古事記には、アメクニオシハルキヒロニハノスメラミコは大和に師木島(シキシマ)の大宮を造り、天下を治めた。
宣化天皇の娘イシヒメ命を妻として、敏達天皇など3人の子を、妻の妹ヲイシヒメ命にも1人の子を産ませ、家臣の子糠子郎女(ヌカコノイラツメ)との間にも3人の子をもうけています。
又、蘇我稲目の娘キタシヒメも妻とし、用明・推古天皇など13人の子を産ませ、稲目のもう一人の娘ヲエヒメとの間にも崇峻天皇など5人の子をもうけ、計25人の子供がいたと書いてあるだけでした。
石舞台の案内ボランテイアに見せてもらった欽明天皇陵の写真です。
明日香村の西北にあって、最初はこの写真の右下から自転車で来ました。
右下の小さな森が猿石のある吉備姫墓です。
さて、日本書紀では、40歳ぐらい年上の異母兄第28代宣化天皇没後、天国排開広庭天皇(アメクニオシハルキヒロニワノスメラミコト)は磯城島金刺宮(シキシマノカナサシノミヤ)(奈良県桜井市)で即位し、第29代欽明天皇(キンメイ)となりました。
古事記と違うのは、妻とした石姫(イシヒメ)は共通ですが、小石姫(オイシヒメ)の名はなくそれ以外の2人の妹と結ばれているようです。
古事記・日本書紀と併せると、継体天皇とわずかに仁徳系と繋がる手白香皇女との子欽明天皇は、その妻に、異母兄の宣化天皇と自分の母親の妹との間に産まれた娘4人を選び、出来た6人の子供のうちの1人が第30代敏達天皇になって、今の天皇家に男系として繋がっています。
陵に向かう参道は、本当はここから始まって、この石段を上って行くのが正面のようです。
欽明天皇は宣化天皇の娘以外にも、糠子(ヌカコ)との間に3人の子をもうけています。
そして何よりも、蘇我稲目の娘、蘇我馬子の姉にあたる堅塩媛(キタシヒメ)と小姉君(オアネノキミ)を后妃に迎え、それぞれ13人と6人の子をもうけていますので、最大28人の欽明天皇の子供を数え上げました。
参道の坂道を上がってその頂上近くになると、鳥居が見えてきました。
欽明天皇の御世には、大伴氏が失脚して、蘇我・物部の二強になりました。
欽明天皇と蘇我の2姉妹から生まれた15人の子供の中から、用明・推古・崇峻天皇が産まれているので、蘇我稲目は外戚の地位を確保し台頭して来たとも言えますし、蘇我氏との姻戚関係によって天皇家の力がより強くなっていったとも言えます。
参道坂道峠に立つと、真下に天皇陵の拝所が見えてくるという、なかなかかっこいい陵です。
538年「仏教伝来 ご・さん・ぱい」と憶えましたが、欽明天皇の即位は539年なので仏教伝来は552年説もあるようです。
欽明天皇は仏教を許し、蘇我稲目に仏像を拝むように指示しましたが、その後疫病が流行ったので、仏教は一旦中止になっています。
第29代欽明天皇は571年に在位33年63歳で崩御し、檜隈坂合陵(ヒノクマノサカアイノミササギ)(ナラケンアスカムラ)に葬られました。
612年には堅塩媛がここに改葬されて一緒に葬られているのは、蘇我家の力からかもしれませんが、制札には堅塩媛の名はありません。
蘇我家を悪人にしたい色んな力が色んな時代に有った為かもしれませんね、私も子供の頃は蘇我家は悪人という話の中で育っています。
この堅塩媛、男7人・女6人と13人の子を産んでいて、その名前も皆判っています。
計算すると、20才ぐらい年上の欽明天皇と結婚して、11歳で長男の用明天皇を生み、4番目の子推古天皇を25歳で生んだ後、更に9人生んでいるので、13番目の子を生んだのは35~45歳の高齢出産になり、45~58歳ぐらいで亡くなっています。
たくさん産んだのは立派ですが、夫に他にも6人の妃がいる中で、高齢になっても夫を引きつける肉体と魅力があったのは立派ですね。
最初の写真の右下の方から陵を見ていますが、周濠はこちら半分しかなかったのですね。
この陵は正式名は平田梅山古墳という前方後円墳ですが、この北にある見瀬丸山古墳(ミセマルヤマコフン)が真の欽明天皇陵だという説が有力です。
返事
花水木さん:また今回も天皇陵巡りと
長い文になってしまいましたね、すみません。
切手シート集めているというわけではありません。
なんとなく集まってきたという感じです。