島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

70-1後冷泉天皇

2020-08-30 | 天皇陵巡り
 
 天皇陵巡りもなんとか70代まで行きついて、半分以上は過ぎました。
巡った陵の貯金も、夏の暑さで少なくなりつつあるので、秋になったら又ちょこちょこ陵墓巡りをしていく予定です。
 先代第69代後朱雀天皇(1009~1045)(在位1036~1045)がまだ皇太子の頃に、藤原道長(966~1028)6女嬉子との間に産まれた第1皇子が、親仁親王(チカヒトシンノウ)ですが、母嬉子はお産直後に10代で亡くなっています。
  龍安寺の裏山の陵を巡った後、下りてくると、龍安寺の裏に三つ並んだ鳥居の有る陵がありますが、真ん中が圓教寺陵です
 
 親仁親王は父の後朱雀天皇が即位したので、1037年には立太子し、父の譲位に伴い21歳で即位し、第70代後冷泉天皇(ゴレイゼイ)(1025~1068)(在位1045~1068)と成りました。
 祖父道長はもう亡くなっていましたが、その長男頼通(ヨリミチ)(992~1074)が権力を握っていて、「天皇は全てにおいて宇治殿(頼通)の言うがままであった」と伝えられています。
 後冷泉天皇は、蹴鞠や歌合せなど宮廷の優雅な生活に溺れて、政治にはあまり関心を示さなかったようです。
  向かって左に異母弟の後三条天皇、右には父の後朱雀天皇が眠っています
 
 後冷泉天皇の治世の時代は、丁度末法に入った1052年頃であり、高校日本史で学んでる時も理解できなかった、陸奥の豪族安部氏を河内源氏の源頼義・義家が滅ぼした「前九年の役」(1051~1062)の頃です。
  右の鳥居は父の陵、三つの陵それぞれが寺なんですかね?
 
 伯父である後一条天皇第1皇女で、母は道長4女威子(イシ)である章子内親王(ショウシ・アキコ)(1027~1105)が1038年に12歳で入内してますが、子は生れませんでした。
 関白頼通の長女寛子(カンシ・ヒロコ)(1036~1127)も期待を背に1050年に入内しましたが子に恵まれませんでした。
 頼通の同母弟教通(ノリミチ)三女歓子(カンシ)(1021~1102)はその前1047年に入内していて、皇子を産みましたが死産です。
 この3人が正妃になるという異例のこともありましたが、いずれにもお世継ぎは生れませんでした。
  少し高い所にある陵なので、はっきり見えそうで見えなかった陵です
 
 唯一後冷泉天皇には、1051年皇子が産まれていますが、あまりにも母親の身分が低いために養子に出されています(高階為行)。
 こうして後冷泉天皇には世継ぎが無く、とうとうここで第61代朱雀天皇から続いた母親が藤原北家の娘である天皇は終わり、それと共に時代は摂関政治から院政に移って行きます。
 
 後冷泉天皇は、父と異母弟と一緒になった陵ですが名前は別々の、圓教寺陵(エンキョウジノミササギ)(右京区竜安寺朱山)に葬られていますが、火葬塚は別のもっと市内の千本北大路交差点の正に北東角にあります。
この辺りの火葬塚と同じく制札はパソコン文字でした。

       返事
大雪男さん:Go To Travel効果とはあまり関係ないと思いますが、
    9月の連休に高齢者の旅行する気がどのくらいになってるか・・・。
     焼き魚が何だったか、すみません判りません。
     プロ野球が面白くないスメ[ツになってきています。
花水木さん:城好きな人は沢山います。
     新型コロナも半年以上、
    なんか気分が萎えているのは、年のせいだけでもないようですが、
    若いこれからの人は、孫も含めて大変です。
     女の人にとって、上げ膳据え膳が、
    旅の一番の喜びのようですね。

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金沢からの帰り

2020-08-27 | 
 
 朝食もゆっくりと、品数多数の和食です。
最後にロビーでコーヒーも飲めたので、和食で充分です。
 Go To Travelで安くなりましたが、果たしてこんな税金の使い方でいいのかは疑問です。
新型コロナ対策で、もっともっと必要にしてる人や場所があると思うので、余裕のある年寄り旅行者に、こんな税金の使い方をするのではなく、もっともっと有効な税金の使い道は有ると思うのですがね。
と言いながら、10万円の給付金も貰っていますし、安い間に旅行も行きたいと思ってる、自分勝手な年寄りです。
 
