巡り
 
 大納言藤原実季(サネスエ)を父とし、藤原経平(ツネヒラ)の娘睦子を母として産まれた藤原苡子(フジワラノイシ・シゲコ)(1076~1103)は、1098年に3歳年下の第73代堀河天皇(1079~1107)(在位1086~1107)に、白河上皇の世話で入内しました。
  写真は、これまで20回以上紹介しましたが、これで最後の宇治陵総拝所です
 
 これは堀河天皇の中宮篤子内親王(トクシ)(1060~1114)が、19歳も年上女房で、この時はもう40歳近くで子供もいなかったために、なんとしても苡子に世継ぎを産んでほしかった為のようです。
  写真は、36ある宇治陵の一つ木幡にある第5号です
 
 苡子は期待に応えて、1103年に第1皇子宗仁親王(ムネヒト)を産みましたが、難産の末亡くなりました(28歳)。
そしてこの親王が第74代鳥羽天皇になったので、苡子は皇太后を追贈されていますが、苡子が命に替えて子をなさなかったら、天皇家の歴史も大きく変わったかもしれません。
  藤原北家出身の皇后などが眠る宇治陵総拝所の制札の陵としては最後に、鳥羽天皇御母贈皇太后苡子宇治陵と書かれています
 
 苡子の父実季は藤原北家閑院流ですので、これに依って閑院流は再び勢いをまし、北家本流の摂関家を凌駕するようにもなりました。
  苡子の火葬塚は、写真の一条天皇皇后定子の鳥戸野陵と同じですが、こちらは堀河天皇女御贈皇太后になってます

       返事
toitenn・和・花水木・元商家の嫁さん
     1.と2.同票でしたので、裁判で争います!
      でも、有権者全員が女の子だったのは、うれしい限りです!

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近所の秋を少し

2020-11-16 | 京都から
 
 近所を散歩。
宝ヶ池と国際会議場、比叡山も秋色です。
 
 件p的に写真を撮ろうと思うと、素人の私は、前に何か入れてしまいますね。
新型コロナが私の生活にかなり近づいてきたので、得意の遠出が出来なくなってきました。
 これからは、少したまった天皇陵巡りシリーズが続きそうですよ。お許しを!
 1.
 
 2.
 
 最も家から近い秋、「妙」も今年は燃やさなかったためか、赤い木が目立ちます。
1.と2.どっちの写真をあげようか迷いましたが、いずれにしても前の鉄線が邪魔になりました。
1.と2.どっちが良い写真なんでしょうか?

       返事
花水木さん:京都の紅葉は寒い分だけ、
    五島列島の紅葉より綺麗ですね。
     かき氷は今も家で作って食べてますが、
    今年分のシロップが無くなってきました。

コメント (6)
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