島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

60-4醍醐天皇皇孫女隆子女王

2020-04-29 | 天皇陵巡り
 
 伊勢神宮に時の天皇に代わって奉仕する為に、未婚の皇女や女王が、斎王として選ばれました。
斎宮は、斎王やそれに仕える官人達の宮殿や役所で、近年の発掘調査により、その場所や規模も分かってきました。
 三重県松坂市の南、近鉄斎宮駅近くの、斎宮跡に行ってきました。
 写真は、斎宮跡地に建ってる、ミニチュアの斎宮です。
 
 早く着きすぎて、開館まで待ちましたが、斎宮歴史博物館(340円)にも入って、少し勉強。
 斎王制度は、第40代天武天皇が娘の大来皇女(オオクノヒメミコ)を派遣してから、以後60余人の斎王が選ばれ、第96代後醍醐天皇の祥子内親王(ショウシ)まで、約660年間続いたようです。
 伊勢神宮は、ここから南20㎞ほど離れているので、伊勢神宮の仕事をするには、少し離れすぎてるような気がしますが?
 
 そんな斎宮跡を訪れたのも、この近くに第60代醍醐天皇と藤原桑子(ソウシ)の間に産まれた、醍醐天皇第13皇子章明親王(ショウメイ)(924~990)の娘、隆子女王の墓があって、宮内庁が治定してるからです。
 
 隆子女王(タカコジョオウ)(~974)は、第64代円融天皇の時代971年に、第43代斎王として伊勢に群行しています。
 
 3年後の974年に、当時流行した天然痘で、斎宮で亡くなりました。
伊勢で在職中に亡くなった、最初の斎王となり、ここに葬られたようです、醍醐天皇皇孫女隆子女王墓(三重県多気郡明和町)。
この辺は伊勢平野と言うんでしょうか、高い建物も無くだだっぴろい感じがしました。
 
 墓の周りは、他の墓地になっていましたが、小さな墓石が地面に刺さってるだけのような、あまり見たことがない墓地でした。
 久しぶりの遠出の天皇陵巡り、帰りは松坂によって、松坂城や本居宣長記念館を観て、松坂牛を食べて帰りましたが、この頃は(1月末)、新型コロナはまだ国外の問題でしたのにね。
 明日は仕事ですが、ゴールデンウイーク1日目、朝から近所の散歩ですが、近所だけではもったいないような上天気、帰って小さな庭の木を少し切ったら、もうキーボード打つ手が震えています。
午後は、NHKBSのゴッドファーザーでも観ながら、眠ってしまうでしょうね。
あと11日ほど、競馬で4日・仕事で2日を潰しても、まだ残りますね!

     返事
花水木さん:今の体育系の男子の方が、
    圧涛Iにマッチョになってますね。
    プロテインのおかげですか?
    軟弱でしたが、それでも若い時にラグビーをやっておいて、
    良かったと思っています。
toitenlabeeさん:体力と言うか、生命力と言うか、
    減少著しいので、実現不可能かな?と思っているだけです。
    あと10年元気で生きたいのですが、厚かましいかな?

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60-3醍醐天皇皇太子慶頼王

2020-04-27 | 天皇陵巡り
 
 私の大学のYMCA寮である橘井寮(キッセイリョウ)、50年以上前とあまり変わらずにまだ、京都市左京区吉田にありました。
 
 橘井寮には私の友人も住んでいましたし、ここに写ってるラグビー部の仲間も寮生で居ましたので、よく泊まりこんで、ダラダラと夢や女のことを話し込んだこともあった、私の青春時代の思い出の地です。
 50年前の試合後の写真の中から、3人が他大学ですが教授になっています。
しかし、鬼籍に入った仲間も2人います。
 
 この橘井寮の裏手、民家の間の狭い通路の向こうに見えるのが、第60代醍醐天皇と穏子の間の皇子保明親王と、藤原時平の長女藤原仁善子(ニゼコ)との間に産まれた、醍醐にとっては孫にあたる慶頼王(ヨシヨリオウ・ヤスヨシオウ)(921~925)の墓です。
  なんとか見つけました。
 
 そっと柵を横にずらして、細長い通路をしずしずと進みました。
同母妹の煕子(キシジョオウ)は後に、叔父である第61代朱雀天皇の女御になっています。
 
 祖父醍醐天皇の皇太子であった、父保明親王が21歳で亡くなったので、3歳にしかならない孫の慶頼王が、替わって皇太子になりました。
なんとしても藤原北家の血を、継いでいきたかったようです。
 墓はぐるっと周囲を、民家とマンションで囲まれています。
 