 ブラブラ帰ろうと、先ずは御鎮座二千百年を数える加賀国一ノ宮白山比ㇿ羊神社(シラヤマヒメジンジャ)、白山さん(シラヤマサン)へ。
ここは全国に3千以上あって、神社の数では一番多い、白山神社の総本宮らしいです。
でもそれほど大きくはないのは、御神体が霊峰白山自体だからですかね。
  
 以前も家族で行ってますし、北陸自動車道から見える毎に「丸岡城や丸岡城や」と言ってる丸岡城(450円)にも寄りました。
天守の瓦が石瓦なのは、この城だけです。
 築城時の姿を保ってる天守を持つ城は、「現存12天守」と言って、全国に12しか有りません。
昨年念願の弘前城に行ったので、あと登ってない天守は12のうち二城で、何故か多分登ってない高知城と松山城だけです。
 
 現存してる天守の階段はどこも皆急なので、早くあと二城行かないと、登れなくなりそうな私ですが、上まで登るとこんな小さい天守でも景色は良いです。
敦賀から金沢に行く道すがら、あちこちで北陸新幹線の延長工事現場が見られますが、この天守からも、大分出来つつある高架線路が見えています。
敦賀から北陸新幹線に乗れるまでは生きていそうです。

       返事
花水木さん:ブログ書きかけで誤送信してしまいました。
    途中までしか見ておられませんよ!
     雌は優秀な子供を残さなければならないので。
    イケメンを選ぶんですよ。
    雄はできるなら、基本誰でもいいんですよ。
大雪男さん:力のある選手をうまく使うのが、
    監督の能力だと思います。
     阪神は巨人に負けて、他ではそこそこなので、最低ですよ!
    変に他チームに勝つな!と言いたいです。
    残り試合巨人にだけ勝て!

コメント (2)
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鴨居玲展

2020-08-24 | 
 
 お盆も過ぎて京都はまだまだ暑いですが、少しだけ涼しい感じで、クーラーも以前より効きだした気もします。
新型コロナの第2波も、確かにピークが終わったような気もしますが、3~6カ月後には第3波が来るでしょうね。
寒さと共にか、インフルエンザと共にか、外国人と共にか。
 まだ出歩くのは早いかもしれませんが、先週末は久しぶりに遠出で、金沢まで行ってきました。
   写真は石川県立美術館入り口
 
 金沢市内の金沢城や兼六園のある辺りは、金沢21世紀美術館などの文化施設も集まっていて、以前もこの辺りを紹介しましたが、今回は2度目の石川県立美術館の紹介です。
 ここには野々村仁清の国宝色絵雉香炉が常設展示されていますが、何故か対の雌の方の色絵雌雉香炉の方は重文止まりです。
男女平等でないのを、家内は以前も怒っていましたが、確かに雉は雄が綺麗ですが、この香炉作品は、雌の方の色合いやメ[ズ共に、国宝の雄より良いような気がしますので、国宝と重文を入れ替えても良いと思っています。
 
目的は「没後35年鴨居玲展-静止した刻-」です。(65歳以上で二人とも800円)
今春京都でも開催予定でしたが、新型コロナで中止になりました。
 以前長崎県美術館で鴨井玲(1928~1985)の作品をたまたま観て、(鴨居の本籍は長崎県)少しだけ私の琴線に触れました。
昔々、鴨井玲のお姉さん鴨井羊子が下着デザイナーで有名になって、平凡パンチかなんかで知ったのか、「下着」や「スキャンティー」と言う活字だけで、私は鴨井羊子さんの名を憶えていました。
長崎で初めて、あの鴨井羊子の弟が鴨井玲と知ったぐらいです。
 私より20歳年上の鴨井玲の絵は、昭和40年代ぐらいの作品が良かったですが、最後の方の新しい作風の作品はもひとつで、又以前の作風に戻っても、なかなか本人は満足できなかったのでしょうね、創作するものが無くなったのでしょうか、死を選んでいます。
 創造する人は大変です、外科医のような修繕屋を仕事に選んで、本当に良かったと思います(ちっとも創造力が無かった凡人で私は幸せですが、スキャンティーなどからの想像力は凡人以上にあります)
  
 美術館内の有名なル・ミュゼ・ドゥ・アッシュで今回もケーキを食べました。
朝早く家を出て、途中のサービスエリアで早い昼食(遅い朝食)を食べたので、この日の昼食はこれだけです。
 
