島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

黒田辰秋展

2017-09-27 | 趣味
  
 観光バスの旅が予定より早く終わったので、久しぶりに1日2回の行事に挑戦します。
バスを降りた京都駅の伊勢丹内にある、美術館「えき」KYOTOでの、京の至宝 黒田辰秋展(クロダタツアキ)を観に行きました。
 京都祇園生まれで人間国宝、黒田辰秋さんをご存知ですか?
学生時代によく行った「進々堂」という喫茶店の大きな机や、皇居迎賓館の大きな椅子や映画監督黒澤明の自宅の大きな椅子などの大きなものから、漆や螺鈿の小物などまで、分業ではなくすべての工程を自分だけでしてる木漆工潔ニです。
  
 島に行く前にも、わざわざ静岡県の豊田美術館の展覧会に行きました。
私は黒田辰秋さんの次男の遊び友達でして、30年以上前にその友達から「おやじの調子が悪いから診てくれ」と言われ、辰秋さんと会ったこともあります。
医者としての役にはまったくたたなかったと思いますが、何度も家に行っているので、工房に落ちていた木片でも貰っておいたら良かったのにと、後悔しています。
 偉大な父の子として、ちょっとは苦しんでいた友達も、私が島に行ってる間に、若くして亡くなりました。
少しほろ苦い思いで、作品を観て回りました。
   
      =緊急速報=
 2007年5月より始めた(2006年4月は1回で中断)このブログ、10年があっという間に経ってしまいました。
総アクセス数も20万に近づいています。
これもあれも全て皆様のおかげだと、感謝しても感謝しても、しきれないぐらい感謝しております。
  ありがとうございます!!
   この感謝の気持ちとして、
総アクセス数200000丁度でアクセスしていただいた読者の方は、そのページを印刷かなにかしてご連絡下さい。
サイン入りブロマイド(この写真の70年後の姿ですよ)や握手券など、多数の豪華記念品を御用意してお待ちしております。
 なお、前後賞や残念賞はございませんが、「惜しかった!」のコメントはお待ちしております。
 20万回以後もどうかよろしくお願いいたします!!

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京の夏の旅2

2017-09-25 | 京都から
  
 京の夏の旅も、昼食を食べたら少し雨が降ってきました。
 東山にある大雲院を訪ねます。
大雲院は本能寺の変で殺された織田信長・信忠父子の菩提を弔うために、烏丸二条南(私の出た龍池小学校の隣です)に建てられ、その後寺町四条に移り、昭和48年(私も二十歳なので、知ってるはずですが)にはこの地に移ってきたようです。
  
 境内には織田信長父子の墓碑がありましたし、これも寺町四条から移してきたようです。
境内には他に石川五右衛門の墓所もありました。
   
 ここは以前は大倉財閥創始者の大倉喜八郎の別荘があり、そこに昭和3年に鉄筋コンクリート造りの高さ36ⅿの山鉾に模した祇園閣を建てました。
 昔から「なんでこんな場所にこんなものがあるんや?」と思っていつつ、一回ぐらいこの上に登りたいとも思っていました。
また、私の父方の祖母の家は大倉財閥の大番頭をしていたので、祖父も一度くらいはここに招かれて上がったかもしれないと思うと、感慨深いものもあります。
 祇園閣は伊藤忠大(イトウチュウダイ)の設計による国登録有形文化財の名建築らしいですが、なんか武骨なだけで、コンクリート造りで、やや成金的ではありました。
 祇園閣内は写真撮影禁止、登った上からの景色の写真も禁止なのが残念でした。
  
 次いでもう一つのお目当て、小学校の遠足で行ったかもしれませんが憶えてもいず、その名前や写真を見る度に行きたかった京都大学・火山天文台(カザンテンモンダイ)。
 
 東山の上にあるのは知っていましたが、京都の町中からは見えません。
説明を聞いて納得しました、そもそも京都の町の明かりが見えないような所でないと天体観測出来ないので、京都の町から見えないはずです。
  
 昭和4年に、日本で2番目に設立された大学天文台で、直径9ⅿのドームに国内3番目の大きさの45cm屈折望遠鏡もありますが、今となってはやや小さく感じられます。
 重りで動く動力で、この望遠鏡は星の動きに合わせて回ります。
   
 アャ高P1号が月面着陸する地点の地図がほしいと、NASAから依頼されて協力したここの所長宮本正太郎さんに、NASAから贈られたアームストロング船長の足跡の灰皿、実際も灰皿として使っていたようです。
   
 このコースは昼食と途中の茶店のソフトクリームも付いていました。
見慣れた町で、見たこともなかった施設に入れる、観光バスツアーもなかなか有意義でした。

    返事
花水木さん:バスの旅、ボーとしていても連れていってくれる、
     楽で良かったです。
      レコード大賞、最近の受賞者は知りませんが、
     2回も獲った中森明菜は今ちょっと可愛そうですかね。

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京の夏の旅1

2017-09-23 | 京都から
  
 今日はお彼岸の中日、自宅前に最後に残った小さな畑にも彼岸花が咲いています。
桜はだんだん北上して地方地方で開花時期が違うのに、彼岸花は奈留島でも600km離れた京都でも、お彼岸になったらきちっと咲いてくる、どんな器官が彼岸花に「お彼岸だぞ」と教えているのでしょうね。
  
