第40代天武天皇と第41代持統天皇夫婦の血が入った天皇を、持統天皇はなんとか続けていこうとしてきましたが、若くして亡くなった直系の孫の第42代文武天皇の息子は、藤原不比等の娘(最近亡くなった梅原猛さんは、宮子は紀州の海女を養女にした説を展開していました)宮子との間の首皇子(オビトノミコ)のみでした。
なんとか祖母の元明・伯母の元正と女天皇でつないで、首皇子は13歳で立太子し、24歳で伯母の第44代元正天皇から禅譲され、平城京大極殿で即位し第45代聖武天皇(ショウム)(701~756)(在位724~747)となりました。
藤原不比等と県犬養三千代(アガタイヌカイノミチヨ)との間に産まれた安宿媛(アスカベヒメ)《後の光明子(コウミョウシ)》を同じ16歳で娶り《甥と叔母の結婚です》、基王(モトイオウ)と阿部内親王を授かります。
でも、皇子の基王は1歳にならずして亡くなりました。
また、県犬養広刀自(アガタイヌカイノヒロトジ)も娶り、その間にも3人の子が出来ています。
聖武天皇の時代、その外戚として政治を主導した藤原不比等や、不比等亡き後も息子たちの藤原4兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)は、頼みの基王には死なれましたが、政敵でもあり天皇にも成れる長屋王を冤罪で滅ぼし、政治の中枢に居座りました。
しかし、長屋王の崇りからか、4兄弟は次々と天然痘で亡くなり(737年)、聖武政治は壊滅状態に陥ったようです。
残った不比等の孫世代の藤原家内部での争いでもある広嗣の乱(740年)や、橘諸兄(タチバナノモロエ)と仲麻呂との対立などもあって、聖武天皇は嫌気がさしたのか、恭仁京(クニノミヤ)・紫香楽宮(シガラキノミヤ)・難波宮(ナニワノミヤ)と遷都を繰り返しました。
母親の宮子も聖武天皇を産んだ後、精神に異常をきたしていたようですが、聖武自身の5年の彷徨も、情緒不安定になっていたためかもしれません。
再び平城京に戻り、いよいよ東大寺に大仏を作り始めますが、天皇としては初めて出家し、大仏開眼供養前に、女性皇太子である娘の阿部内親王に譲位し、太上天皇となりました。
そしてその7年後薨去し、ここ佐保山南陵(サホヤマノミナミノミササギ)(奈良市法蓮町)に葬られました。
丁度この聖武天皇陵からは、今もまじかに若草山の前の東大寺大仏殿の金の鴟尾が見えていました。
返事
花水木さん:1位はマグロですが、
男女個人賞は10万円らしいです・・・?
大雪男さん:4レーンあって、
4組のチームがそれぞれ4人ずつ走るので、
スタートのピストルは80回鳴ることになりますが、
レース数としては20レースでは?
それとも1回ずつ走り終わるとしたら80レース?
優勝するのは1組だけなので、1レース?
なんかレース数は分からなくなりました・・・・。
藤浪の勝数予想は5勝に減らします。