島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

29≠P欽明天皇

2018-02-28 | 天皇陵巡り
  
 古事記には、アメクニオシハルキヒロニハノスメラミコは大和に師木島(シキシマ)の大宮を造り、天下を治めた。
宣化天皇の娘イシヒメ命を妻として、敏達天皇など3人の子を、妻の妹ヲイシヒメ命にも1人の子を産ませ、家臣の子糠子郎女(ヌカコノイラツメ)との間にも3人の子をもうけています。
又、蘇我稲目の娘キタシヒメも妻とし、用明・推古天皇など13人の子を産ませ、稲目のもう一人の娘ヲエヒメとの間にも崇峻天皇など5人の子をもうけ、計25人の子供がいたと書いてあるだけでした。
   
 石舞台の案内ボランテイアに見せてもらった欽明天皇陵の写真です。
明日香村の西北にあって、最初はこの写真の右下から自転車で来ました。
右下の小さな森が猿石のある吉備姫墓です。
 さて、日本書紀では、40歳ぐらい年上の異母兄第28代宣化天皇没後、天国排開広庭天皇(アメクニオシハルキヒロニワノスメラミコト)は磯城島金刺宮(シキシマノカナサシノミヤ)(奈良県桜井市)で即位し、第29代欽明天皇(キンメイ)となりました。
 古事記と違うのは、妻とした石姫(イシヒメ)は共通ですが、小石姫(オイシヒメ)の名はなくそれ以外の2人の妹と結ばれているようです。
古事記・日本書紀と併せると、継体天皇とわずかに仁徳系と繋がる手白香皇女との子欽明天皇は、その妻に、異母兄の宣化天皇と自分の母親の妹との間に産まれた娘4人を選び、出来た6人の子供のうちの1人が第30代敏達天皇になって、今の天皇家に男系として繋がっています。
   
 陵に向かう参道は、本当はここから始まって、この石段を上って行くのが正面のようです。
 欽明天皇は宣化天皇の娘以外にも、糠子(ヌカコ)との間に3人の子をもうけています。
 そして何よりも、蘇我稲目の娘、蘇我馬子の姉にあたる堅塩媛(キタシヒメ)と小姉君(オアネノキミ)を后妃に迎え、それぞれ13人と6人の子をもうけていますので、最大28人の欽明天皇の子供を数え上げました。
   
 参道の坂道を上がってその頂上近くになると、鳥居が見えてきました。
 欽明天皇の御世には、大伴氏が失脚して、蘇我・物部の二強になりました。
欽明天皇と蘇我の2姉妹から生まれた15人の子供の中から、用明・推古・崇峻天皇が産まれているので、蘇我稲目は外戚の地位を確保し台頭して来たとも言えますし、蘇我氏との姻戚関係によって天皇家の力がより強くなっていったとも言えます。
   
 参道坂道峠に立つと、真下に天皇陵の拝所が見えてくるという、なかなかかっこいい陵です。
 538年「仏教伝来 ご・さん・ぱい」と憶えましたが、欽明天皇の即位は539年なので仏教伝来は552年説もあるようです。
欽明天皇は仏教を許し、蘇我稲目に仏像を拝むように指示しましたが、その後疫病が流行ったので、仏教は一旦中止になっています。
   
 第29代欽明天皇は571年に在位33年63歳で崩御し、檜隈坂合陵(ヒノクマノサカアイノミササギ)(ナラケンアスカムラ)に葬られました。
612年には堅塩媛がここに改葬されて一緒に葬られているのは、蘇我家の力からかもしれませんが、制札には堅塩媛の名はありません。
蘇我家を悪人にしたい色んな力が色んな時代に有った為かもしれませんね、私も子供の頃は蘇我家は悪人という話の中で育っています。
  
 この堅塩媛、男7人・女6人と13人の子を産んでいて、その名前も皆判っています。
計算すると、20才ぐらい年上の欽明天皇と結婚して、11歳で長男の用明天皇を生み、4番目の子推古天皇を25歳で生んだ後、更に9人生んでいるので、13番目の子を生んだのは35~45歳の高齢出産になり、45~58歳ぐらいで亡くなっています。
たくさん産んだのは立派ですが、夫に他にも6人の妃がいる中で、高齢になっても夫を引きつける肉体と魅力があったのは立派ですね。
      