 美術館隣に、前回は気づかなかった いしかわ赤レンガミュージアム(500円)にも寄ってみました。
旧金沢陸軍の兵器庫跡を歴史博物館などにしたもので、立派な建物ですし、この辰巳用水噴水モニュメントも涼しそうですが、やっぱり金沢も外は暑いので、兼六園や金沢城はパスしました。
 
 それでも車で迷っても30分ほどの、加賀藩主前田家墓所には行きました。
これがまあ、一人一人の墓が天皇陵かと思うぐらい大きくて、熊が出没するという警告立札がある山の中を、グルグル汗びっしょりになって廻るのも大変でした。
携帯で音楽を大きく流しながら、少しびくびくしながら回ったのも、この墓所の中に宮内庁治定のお姫様の墓があるからで、ちゃっかり天皇陵巡りの一つも消化してきました。

      返事
大雪男さん:先週の猛暑に比べて、
    今週は33℃ぐらいになったので、涼しく秋が来たかなあと思ってしまう、
    自分が恐ろしいですね。
     阪神あんなに巨人に弱いと、他チームにも申し訳たたず、
    もう応援する気になれませんよ!
    矢野は今季限りですね。
    岡田がなってくれないかなあ、と思ってます。

コメント (2)
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69-4後朱雀天皇准后生子

2020-08-22 | 天皇陵巡り
 
 道長5男の藤原教通(ノリミチ)(996~1075)と藤原公任(キントウ)の娘との間に、長女として産まれたのが藤原生子(フジワラノセイコ・ナリコ)(1014~1068)です。
 父教通は最後は関白ですし、母方祖父公任は写真に又だしてます大納言公任で、三舟の才もある歌人です。
 
 父教通は、最初は16歳の生子を第68代後一条天皇に入内させようとしましたが、自分の母倫子や同母兄の関白頼通の反対にあい、あきらめました。
 しかしその次の第69代後朱雀天皇(1009~1045)(在位1036~1045)には、これも反対がありましたが、26歳と年増になっていた生子を、強引に入内させ女御と成りました。
  宇治陵総拝所の前をJR奈良線が走っています。
 
 意外と生子と後朱雀天皇との仲は良かったのですが、子供はできませんでした。
後朱雀天皇自身が生子を皇后に推した時には、伯父である関白頼通は、同母弟の娘であるにもかかわらず、生子には皇子も無く、生子が執柄(シッペイ)(摂政関白の別名・政治権力を握ること)の娘ではないと、拒否したそうです。
  宇治陵総拝所前に立つ藤原氏塋域の碑には、頼通の名はありますが、もちろん教通はありません。
 
 1045年後朱雀天皇の譲位と共に、生子は内裏を去り、10年後には出家。
太皇太后・皇太后・皇后に準じた処遇である准后を与えられていたために、宇治陵総拝所制札の最後に、准后藤原生子墓と書かれていました。

      返事
花水木さん:当時の夏休みの記録に、
    30℃以上の日ってあまりなかったと思いますよね。
     冷やしたスイカではなく、冷やした桃やトマトを、田舎で食べてましたが、
    たぶん今の桃やトマトほどは美味くなかったと思います。
toitenlabeeさん:夏もあと1週間ぐらいで、
   35℃以上は終わってほしいですね。

コメント (1)
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69-3後朱雀天皇即位前妃贈皇太后嬉子

2020-08-19 | 天皇陵巡り
 
 藤原嬉子(フジワラノキシ・ヨシコ)(1007~1025)は、藤原道長(966~1028)と倫子(964~1053)の6女ですので、栄光の同母兄弟姉妹の長女彰子・長男頼通・次女妍子・5男教通・4女威子の最後になります。
  写真は、宇治陵総拝所とその前に立つ藤原家塋域の石碑です。
 
 嬉子は敦良親王(アツヨシ)(1009~1045)の東宮妃として14歳で入内し、敦良親王が1036年に即位して第69代後朱雀天皇になる前に、1025年に親仁親王(チカヒト)(後の第70代後冷泉天皇)を産みましたが、その2日後には、末っ子ですが兄弟姉妹の中で一番早く10代で亡くなってしまいました。
 藤原北家一族が眠る宇治木幡の宇治陵総拝所制札には、後冷泉天皇御母贈皇太后嬉子と名が載っています。

      返事
じょんのびかあさんさん:綾部は涼しそうな気もしますが、
    ダメですか。
     かかりつけ医って、正月に亡くなった同級生のY君ですか?
     ャWテイブに、夫婦でもう一度自転車日本一周はどうですか。

コメント (2)
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