島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

小浜往復

2017-05-31 | 
 
 若狭小浜から京都を結ぶ道の一つ鯖街道。
ここを通って運ばれた若狭湾で獲れた鯖は、揺られて丁度良い翠チ減か塩加減になって、京都で美味しいきずしや鯖寿司になったので、鯖街道と呼ばれています。
 今は車なら、この鯖街道を通って自宅から1時間ちょっとで着く小浜、今回は久しぶりに途中で瓜割り公園に寄りました。
  
 島へ行く前の一時期、小浜まで美味しい魚を食べに行ったり、神泉と言われる瓜割の清水を貰いに通った時もありました。
 爪があるので、爪ではなく瓜割の滝(ウリワリノタキ)、夏でもこれに漬けた瓜が割れるほど冷たいので、この名が付いています。
   
 有名な奈良の「お水取り」の10日前に、この近くの神宮寺で「お水送り」の行事があって、川に「お香水」を撒きます。
その水が10日かかって奈良に流れて、「お水取り」の水になるそうです。
 
 瓜割の名水で淹れたコーヒーとくずまんじゅうを食べました。
その後、小浜の港で干しカレイを買って、小浜の町を少し歩き、以前から行きたかったが行けなかった海岸の割烹店で昼ご飯。
漁師丼も焼き鯖も美味しかった。
  
 帰りは西の鯖街道と言われる、もう少し西の方の道で、京北町を抜けて京都へ帰りました。
 高石ともやと言うフォーク歌手を知っていますか?
「赤いヤッケ」は私の愛唱歌でしたし、√2・√3を覚えられる「受験生ブルース」も有名です。
その「高石ともやとザ・ナターシャセブン」と言うグループ名繋がりで、高石ともやが移住していた名田庄村が、西の鯖街道の途中にあります。
 ここの暦会館(200円)にも寄りました。
  
 陰陽師安倍清明で有名な安倍一族が、応仁の乱の戦乱を逃れて、一族の荘園であったこの名田庄村に住み着き、一族の墓もここにあるそうです。
移住後もこの地から、宮中の暦・天文・時刻などを管轄していたので、ここに暦会館があり、熱心に説明してくれたお姉さんから資料までいただきました。
  
 いろんな暦の展示の中で、懐かしいこの布製の刺繍もされたカレンダーに遭えたのが嬉しかった。
あの頃どこの家に行っても見たし、終わってからもなかなか捨てきれずに、何か利用できないかと思ったこのカレンダー、どこの家にもあったはず、郵便局がくれた物だったのですね。

    返事
花水木さん:私は自分の墓を探さねばならない立場なのですが、
    作らない選択肢も考えていますが・・・・。

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10≠Q倭彦命

2017-05-27 | 天皇陵巡り
 
 自転車で第10代までの天皇陵を巡っている時、橿原神宮前駅から西の方に、少し時代の飛んだ第28代宣化天皇陵の道標がありました。
その向こうには橿原高校の道標も見えますが、この宣化天皇陵の裏側にももう一つ陵があるようなので、ついでに行ってきました。
  
 橿原高校の裏門辺りに古墳らしき山がありましたが、どこから入って良いのか判りません。
  
 前方後円墳の中央のくびれの部分を横切るように、農家の人たちが通れるような感じで道がついていました。
 実はこの前方後円墳(桝山古墳(マスヤマコフン))は、日本最大規模(一辺90ⅿ・高さ15m)の方墳に、明治時代に前方部をくっつけたようなので、宮内庁管轄にしては堂々とその中を通れる道があるようです。
  
 狭い周囲の道を廻って、なんとか前方部の拝所に行きつきました。
第10代崇神天皇皇子倭彦命(ヤマトヒコノミコト)の身狭桃花坂墓(ムサノツキサカノハカ)です。
 陵と名が付くのは、例外はありますが天皇・皇后だけで、その他の皇族は墓です。
   
 倭彦命は第10代崇神天皇の皇子ですので、第11代垂仁天皇の同母弟になります。
 倭彦命が亡くなった時、近習のものは墓の周りに生き埋めにされる風習がありましたが、生き埋めにされた者が死なずに、そのうめき声が周囲に響いたり、死後は腐肉に犬や鳥が集るという惨さを見た垂仁天皇は、殉死の禁止令を出したそうです。
 