 最初の写真の右下の方から陵を見ていますが、周濠はこちら半分しかなかったのですね。
この陵は正式名は平田梅山古墳という前方後円墳ですが、この北にある見瀬丸山古墳(ミセマルヤマコフン)が真の欽明天皇陵だという説が有力です。


    返事

花水木さん:また今回も天皇陵巡りと
    長い文になってしまいましたね、すみません。
     切手シート集めているというわけではありません。
    なんとなく集まってきたという感じです。

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お年玉商品

2018-02-26 | ノンジャンル
   
 今年の年賀葉書のお年玉、ちょっと確率悪く、3等お年玉切手シートが3枚当たっただけでした。
少なかった幸せを贈ってくれた人は、若い時に神戸の病院でお世話になった上司の外科部長、島に行く前に働いていた病院の看護婦さんが2人でしたので、3人には恒例の礼状を書きました。
  ありがとうございました!
   
 切手シート、ずっと前回の「子」から集めていましたが、残念ながら昨年が喪中だったので、「酉」の切手シートがありません。
あと11年生きて、酉の切手を集められたら良いのですが・・・・・。
 今年のこの戌のデザイン、それほど良いとは思いませんが、日本に7名しかいない日本郵政の切手デザイナーの一人、星山理佳さんの作品らしいです。

     返事
花水木さん:うううう~
    天皇陵巡りは地味ですが、今や私の生きがい?になっています。
    この後、天皇家はおどろおどろしい近親相姦入り乱れる世界に入りますので、
    せめてこれを楽しみに、お許しください。

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28≠P宣化天皇

2018-02-23 | 天皇陵巡り
   
 第26代継体天皇と目子媛との間に産まれた第2子で、古事記では建小広国押叙ス(タケヲヒロクニオシタテノミコト)・日本書紀では檜隈高田皇子(ヒノクマノタカタノミコ)と書かれ、兄の第27代安閑天皇の同母弟になります。
   
 兄の安閑天皇には子がいなかったので兄の死後、檜隈廬入野宮(ヒノクマノイオリノミヤ)(奈良県明日香村)で即位し第28代宣化天皇(センカ)になりました。
 旧臣であった大伴金村と物部麁鹿火(アラカヒ)を大連(オオムラジ)にし、蘇我稲目(イナメ)を大臣(オオオミ)にしましたので、ここからいよいよ蘇我氏の台頭が始まるようです。
 橿原神宮から橿原高校へ向かって自転車を走らせ、案内杭に従って左を見ると、写真のように住宅の間からこんもり盛り上がった陵(鳥屋ミサンザイ古墳)が見えてきました。
   
 古事記では、仁賢天皇の娘である橘之中比売命(タチバナノナカツヒメノミコ)との間に3人の娘をもうけ、又若子比売(ワクゴヒメ)との間に2人の息子をもうけたと書いてあるだけで、その陵の場所さえ記述はありません。
 仁徳系統から続く第24代仁賢天皇の子供は、1人は第25代武烈天皇になり、3人の娘はそれぞれ第26代継体天皇・第27代安閑天皇・第28代宣化天皇の皇后になったということです。
   
 日本書紀では、仁賢天皇の娘、すなわち義理の叔母にあたる橘仲皇女(タチバナノナカノヒメノミコト)を皇后にして、石姫皇女(イシヒメ)・小石姫皇女(コイシヒメ)・倉稚綾姫皇女(クラノワカヤヒメ)と1人の皇子をもうけ、又別の妃との間に1皇子いたようです。
 拝所の裏側の周濠には堤があって、横にひろがる水鳥の遊ぶ池に繋がっていました。
    
 兄の後を継いで即位し、在位4年で73歳で崩御し、この身狭桃花鳥坂上陵(ムサノツキサカノエノミササギ)(奈良県橿原市)に仁徳王朝から続く系統の出である奥さんの橘仲皇女と一緒に仲良く葬られています。
 ここの制札の字はちょっとへたくそですね。
   
 ただし、宣化天皇の息子は天皇には成れず、父親継体天皇が偉くなってからの後妻の子である異母弟の欽明天皇が次の代を継ぎました。
 でも欽明天皇の皇后に宣化天皇の娘の石姫皇女が成って第30代敏達天皇を産んだので、仁徳系統の血は女系ではありますが、手白香皇女の血と共にわずかに今に繋がってるようです。
 宣化天皇陵の前の道からは、写真のように目の前に畝傍山が大きく見えていました。