 しかしそれから2年後には、5歳で慶頼王は亡くなったので、祖父醍醐は、すべてが菅原道真の崇りだと思い込んだようです。
 
 慶頼王は吉田山の麓、神楽岡(カグラオカ)に埋葬されたようですが、そこからほど近い、橘井寮近くの左京区吉田牛ノ宮の円墳が治定されています。
スマホの地図アプリがなければ、とうていたどり着けない、分かり難い墓でした。

 2016年8月から始まった、あまり人気のないこの天皇陵巡り、やっと半分ぐらいまで来ました。
4年もかかって、予定をはるかにオーバーしています。
あと4年もかかると、私の命の問題も出てきそうなので、残り半分は2~3年で終わらせたいと思っています。
コロナを生き延びたら、その後の予定は、チョット実現不可能なことをやってみたいとは思っています。

      返事
花水木さん:黒田の百年桜;
    山桜の突然変異で、
    10~12枚の八重の中に一重が混じる、
    新種らしいですが、
    近寄っても、判りませんでした。

コメント (2)
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60-2醍醐天皇皇后穏子

2020-04-25 | 天皇陵巡り
 
 藤原穏子(オンシ・ヤスコ)(885~954)、父は藤原基経で母は人康親王(サネヤス)(山科四ノ宮に墓があった、目の悪かった仁明天皇皇子)の娘です。
 制札たくさんの名前の2番目です。
 
 901年昌泰の変(菅原道真の太宰府左遷)の後、穏子は16歳で同い年の第60代醍醐天皇に入内、女御になりました。
穏子は18歳で保明親王(ヤスアキラ)(903~923)を産み、保明親王は2歳で皇太子になりましたが、21歳で亡くなり、保明と自分の異母兄時平(871~909)の長女仁善子(ニゼコ)との間に産まれた慶頼王(ヨシヨリオウ)が皇太子になりましたが、この穏子孫も5歳で亡くなりました。
 
 穏子は919年に第16皇女康子内親王(ヤスコ)も産みました。
923年には38歳で第11皇子寛明親王(ユタアキラ)を、926年には41歳で第14皇子成明親王(ナリアキラ)を産む頑張りを見せて、この高齢出産が藤原北家の繁栄を牽引したことになりました。
 
 昌泰の変後2年で、失意のうちに亡くなった道真の怨霊に依るものか、909年には道真を失脚させた時平が39歳で亡くなり、もう一人の失脚の張本人源光(ミナモトノヒカル)が鷹狩中に泥沼にはまって溺死しました。
続いて923年には、我が子保明が、続いて925年には孫の慶頼王までも亡くなったので、穏子は我が子寛明親王が3歳になるまでは、外には出さずに自分の手に抱いて育てました。
 写真は宇治陵3号入り口
 
 それでも我が子寛明・成明の2人が、第61代朱雀天皇・第62代村上天皇と成ったので、穏子は2代の国母となって、皇太后→太皇太后となり、70歳で亡くなり宇治陵(宇治市木幡)に祀られています。
 3号陵正面、誰の陵墓かは?
 
 周山の黒田の100年桜です。
新型コロナで出勤も減り、今週も近所散歩とちょっと買い物に付き合うだけです。
コロナ離婚にならないように、せっせと机周りの整理しながらYouTube鑑賞の日々です。
土日は競馬が有るので、なんとか時間も過ごせますが、貯金が・・・。
 新型コロナ君の会話を盗聴出来ました、音声に乱れが有る部分はお許しください。
新型コロナA:やあ!B君久しぶり。どうして日本に来たん?
新型コロナB:1月に大型船で来たけど、君は?
A:3月にスペインから飛行機で来たけど、ボチボチやね。
  しかしニューヨークに行ったC君は、やりすぎやね!
  あれでまあオリンピックは無くなったのは良しとして、
  せっかく僕が楽しみにしていた、
  日本の祭り祇園祭などが無くなったのは・・・・
B:そやなあ、その点この前会った風邪のウイルス君は上手やねえ。
  昨年のラグビーW杯まで、症状出さずに、リーチとか言う人・・・
  口の中から観たぞ、と言って・・・
A:偉そうにしてるD君にも、馬にだけは行くなよ!・・・
  この頃日本でも頑張りすぎや。
B:それでこれからどうすんの?
A:暖かくなってきたから、南半球に行こうと思ってるが、
  飛行機が無いのよね、だから・・・・・
B:僕は誰も行ったことがない岩手に行こうと思ってる。
A:そうかあ! あんまり頑張るなよ!
  僕は来年まで寝ようかと思ってる。
  又来年会おうよ。その時にはプライドは捨てて、
  せめてインフルエンザ君ぐらいになって、毛嫌いされないようにしておこうね。
B:そう! 合言葉は「共存!!」
  人間潰したら、我々は生きられないよ・・・・・
  