 ぐるっと後円部(元々の方墳の方)を廻って無事帰りました。
本当ならこの辺りは生き埋めにされた霊が飛び交ってるはずなのですが、実はこの桝山古墳は5世紀前半に築かれたそうですので、倭彦命の墓であるはずがないのです。
 私の天皇陵巡り、天皇陵は必ず廻るようにして、出来れば皇后や天皇になれなかった兄弟などの陵や墓も巡って、数を稼ぎたいと思っています。

      返事
花水木さん:私もスーパーでは家内のかごについて、
    時々お菓子やジュースをそっとかごに入れていますが、
    スーパーはそれほど嫌いではありません。

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10≠P崇神天皇

2017-05-24 | 天皇陵巡り
 
 第10代崇神天皇陵(スジン)は奈良盆地の東、桜井市の北の天理市の三輪山近くの山際にあります。
 この地図の中央の前方後円墳が4世紀後半ぐらいの行燈山古墳(アンドンヤマコフン)、すなわち崇神天皇陵です。
右側のもう少し大きい前方後円墳は第12代景行天皇陵ですし、地図を離れてもう少し右側(南側)は桜井市で、以前行ったヤマトトヒモモソヒメの箸墓があります。
地図の上の方を右から左に(南から北へ)走ってるのが、日本で一番古い道とされている山辺の道(ヤマノベノミチ)です。
   
 行燈山古墳、すなわち第10代崇神天皇陵である山辺道勾岡上陵(ヤマノベノミチノオカノエノミササギ)は、前方後円墳としては日本で16番目の大きさを誇る立派な古墳です。
 前方後円墳と言う語を初めて起用したと言われる、江戸時代の蒲生君平の書いた「山陵志」では、第12代景行天皇陵とされていたようですが、その方が正解かもしれません。
  一周すれば1.5kmぐらいを散策しました。
  
 以前廻った頃に比べて、柵で閉められた陵の駐車場が多い中、ここは広い駐車場が生きていたので、そこに車を停めて拝所に上がりました。
ここの拝所は周濠の堤の上にありましたが、堤自体は江戸時代の修復でかさ上げされたようです。
  
  
 拝所に登って振り返ると、周りにも小さな前方後円墳の陪塚が数カ所ありました。
   
 周濠周囲に沿って(375ⅿ×215m)歩きますが、渡土堤(ワタリドテ)と言って墳丘と外部を繋ぐ三カ所の土堤に寄って、周濠は区切られていました。
これは陵が斜面に建てられたため、周濠の水位を調節するためでもあるようです。
  
 二人でぐるっと一周をゆっくり歩きました。
 前方部に戻ってきて、この小さく見える拝所から前方部まで、濠は63ⅿありますし、前方部の横幅は100ⅿと立派なものですが、第10代崇神天皇陵とすると全く年代は合いません。
  
 古事記では、御真木入日子印恵命(ミマキイリヒコイニエノミコト)は師木の水垣の宮(シキノミズカキノミヤ)(奈良県桜井市)で、第10代崇神天皇として天下を治め、168歳(書紀では120歳)で崩御し、この陵に葬られたことになっています。
  
 第10代崇神天皇は3人の妻で12人の子をもうけました。
前々回の孝元天皇で書いたように、叔父にあたる武埴安彦命の反乱の話や、四道将軍(シドウショウグン)を派遣した話など有って、この天皇の御世を讃えて所知初国之御真木天皇(ハツクニシラシシミマキノスメラミコト)とも表記されていることより、実際は崇神天皇が事実上の初代天皇ではないかという説や、卑弥呼の時代に実際に政治を行った男の王様が崇神天皇ではないかとも言われています。

    返事
花水木さん:確かに男と女の違いは永遠のテーマですね。
     ロダンの考える人のメ[ズ、座ってるので疲れるという印象は持ちませんが、
    あんな恰好でずっといたら、背中が日焼けして痛そうな気はします。

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海北友松

2017-05-21 | 京都から
 
 この週末は京都は夏です。
こう暑いと体がついていかない気がするのは、年齢のせいでしょうか?
夏を喜ぶ気にはなりません。
 金曜日朝から、京都国立博物館に行きました。
 