 初めてかもしれませんが、京都の観光バスに乗りました。
定期観光バス特別コース「京の夏の旅=モダン!京の近代建築と市内一望の絶景をたずねて=」、昼付きで5~6時間9千円で、曇り空の京都駅を出発です。
  
 日本モダニズム建築の先駆けとして、大正13年に本野精吾(モトノセイゴ)さんが建てた自宅から見学です。
 だいたい本野精吾さんを全く知らなかったし、案内された場所は前の日に往診で行った患者さんの家のすぐそこ、立命館大学の衣笠校舎近くですが、これも知りませんでした。
  
 家の外壁は、関東大震災でも唯一壊れなかった中村鎮式(ナカムラチンシキ)コンクリートブロック(L型に組み合わせるそうです)をむきだしたまま使用して(当時の近所の人はいつまでも工事中と思っていた)作られています。
 一見貧乏臭そうな家ですが、90年前の家とは思えないぐらいハイカラですね。
  
 早速お昼ご飯は、岡崎の動物園前にある白河院でした。
ここは近代建築の父と言われる武田五一の設計した数寄屋造の建物が残ってるそうですが、武田五一のこともほとんど知りません。
  
 庭は岡崎周辺の庭園をたくさん造ってる、7代目小川治兵衛(オガワジヘイ)の作で、平安神宮や有鄰館の庭と似てないこともなかったです。
 このコースを選んだ肝心の行き先は午後からで、次回にまわします。

     返事
花水木さん:虹を愛でて、天地真理を歌わなかった私も恥ずかしいですが?、
    その時は、
      けれどおも ようやく 虹を見た~symbol7symbol7
      あなたあの ひとお~みに 虹を見た
       君こそを~ いのお~ち
                      と歌っていました。

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2017-09-20 | ノンジャンル
  
  先週の私は4連休でした。
 1日は孫の幼稚園敬老参観日、1日は雨の中是枝監督の「三度目の殺人」を観に行きました。
映画も行き出すと又行きたくなる、是枝作品も「歩いても歩いても」・「海よりもまだ深く」など観ましたし、先週のTVで「そして父になる」も録画したので又観ます。
是枝作品は作品名が考えるようになってるのか、今回の三度目が何なのかが解答みつかりません。
台風の一日はさすがに家に居て競馬ですが(チャラですみました)、京都は風が強いぐらいで雨は夜まで降りませんでしたので、中止した息子家族との遊びも出来たかもです。
 
 最後の敬老の日は久しぶりのゴルフで、朝6時前に出発。
桂川を越えた辺りで、台風一過の空に虹を見ました。(老いの坂を越えてゴルフ場に近づくと雨でしたが)
綺麗な完全な半円で、しかも薄く二重の虹です。(キミマロズームもそろそろ変え時か、空を写したりすると黒の斑点が目立ちます)
 幸先いいかと思ったゴルフは、まあそれなりという感じ、ほんまにゴルフはタラネバのスメ[ツですね。
 でも、虹を写すために徐行したり停まったりした丁度この辺りで、朝の6時からねずみ獲りをしていたようで、ゴルフ同行者で捕まった人もいて、悔しがっていたので、私にとってはこの虹はかなり幸運な虹となったようです。
 (2~3万円助かりました、ブログの為に虹を撮ろうと思って大正解です)

    返事
花水木さん:この墓、土盛した金魚の墓?のちょっと大きめ、
    ぐらいしかないので、中に何が入ってるかな?
     周りの柵が以前はなかっただけかもしれません、それで登った気がしたのか

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17≠Q履中天皇皇子市辺押磐皇子

2017-09-17 | 天皇陵巡り
  
 第17代履中天皇は黒比売命(クロヒメノミコト)との間に3人の子をもうけていますが、その長子の市辺之忍歯王(イチノベノオシハミコ)⦅書紀では市辺押磐皇子⦆は、本来なら次期天皇になっても良かったし、実際同じ世代で従弟の第20代安康天皇は、市辺押磐皇子に次の天皇を任せようともしていました。
   
 しかし、安康天皇の弟だった雄略はこれを恨んで、市辺押磐皇子を滋賀県の蚊屋野(カヤノ)に狩に誘い、射殺した上に死骸を馬の飼い葉桶に入れて埋めたそうです。(その頃の滋賀県は、湖東も湖西も発展してたようです)
  
                      右
  
                      左
 日本書紀では、この時雄略は押磐皇子の遺骸を抱いて悲しんでいた舎人も殺して、同じ穴に埋めてしまったそうです。
 後日、天皇になった押磐皇子の子供が、なんとか遺骨を見つけましたが、皇子と舎人の遺骨の区別がつかないので、二つの似た墓を作ったそうで、この写真の通り左右に二つの土盛がある墓になっています。
  
 ここ磐坂市邊押磐皇子墓は、滋賀県近江市市辺町の車がよく通る道のそばにある、確かに円墳二基でした。
15年ほど前に訪れた時には、この円墳に登れたような気がしていますが?

     返事

花水木さん:この辺から奈良時代まで、
    天皇家の婚姻関係はかなり血が濃くなってきて、
    なんか判りにくくなってきますので、よろしくお願いいたします。

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