天皇陵巡りもなんとか70代まで行きついて、半分以上は過ぎました。
巡った陵の貯金も、夏の暑さで少なくなりつつあるので、秋になったら又ちょこちょこ陵墓巡りをしていく予定です。
先代第69代後朱雀天皇(1009~1045)(在位1036~1045)がまだ皇太子の頃に、藤原道長(966~1028)6女嬉子との間に産まれた第1皇子が、親仁親王(チカヒトシンノウ)ですが、母嬉子はお産直後に10代で亡くなっています。
龍安寺の裏山の陵を巡った後、下りてくると、龍安寺の裏に三つ並んだ鳥居の有る陵がありますが、真ん中が圓教寺陵です
親仁親王は父の後朱雀天皇が即位したので、1037年には立太子し、父の譲位に伴い21歳で即位し、第70代後冷泉天皇(ゴレイゼイ)(1025~1068)(在位1045~1068)と成りました。
祖父道長はもう亡くなっていましたが、その長男頼通(ヨリミチ)(992~1074)が権力を握っていて、「天皇は全てにおいて宇治殿(頼通)の言うがままであった」と伝えられています。
後冷泉天皇は、蹴鞠や歌合せなど宮廷の優雅な生活に溺れて、政治にはあまり関心を示さなかったようです。
向かって左に異母弟の後三条天皇、右には父の後朱雀天皇が眠っています
後冷泉天皇の治世の時代は、丁度末法に入った1052年頃であり、高校日本史で学んでる時も理解できなかった、陸奥の豪族安部氏を河内源氏の源頼義・義家が滅ぼした「前九年の役」(1051~1062)の頃です。
右の鳥居は父の陵、三つの陵それぞれが寺なんですかね?
伯父である後一条天皇第1皇女で、母は道長4女威子(イシ)である章子内親王(ショウシ・アキコ)(1027~1105)が1038年に12歳で入内してますが、子は生れませんでした。
関白頼通の長女寛子(カンシ・ヒロコ)(1036~1127)も期待を背に1050年に入内しましたが子に恵まれませんでした。
頼通の同母弟教通(ノリミチ)三女歓子(カンシ)(1021~1102)はその前1047年に入内していて、皇子を産みましたが死産です。
この3人が正妃になるという異例のこともありましたが、いずれにもお世継ぎは生れませんでした。
少し高い所にある陵なので、はっきり見えそうで見えなかった陵です
唯一後冷泉天皇には、1051年皇子が産まれていますが、あまりにも母親の身分が低いために養子に出されています(高階為行)。
こうして後冷泉天皇には世継ぎが無く、とうとうここで第61代朱雀天皇から続いた母親が藤原北家の娘である天皇は終わり、それと共に時代は摂関政治から院政に移って行きます。
後冷泉天皇は、父と異母弟と一緒になった陵ですが名前は別々の、圓教寺陵(エンキョウジノミササギ)(右京区竜安寺朱山)に葬られていますが、火葬塚は別のもっと市内の千本北大路交差点の正に北東角にあります。
この辺りの火葬塚と同じく制札はパソコン文字でした。
返事
大雪男さん:Go To Travel効果とはあまり関係ないと思いますが、
9月の連休に高齢者の旅行する気がどのくらいになってるか・・・。
焼き魚が何だったか、すみません判りません。
プロ野球が面白くないスメ[ツになってきています。
花水木さん:城好きな人は沢山います。
新型コロナも半年以上、
なんか気分が萎えているのは、年のせいだけでもないようですが、
若いこれからの人は、孫も含めて大変です。
女の人にとって、上げ膳据え膳が、
旅の一番の喜びのようですね。