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27≠P安閑天皇

2018-02-21 | 天皇陵巡り
  
 古事記の安閑天皇(アンカン)の章はかなり短く、ヒロクニオシタケカナヒノミコトは大和の勾金箸宮(マガリノカナハシノミヤ)(奈良県橿原市)を造り、陵は河内の国古市の高屋の村(大阪府羽曳野市)にあると書いてあるだけでした。
   
 父親の第26代継体天皇がまだ越前にいた頃に、尾張の目子媛(メノコヒメ)との間に産まれた第1子、広国排武金日天皇(ヒロクニオシタケカナヒノスメラミコト)は越前の岡太神社(オカモトジンジャ)の境内横にある皇子が池で、産湯を使ったと言われています。
その池の周囲には、継体天皇1300年祭を記念して、江戸時代の1830年にに作られた6角形の石の玉垣で囲まれていました。
写真は福井県鯖江市に近い越前市にある岡太神社境内の端にある皇子が池ですが、池らしきものはなく単に中央に石が置いてあるだけでした。
   
 父継体天皇に連れられて、弟と共に中央に出てきたヒロクニオシタケカナヒノスメラミコトは、父の死後第27代安閑天皇として即位し、父が皇后とした継母の手白香皇女の父親(仁賢天皇)の娘、すなわち継母の異母妹の春日山田皇女(カスガノヤマダノヒメミコ)を皇妃に迎え、中央政権とより強く結びつこうとしましたが、子には恵まれませんでした。
  
 安閑天皇の在位期間は2年と短く、70歳で亡くなりました。
陵は古市高屋丘陵(フルイチノタカヤノオカノミササギ)ということで、何故かあまり関係なさそうな河内の近鉄古市駅近くの、交通量の多い道路の前にあり、高屋築山古墳(タカヤツキヤマコフン)という6世紀初頭の前方後円墳です。
    
 制札に継体天皇皇女神前皇女(カンサキノオウジョ)墓とも書いてありましたが、この神前皇女は安閑天皇とは異母兄妹ですし、何故一緒に入っているのか知りません。
 日本書紀では、この陵に皇后春日山田皇女と異母妹神前皇女も合葬したと書いてあります。
私は後で知ったので行けなかったですが、この安閑天皇陵の南300ⅿほどに古市高屋墓として、春日山田皇女の墓は宮内庁によって明治8年に治定されてるようですが、何故皇后とは引き離されたのか、皇后なのに何故陵ではなく墓なのかわかりません。

     返事
花水木さん:私の好みもどちらかと言うと、
    羽生より宇野選手ですね。
     カーリングとかペタンクとか、なんとなく好みです。
     「先生の娘さんは大丈夫」と言われますが、私はA型娘はAB型、
    似てるようで否です。
    でも、年下の義理の息子はめちゃくちゃ優しい人ですので、
    我々親子は共に良き伴侶に恵まれた?ということで、
        チャンチャン!

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京都マラソン

2018-02-18 | 京都から
  
 今日は京都マラソンの日、くねくねと京都の観光地や鴨川の河川敷を走るコースで、私の家の前の北山通りも折り返して走ります。
車では出られない日になったため、1日家に居ました。
 通りに出たら、この一番の人はもう折り返してきていましたが、結局一番は違う人だったようです。
   
 冬季オリンピック、フィギアはあまり好きでないので、羽生選手が勝ったより羽生さんが藤井君に負けた方が、私にとってはビッグニュース。
 一番観てるのは、今の所調子良い男女カーリングです。
対アメリカの試合を観ながら、ちょこちょこ外に出てマラソン見物。
   
 この仮装の人も早い方ですが、そろそろたくさんの選手の行列になって、もう向かいには渡れません。
天気は良くなってきました。
  
 この素晴らしい投球で、この後アメリカは降伏しました。
女子も面白く、綺麗な人も多いですが、男女のレベルはかなりありますね、日本の男子は失敗しません。
   
 そろそろ時間制限に引っ鰍ゥる選手も出そうな時間になってきましたが、まだまだ選手の列は続きました。
 土日の競馬18レース買って、17レースが2頭は入ってるのに3頭目が入ってず、3連複全敗でした。
したがって今年最初のGⅠもたくさん買ったのにダメでした。
競馬休んだ方が良い気がしてます。

   返事
花水木さん:京都の三世代同居の家に嫁いだ娘ですが、
    思っていた以上に、皆さん優しく親切で、飾り気のない人たちなので、喜んでます。
    しかしながら、娘がそれにふさわしい嫁になってないので、頭痛いです。

コメント (1)
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