島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

72-3白河天皇皇子覚行法親王

2020-10-30 | 天皇陵巡り
 
 白河天皇の第1皇子は夭折、第3皇子は堀河天皇に成りました。
今回の覚行法親王(カクギョウホッシンノウ)(1075~1105)は、白河天皇の第2皇子ですが、母親は藤原経平(ツネヒラ)の娘経子(ケイシ・ツネコ)です。
  写真は丹波にある九品寺(クホンジ・クヒンジ)(京都府南丹市園部町船阪大門)です
 
 覚行法親王の外祖父になる藤原経平(1014~1091)は、藤原忠平の長男でしたが藤原北家氏長者にはなれなかった実頼(サネヨリ)を祖とする小野宮流(オノノミヤリュウ)の5代目の一員です。
母経子の姉睦子が産んだ苡子(イシ・シゲコ)は、第74代鳥羽天皇の生母になっているので、経平は死んでいましたが天皇の曾祖父にはなれました。
 
 覚行法親王(元は覚念)は8歳で仁和寺に入り、仁和寺第2世門跡の第67代三条天皇第4皇子性信入道親王(ショウシンニュウドウシンノウ)(1005~1085)の下で10歳で出家し、最初の法親王に成り、真言宗仁和寺の第3世門跡となりました。
 
 その後は、810年に空海が創建し、白河天皇が大きくした同じ真言宗の、京都府園部にある九品寺に入寺しています。
 
 福知山方向やゴルフに行く時に私も降りる、京都縦貫自動車道丹波ICを降りて少し走った田舎にある九品寺ですが、昔は大伽藍の大きなお寺だったようですが、今はこの重要文化財の大門の立派さだけが目立ちます。
 
 31歳で亡くなった覚行法親王の墓はここにあって、宮内庁治定陵墓になっているので行ってきましたが、今後もこの程度の沢山の皇子・皇女墓も巡っていたらきりがありません。
行けたら(でも行くのも楽しみです)にしていこうと思っています。
 何もない所でしたがさすがに宮内庁、こんな田舎の墓も綺麗に聡怩ウれています。
九品寺が下請けしてるのかもしれませんが。

        返事
和さん:富江の恐竜の松?は、
    全体が撮れたのにです。
     私は寄付ではなく、投資のつもりで勝馬投票券を買っています。
    いつか倍返し来るのを祈りながら。

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天高い秋

2020-10-28 | ノンジャンル
 
 先週の旅行は快晴後雨、今週の仕事帰りの御陵巡りは小雨、金曜日は休みなのに雨、秋の空は変わりやすいです。
土曜日は二人で西国33カ所の第20番札所善峯寺(ヨシミネデラ)(500円)に、地下鉄→阪急→阪急バスと乗り継いで出かけました。
家からは1時間ぐらいです。
 
 境内にある樹齢600年以上の有名な「遊龍の松」、全長37ⅿ日本一の松らしいですが、長すぎて全体像は入りませんので空ばかり。
 
 紅葉にはまだ少し早すぎましたが、パラパラと観光客は来ていました。
 
 京都の西南の山の上にある善峯寺、京都市内がほぼ全部ぐらい一望できました。
ずわっと、やや小さくではありますが、こんなに京都市内が沢山見える場所とは知りませんでした。
 
 善峯寺に行ったのは、秋の京都観光が目的ではなく、やっぱり真の目的は、天皇の皇子さん達が眠る法親王墓巡りです。
 
 翌日曜日も快晴、家の裏の宝ヶ池球技場で京都高校ラグビー予選の準々決勝をやってるので観に行ったら、なんと無観客試合で入れてもらえません。
裏の柵の間から、近所の洛北高校がボロ勝ちしてる試合をほんの少しだけ観て帰りました。
 
 帰ったら、孫Ⅲ-1・Ⅲ-2を連れて寄ってくれた娘と5人で、近所の植物園を散歩。
私は70歳以上で、娘たちは子育て支援で植物園は無料、家内だけが入園料を払って入園。
孫Ⅲ-1は往復も園内も、よく歩いてくれました。
 
 園内菊花展の菊は満開ですが、帰って観た菊花賞。
1着近所に住む福永さんのコントレイルと3着いつもの池添さんのヴェルトライゼンデの1着3着固定三連単を少し買いましたが、直線のたたき合いばかりに目が釘付けになって、3着なんて目に入らずに、馬券も入らず。
今年は本当に競馬が当たりませんよ!! 助けて下さい!
 
 秋の空!
ずっとこんな季節でも良いですね!

