京都嵯峨大沢の池に浮かぶ朧月を模して作られたお菓子が「月しろ」です。
1個150円ぐらい。
京都のお土産五色豆と子供のころは食べなかった味のすはま団子で有名な、京都の「豆政(マメマサ)」のお菓子です。
小豆本来の風味を味合うお菓子だそうですが、確かにこんな単純な甘いお菓子が、子供の時より美味しく感じられるようになってきました。
久邇宮邦彦王(クニノミヤクニヨシオウ)第1王女の良子女王(ナガコニョオウ)(1903~2000)は、生まれながらの皇族です。
母系島津家に色盲の遺伝があるので、皇太子妃にはふさわしく無いと言われた宮中某重大事件(1921年)を乗り越えて、1922年時の皇太子裕仁親王(ヒロヒト)(後の昭和天皇(1901~1989)(在位1926~1989)と婚約しました。
大正・昭和天皇皇后陵は、この地図のような配置になっています
虎の門事件と言う皇太子暗殺未遂事件も有って、少し予定より遅れましたが1924年結婚、次々と子供をもうけましたが、最初の4人は全て女子(内一人は夭折)でした。
1926年には裕仁親王が即位したので、良子女王も立后しています。
武蔵野東陵(ムサシノノヒガシノミササギ)(東京都八王子市長房町)は他と同じく上円下方の陵です
1933年(昭和5年)、二人の間の第5子として初めての男子、継宮明仁親王(ツグノミヤアキヒト)(後の第125代平成天皇(1933~ )(在位1989~2019)が産まれました。
その後は私もよく知ってる、「火星ちゃん」と呼ばれていた常陸宮正仁親王(ヒタチノミヤマサヒト)と「私の選んだ人を見て下さい」で有名な島津貴子を産んで、計7人の子供に恵まれました。
晩年は「老人特有の症状」と報道された認知症が進行し、満97歳で亡くなり、皇淳皇后(コウジュン)と追号されて、この武蔵野東陵に葬られました。
神話時代を除くと、歴代天皇皇后中二人共最高齢で亡くなっていますが、一番新しい陵に続く参道は、皇族も車で参拝しやすいように広かったです。
満願成就
ありがとうございました
島から戻ってから始めた天皇陵巡り、7年間300回以上と予定をはるかに超えてしまいましたが、いよいよ最後の第124代昭和天皇(1901~1989)(在位1926~1989)にたどり着きました。
次のシリーズ予定が決まらずに延ばし延ばししていましたが、これ以上延ばしてもう1代天皇陵巡りを追加する事態になるのも嫌なので、この辺で終わらせます。
今年の暑すぎる夏も、終わってしまえば暑さを忘れて寂しく感じるかもしれないのと同様、不評だったこの天皇陵巡りも、終わるとなると寂しいと感じていただければ、私の立つ瀬もございます。
東京まで大正・昭和の天皇陵を巡って、この地図を写真に撮ってからもう5年ぐらいたってます
昭和はその年に25を足すと西暦になります(私は昭和23年生まれなので25足して1948年生まれ)し、大正は11足すと西暦になりますが、明治は何故か明治33年が3×3で西暦1900年と、高校の時は覚えました。
1901年(明治34年)4月29日生まれの昭和天皇は、20世紀を生きた人です。
天皇誕生日と言えば、4月29日と思いゴールデンウイークの1日と思って育ってきた私ですし、昭和天皇の在位期間は64年と長く、生まれてから40歳までは昭和だった私にとっては、天皇と言えば昭和天皇でした。
高尾駅から歩いてたどり着いた武蔵野陵(ムサシノノミササギ)(東京都八王子市長房町)は、大正天皇・皇后陵と同じところに有ります
天皇陵巡りをしてきた歴代天皇で、唯一私の生きてる時代と重なるのは昭和天皇だけですし、その生涯(後半だけですが)を実際に目撃した天皇ですが、戦後の昭和天皇しか知らない私には、まあ平和的な戦争を嫌う天皇として写っていました。
しかしながら私の父は、中国戦線から南洋のブーゲンビルまで軍医として地獄を見てきたようで、マラリアに罹患し捕虜になって、それでも何とか帰国出来たので私が生まれました。(ほぼ戦争の思い出は語ってはくれませんでしたが)
「天皇陛下万歳!」と言いながら死んでいった戦友などをたくさん見てきたと思われるので、正直昭和天皇に対する強い恨みはずっと持っていたようです。
私もせめて敗戦の時に、昭和天皇は責任を取って退位はしたほうが良かったと思います。
丁度陵の上空低く、たぶん米軍機が飛んでいましたが、昔なら撃ち落されていたかもしれません。
昭和天皇の最後は、なんか医者によって(宮内庁職員によって・政治家によって)無理矢理生かし続けられた感じがしますが、それも昭和の時代だったのでしょう。
今の平成や令和の天皇は、もうあそこまで無駄な延命策は取らない気はしますが、
もう一つ陵巡りが増えないうちに終われそうでほっとしています。
陵印は天皇・皇后共通でした。
これで残るは隣にあるその皇后陵だけになりました。
中村草田男が
「降る雪や 明治は遠くなりにけり」
と詠んだのは昭和6年だそうで、明治からまだ21年しかたっていません。
今私が、
「くそ暑い 昭和は遠くなりにけり」
と言っても、昭和からもう35年、昭和ははるか昔になりました。
暑い暑い今年の夏、それでもセミの声も少し少なくなってきてますし、我が家の網戸に留まってるセミも、たぶん後期高齢者以上でしょう。
関西直撃の台風も、予報よりはたいしたことなく、「お年寄りは危ないので、休んでください」と言われた仕事も、車で行ったら何ということもなく、むしろお盆と台風で予定より楽に往復出来ました。
台風翌日で心配した京都五山の送り火、いつもは前日から用意されていますが、今年は台風で全く準備無しも、台風一過の朝から山に薪を運んでいく姿が見えました。
「妙」は先祖代々地元の家が、家ごとに一つの火床を受け持ってるので、私のような新参者にはその権利は有りません。
昼には火床は全て準備完了、台風一過と言うほどではありませんが、天気ももちそうです。
今年は娘夫婦と孫だけが来てくれました。
祇園祭の40万円の有料観覧席、阿波踊りの20万円の有料観覧席に匹敵する場所にある我が家の送り火の席、同じように弁当も出ます。
その890円のお弁当を食べ終わって、家の電気も消して開始を待ちました。
「妙」は午後8時05分着火、昨日あれだけ雨が降ったのに火の付き具合は最高で、速やかに火が回りました。
ここ数年でも上出来の火の燃え方で、これなら反省会で文句を言われる家はないと思います。
少し遅れて「船形」も綺麗に燃えています。
台風も過ぎ去り、送り火も終わったので、暑いと言ってももう夏は終わりそうです。
寒い寒いと言わなければならない日までが、なるべく長いことを祈ってます。