 朝なのにもう暑い!
噴水見てるのが気持ち良いぐらい。
 
 こんな格好でじっと考えてるのも、いくら噴水の横だと言っても辛いでしょうね。
世界に20体以上あると言っても、本物なので、夏は屋内展示にしてくれるように策を練ってるのかもしれません。
   ロダンの考える人です。 奈留小学校にも二宮金次郎の替わりにありましたね。
   
 目的は海北友松(カイホウユウショウ)(1533~1615年)の展覧会。
朝一番なのに並ばなくてはならないことで、出鼻をくじかれました。
 浅井長政の家臣の子として生まれ、信長に滅ぼされたため絵師になったそうです。
   「誤落潔ニ(あやまりてげいかにおつ)」らしいですが、
それなら私は「誤落外科(あやまりてげかにおつ)」です。
  
 国立博物館の新しくなった新館には初めて入りました。
以前からここには仏像が並んでいて、若い時は興味なかったですが、今回は海北友松の絵よりも熱心に観たかもしれません。
   
 日曜日も暑く、早朝散歩と買い物以外は家に居ました。
オークスの3連複、5000円弱をやっと獲って、今年のGⅠの初勝利です。
     返事
花水木さん:私も家内から、
    助けなく一人で二人の幼子を風呂に入れる苦労を聞かされ続けています。
    今はすまんことをしてたと思ってますが、その頃はなんとも思ってなかったし、
    そもそも昔は苦労話を聞かされていませんでした。
     継母と夫婦って、まあ同母兄弟姉妹以外は誰とでもOKです。
    神武天皇の妻も神武の連れ子と結婚しています。

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9-1開化天皇

2017-05-19 | 天皇陵巡り
 
 私の長男は奈良に住んでいますが、そのマンションの部屋からは、奈良の中心街と若草山が眺められます(以前ここから若草山山焼き報告しています)。
 そのちょうど手前にこんもりした小山がありますが、これが今回の第9代開化天皇(カイカ)の春日率川坂上陵(カスガノイザカワノサカノエノミササギ)です。
  
 初代神武天皇から第8代孝元天皇までの陵が畝傍山麓から葛城山麓一帯、すなわち奈良盆地の南の西の方に位置しているのに比べて、第9代開化天皇から5代(350年ほど)は奈良盆地の北の方に陵が移ってきています。
このことからも、葛城王朝から三輪王朝に王朝交代があったとの説があります。
  
 古事記では若倭根子日子大毘毘命(ワカヤマトネコヒコオオビビノミコト)、書紀では稚日本根子彦大日日尊(ワカヤマトネコヒコオオヒヒノミコト)と記されていて、都を春日率川宮(カスガノイザカワノミヤ)(奈良市)に移して、第9代開化天皇として天下を治めました。
   
 第9代開化天皇は4人の妻で5人の子をもうけました。
その内一人の妻は、父親の第8代孝元天皇の妻でもあった人で、継母を自分の妻にしたことになりますし、その継母との間に産まれた子が、次の第10代崇神天皇になっています。
  
 第2代綏靖天皇からこの第9代開化天皇までの8代の天皇は、古事記でも内容が少ないため「欠史8代」と言われ、実在してない天皇と言われています。(まあそれ以外の古い時代の天皇が皆実在してたとも言えないのですが)
 この8代の在位年数を足すと485年(1代60年)、紀元前660年を日本の始まりとした人々は、なんとか年数を合わせようと485年分の8人を造り出したのかもしれません。
私はこの8人はまったくの架空の人物ではなく、それらしき人の話を元に作り上げた天皇だという説に賛成しています。
 
 奈良と言えば、大仏さんと鹿しかいないと悪口を言われ、最近ではTVで紹介されて有名になった速射砲のように餅を搗く店を加えても、三つだけと言われています。
この開化天皇陵は、観光客が集まるその餅屋さんのほぼ向かい、名の通ったホテルの横にありますので、歴代天皇陵の中では一番人通りの多い場所にあるはずですが、ここまで入ってくる人は少ないようです。

      返事
花水木さん:女は自分が苦労した事は、
    細かいとこまで覚えています。
    でも、男は楽しい思い出しか覚えていません。
     偏見ですかね?

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