       返事
Toitennさん:クオッカのいる島は、
    山の上より寂しい所ではないのですか?
花水木さん:情緒不安定って、
    花水木さんはそんな風に見えませんが(読めませんが)。
    私も70歳過ぎて、結構気力は衰えていますし、やや不安定ですが。
    毎日、ここでやめたら、もうお終いだとばかり思って生きています。

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72-2白河天皇皇后賢子

2020-10-26 | 天皇陵巡り
 
 実父は村上源氏の源顕房(アキフサ)ですが、太政大臣藤原師実(モロザネ)(頼通の6男ですが藤原北家氏長者)の養女となった藤原賢子(フジワラノケンシ・カタイコ)(1057~1084)は、14歳で18歳の貞仁親王(サダヒト)に入内し、貞仁親王が第71代白河天皇(1053~1129)(在位1073~1087)に成ったので、女御にも成りました。
  難関の上醍醐陵にやっとたどり着きました
 
 中宮にも成った賢子は、第1皇子敦文親王(アツフミ)を産みましたが2歳で夭折。
その他にも第3皇子、第1・3・4皇女を産みました。
この第3皇子善仁親王(タルヒト)(1079~1107)が後に第73代堀河天皇に成りました。
  ここに二人の娘と一緒に賢子さんは眠ってますが、何故か12歳で亡くなったひ孫の内親王の墓でもあります
 
 賢子は白河天皇に非常に愛され(と言うか、白河天皇は誰でも深く愛する人)、28歳で賢子が亡くなった時には、白河天皇は穢れに触れてはいけないと言う近臣の言葉を振り切って、死体にとりすがって号泣したそうです。
  陵近くの展望台から、山科の街並みが眺められました
 
 賢子の眠る上醍醐陵(カミダイゴノミササギ)(伏見区醍醐醍醐山上醍醐持内)は難関の御陵の一つで、醍醐寺の奥山に有ります。
真夏に行くとまた熱中症になりかねないので、9月の声を聞いてから、家内にも付き合ってもらって登りました。
地下鉄醍醐駅から往復2時間ぐらいの予定でしたが、往復4時間ちょっとかかってしまい、二人とも疲れ切って帰る羽目になりました。
しかも西国33カ所第11番札所でもあるので、入山料600円を払っています。
 愛した人をこんな山の上に葬って、白河天皇はここまで墓参りしたんでしょうかね、したとは思えませんよ。
私は愛する人と二人で登りましたがね。
 淳和天皇大原野西嶺上陵とこの上醍醐陵は、二度と登りたくないしんどい御陵でした。
  写真の、ここから登山?が始まります

コメント (2)
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72-1白河天皇

2020-10-23 | 天皇陵巡り
 
 第70代後三条天皇(1034~1073)(在位1068~1073)の第1皇子である貞仁親王(サダヒトシンノウ)は、父後三条天皇がその長い33年にも及ぶ皇太子時代に、母である藤原能信(ヨシノブ)の養女即位前妃贈皇太后茂子(モシ)(?~1062)との間に産まれました。
 
 父後三条天皇が1068年に即位したので、1069年には貞仁親王は立太子し、1071年には関白藤原師実(モロザネ)(頼通の6男)の養女賢子(ケンシ・カタイコ)(1057~1084)が入内しました。
後三条天皇がわずか4年で退位し、譲位された貞仁親王は即位し第71代白河天皇(シラカワ)(1053~1129)(在位1073~1086)に成りました。
  写真の奥に映る白河天皇陵は、京都の南、高速道路の通る南ICの近くです
 
 白河天皇即位と共に、父後三条天皇は藤原北家御堂流を外戚の地位から外したい為か、白河天皇の異母弟でわずか2歳の実仁親王(サネヒト)を皇太子に立て、実仁親王が15才で亡くなると、約束されていたその弟輔仁親王(スケヒト)が皇太子に立つ予定でした。
 これを嫌った白河天皇は、父後三条天皇も亡くなっていたので、中宮賢子所生の善仁親王(タルヒト)(1074~1107)(後の堀河天皇)を皇太子に立て、即日譲位してしまいました。
これには、亡くなった非常に愛してた賢子を悼む気持ちと、自らの直系に依る皇位継承を目指す気持ちがあったようです。
  写真では静かそうですが、前をひっきりなしに車が通ります
 
 第73代堀河天皇(在位1086~1107)はまだ8歳であり、摂政となった師実は完全な外戚ではない(賢子は養女)ので、実権は白河天皇が握り、ここに院政が開始されました。
 次いで孫を5歳ですが第74代鳥羽天皇として即位させ、続いてひ孫も5歳で即位させて第75代崇徳天皇にして、結局白河天皇は堀河・鳥羽・崇徳と三代にわたって「治天の君」として院政を敷いたことになります。
  制札の如く、成菩提院陵(ジョウボダイインノミササギ)(伏見区駐c浄菩提院町)です
 