      返事
花水木さん:ゴールデンウイーク
    どこも行けないので、辛いです。
    天皇陵巡りの在庫も無くなってきたので、
    せめて人けのない京都市内の御陵を、
    自転車で巡るぐらいは、許してもらいたいです。

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60-1醍醐天皇

2020-04-23 | 天皇陵巡り
 
 父親の第59代宇多天皇がまだ臣籍降下していて、源定美(ミナモトノサダミ)と称していた頃に、長男として母親藤原胤子(インシ)との間に生れたのが、源維城(ミナモトノコレザネ)です。
後に天皇となりましたので、臣籍の身分として生まれた唯一の天皇ということです。
 写真の醍醐天皇陵前バス停の、比較的広い道の前に拝所入り口が有りました。
 
 父が皇族復帰して宇多天皇になったので、維城も敦仁親王(アツギミ・アツヒト)となり、母胤子の死後(896年)は、義母の温子を養母として育ち、父宇多天皇の譲位によって第60代醍醐天皇(ダイゴ)(885~930)(在位897~930)となりました。
 
 13歳で天皇になり、死ぬまでの34年間の治世は「延喜(エンギ)の治」と呼ばれてますが、父宇多太上天皇(867~931)の強い影響の下で、基経(836~891)の長男藤原時平(871~909)と菅原道真(845~903)の綱引きの上に立った政治とも言えました。
 真っ直ぐに続く参道の左右は民家ですが、松がそれを隠してくれています。
 
 しかし、昌泰4年(901年)に起こった昌泰の変(ショウタイノヘン)、時平らの藤原北家や取り巻きの貴族たちの讒言によって、あまりにも昇進しすぎた学者家系の菅原道真の追い落としが成功し、基経死後10年で藤原北家が、再び権力の中枢に戻りました。
 思いのほか広い拝所ですが、平凡です。
 
 時平の妹藤原穏子(オンシ・ヤスコ)(885~954)を昌泰の変後に女御にして、産まれた第2皇子保明親王(ヤスアキラ)は2歳で立太子してますし、その後も穏子は第61代朱雀・第62代村上天皇となる子を産みました。
 詰所の門灯が点いていたので、作業中なのか、手水鉢にも水が流れていました。
 
 醍醐天皇は穏子以外にも、20人ほどの女御・更衣がいて、36人の子女をもうけています。
905年には、紀貫之等に「古今和歌集」の編纂を命じています。
 
 909年時平が39歳の若さで亡くなり、その後は弟の忠平(880~949)と醍醐天皇は折りあって政治を行っていましたが、923年皇太子保明親王が21歳で亡くなり、保明と時平娘仁善子(ニゼコ)との間に産まれた孫の慶頼王(ヨシヨリオウ)を、3歳ですが皇太子にしました。
しかし、慶頼王もわずか5歳で夭折してしまい、これらは菅原道真の怨霊の崇りだと信じた醍醐天皇は、道真の霊を慰めるために、死んだ道真に贈位などを繰り返しました。 
 
 その後に起こった御所への落雷火災や死亡事故により、完璧なまでの衝撃を受けた醍醐天皇は、退位してすぐに、父宇多法皇に先んじて亡くなり、この後山科陵(ノチノヤマシナノミササギ)(伏見区醍醐)に土葬されています。
 帰り道、この後山科陵は醍醐天皇陵として、疑問の余地ない御陵だそうです。

       返事
花水木さん:牛の舌・猫の舌、
    私は二枚舌ではないですが(と思います)、嘘はよく言いますね。
     朝橘さんのYouTube、電車音にもたどり着きました。
    おかげでYouTubeが身近になりました、ありがとうございます。
    花水木さんの嫁の義姉、私好みです。

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20.安永餅

2020-04-22 | 菓子たくさん
 
 東海道五十三次の宿場町桑名、「その手は桑名の焼き蛤」の大きな蛤も名物ですが、ここのもう一つの名物が、江戸時代からある安永餅(ヤスナガモチ)です。
 
 安永餅本舗柏屋さん(三重県桑名市)の製品で、1個は100円ぐらいです。
 
 つぶあんが入った細長い餅を焼いたもので、形の通り「牛の舌もち」とも言われてる、いわゆる焼き餅です。
お味はまずまずという評価です。

       返事
花水木さん:思わず金ちゃんと書いてしまいましたが、
    「金助」と呼んでいた方が多かったと思います。
    直しましたが、なんで木村が金助になったのか?
     花水木さんのおかげでYouTubeが身近になりました。
    朝橘さん→枝雀さん→吉田拓郎→サンドイッチマンと、
    色々有りますね、今も拓郎と陽水と坂崎さんのトークを聞きながら書いています。
    YouTubeにはまりそうですが、いやらしいのにはまらないようにします。

コメント (1)
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