 白河天皇は院政の間の長い権力保持によって、政権の独断や人事のえこひいき、浄土教への傾斜による多数の寺院の建立など、弊害も多かったようです。
このようなわがままな行動でもままならぬものとして、「賀茂の水・双六の賽・叡山の山法師」の「天下三不如意」の話は有名です。
  
 噂された、白河天皇ご寵愛の待賢門院璋子(ショウシ)(1101~1145)を孫の鳥羽天皇の皇后にして産まれた崇徳天皇は、実は鳥羽の子ではなく曾祖父白河の子であるらしいという話は、ゴシップ好きの私には嬉しい話です。
崇徳が産まれた時、父鳥羽は16歳、曾祖父白河は66歳、どちらの生殖能力も上限下限で可能ですよね!
  陵から振り返り、私が島に行ってる間に完成した京都高速道路仰ぎ見ます
 
 白河天皇火葬塚は、陵からは離れた金閣寺近くの金閣小学校の裏側、北区衣笠西馬場町の判りにくい路地の裏側にありました。
金閣小学校校門前の後朱雀天皇火葬塚を捜してる時に見つけた物で、京都市の西北にも火葬塚は集まっています。

       返事
花水木さん:静岡県の施設の対策は厳しいですね!
     GoToトラベルもGoToイートもなんか不公平感一杯ですね!
    こんなことに何兆円も使うなら、
    消費税を1~2年なくす方が、皆に公平で、
    購買欲も高まりますし、店もうるおい、全てが良くまわるような気がしますがね。

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湯郷温泉に行くふりして治定陵墓に

2020-10-21 | 
 
 Go Toトラベル第5弾で、湯郷温泉に行きました。
行はブラブラと、青野原病院時代を懐かしがって、秋の播州路を走ります。
 丹波篠山は丁度黒豆の収穫時期で、道のあちこちで採れたばかりの枝豆を売ってました。
 朝早く出たので、かろうじて開いたところの篠山の店で、猪に見下ろされながら、コーヒーと黒豆ケーキの朝食を食べました。
 
 柳田国男が「故郷70年」で「私の家は日本一小さい家だ」と書いていた、福崎にある柳田国男の生家ですが、8人の男兄弟の6番目で育った国男さんには狭かったかもしれませんが、私の今の家はこれより狭く部屋数も少ないですよ。
兄弟は政治家や歌人や日本画家など、民俗学の大家で有名になった国男ほどではないですが、皆そこそこ偉くなっています。
父親は病弱だったそうですが、8人も子供を作るから病弱になったのかもしれませんよね。
 
 生家の横にある神崎郡歴史民俗資料館は、神崎郡役所として使われていた建物です。
この辺りの施設は全て無料で、おまけにこの日は秋晴れ!!
 
 
 生家の前にある辻川山公園は、以前(約10年前)来た時はこんなオブジェはなにもなかったですが、今はいろんな妖怪像で有名になっています。
 
 
 公園の池には、いつもは水中に居て、時間と共に出現する河次郎(ガジロウ)と言う動く妖怪も住んでいました。
 
 最近は有名になって、TVでもち麦のカップ麺のCMも見ることありますが、このもち麦は福崎の特産品らしく、前回はお土産に買っただけでしたが、今回は新しくなっていた「もちむぎのやかた」で昼ご飯を食べました。
 
 腹ごなしに、ガジロウと将棋を指して出発です。
後で考えたら、マスクをしてない奴と、ちょっと密になってましたね。
 
 その日は、860年にこの慈覚大師が温泉を発見した、美作三湯の一つ湯郷温泉に泊まりました。
今回のGoToトラベルは、45%の割引のほかに15%の地域共通クーャ燈tくようになったので、実質半額以下で泊まれるようになりました。
でもこんな大盤振る舞いで、日本経済は今後良いんでしょうかね?
 
 次の日は高梁市の備中松山城に登るつもりでしたが、前日とうって変わって雨。
さすが秋の空ですね、これで2回連続雨で松山城行は断念。
 色々寄り道しても本来の目的は、結局のところ御陵巡り。
備中まで流されてこの地で亡くなった後鳥羽天皇皇子の墓には、小雨の中行けました。
墓近くにあるゆかりの地、日本第一熊野神社はその名に恥じず立派な社殿も持ち、こんな大きな三重塔までありました。
 
 降り続く雨の中、寄る所もないので、帰り道は牛窓の気にいってるホテルに寄って、美味しいランチを食べて帰りました。

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