今年度オスカーの主演女優賞に輝いたメリル・ストリープが2008年の主演作「マンマ・ミーア!」の女流監督フィリダ・ロイドと再び組み、イギリス初の女性首相マーガレット・サッチャーの人生を描いた映画。
イヤラシイさが全開の男性社会で堂々たるリーダーシップを発揮したサッチャーを、本人のような迫力で演じきったストリープは、アカデミー賞最多の17回目となるノミネートに、3度目のオスカー像を手に入れた作品。
“鉄の女”の異名をとった元イギリス首相マーガレット・サッチャーが、認知症を患っていることが娘の回顧録によって明らかになったとき、世間に大きな衝撃が走った。
保守党の党首として1970年代後半に頭角を現し、経済の混迷やフォークランド紛争という困難に采配を振るってきた彼女のイメージがあまりにも強く、引退後の姿については、ほとんど何も知らなかった。
映画では、サッチャーが他界した夫の幻を追いながら、希望に燃えていた少女時代から政界を退くまで、ひとり胸の中に抱えていた苦悩や葛藤を振り返る様子がつづられている。
実在の、生きている人物を演じると言う難しさ、それだけでもオスカーに値する演技です。
知られざる素顔では、ヨーロッパ社会では初の女性首相であり、20世紀でもっとも長い任期を務めた女性でありながら、彼女には専任のコックがいなかった。
彼女は政治家である間もずっと、夫や子どものために朝食を作り、仕事から帰ったら夕食を作っていた。
サッチャーは現役時代、超人的なエネルギーとスタミナをもち、1日平均4時間睡眠で家事と仕事に全力を注いでいた。
コンピューターのない時代の話。
彼女はすべて紙に書き、読み、大量の書類と毎晩遅くまで向き合っていた。
仕事場の上が自宅で、内閣の会議をやっているところに夫が降りてきて、夫がサッチャーに閣僚たちに食事をふるまうよう指示する。
すると“あら、そうね”って、料理を作りに上がっている。
一国の首相なのに。
サッチャーは保守党所属でありながら、オックスフォード大学で化学を学んだことから地球温暖化にも興味をもち、中絶も容認し、健康保険の重要性を認識していた。
保守党のイメージとはかけ離れた先進的な考え方の持ち主であったと同時に、女性らしさというものを決して失おうとはしなかった。
男性社会においては女性らしさなんて、いっそ捨ててしまう方が楽だという誘惑も自分のなかにあったかもしれない。
だけど彼女はそうしなかった。
靴やバッグやヒラヒラのブラウスを愛していた。
でも、笑いや涙といった女性らしい感情、弱さを見せることが許されない場所にいた。
だから“鉄の女”と呼ばれたのだろう。
一人の偉大な女性の人生を、ある一時期だけではなく丸ごと眺めることができる。
ストリープ自身も現在62歳。
その年齢になると、自分の人生を最初から振り返ってみることも実際にあるのかもしれない。
また他方で、重要なのはこの日、この瞬間だと気付くのかもしれない。
劇中、“ティーカップを洗うだけで人生を終わらせるのはイヤ”という若きサッチャーのセリフがあるのだけれど、そんな言葉を言えるのは23歳の女の子だけなのかも。
“私はママみたいにはならない!”って思いながらも、ある程度の年齢に達すると、自分も母親となんら変わらない女性になっていることに気づくのだろう。
年をとるとは経験を積み重ねることであり、より内面が豊かになっていくということ。
若い頃はごう慢な部分があるかもしれない。
でも年をとると、普段の何気ないこと~台所に立ってお皿を洗いながら、鳥のさえずりや子どもたちのはしゃぐ声を聴いていること~などのように、人生のごくありふれたその瞬間がとても美しいことだと感じられるようになるだろう。
もう、それだけで十分なのかもしれない。
映画でも最後はそういった部分を描いている。
国のために懸命に働いてきた彼女が、夫を亡くしたことを受け入れ、台所から窓の外を眺めている。
とても美しいシーンだ。
先日のアカデミー賞授賞式で、主演女優賞を受賞したストリープはステージにあがり「もうこの舞台に立つことはないだろう」とスピーチした。
「別にリタイアするという意味じゃないのよ。ただ、彼ら(アカデミー会員)が私にオスカーをくれることはもうないって思ったから。3度ももらったし、彼らもいい加減、私に飽きているはずよ(笑)。うんざりされているとは思うけど、でもこの年齢になって再びこうして認めてもらった。とてもありがたいことよ」
役者としてのメリル・ストリープ、劇中のマ-ガレット・サッチャー、同時に偉大な二人の女性にめぐり合えた心境だ。
イヤラシイさが全開の男性社会で堂々たるリーダーシップを発揮したサッチャーを、本人のような迫力で演じきったストリープは、アカデミー賞最多の17回目となるノミネートに、3度目のオスカー像を手に入れた作品。
“鉄の女”の異名をとった元イギリス首相マーガレット・サッチャーが、認知症を患っていることが娘の回顧録によって明らかになったとき、世間に大きな衝撃が走った。
保守党の党首として1970年代後半に頭角を現し、経済の混迷やフォークランド紛争という困難に采配を振るってきた彼女のイメージがあまりにも強く、引退後の姿については、ほとんど何も知らなかった。
映画では、サッチャーが他界した夫の幻を追いながら、希望に燃えていた少女時代から政界を退くまで、ひとり胸の中に抱えていた苦悩や葛藤を振り返る様子がつづられている。
実在の、生きている人物を演じると言う難しさ、それだけでもオスカーに値する演技です。
知られざる素顔では、ヨーロッパ社会では初の女性首相であり、20世紀でもっとも長い任期を務めた女性でありながら、彼女には専任のコックがいなかった。
彼女は政治家である間もずっと、夫や子どものために朝食を作り、仕事から帰ったら夕食を作っていた。
サッチャーは現役時代、超人的なエネルギーとスタミナをもち、1日平均4時間睡眠で家事と仕事に全力を注いでいた。
コンピューターのない時代の話。
彼女はすべて紙に書き、読み、大量の書類と毎晩遅くまで向き合っていた。
仕事場の上が自宅で、内閣の会議をやっているところに夫が降りてきて、夫がサッチャーに閣僚たちに食事をふるまうよう指示する。
すると“あら、そうね”って、料理を作りに上がっている。
一国の首相なのに。
サッチャーは保守党所属でありながら、オックスフォード大学で化学を学んだことから地球温暖化にも興味をもち、中絶も容認し、健康保険の重要性を認識していた。
保守党のイメージとはかけ離れた先進的な考え方の持ち主であったと同時に、女性らしさというものを決して失おうとはしなかった。
男性社会においては女性らしさなんて、いっそ捨ててしまう方が楽だという誘惑も自分のなかにあったかもしれない。
だけど彼女はそうしなかった。
靴やバッグやヒラヒラのブラウスを愛していた。
でも、笑いや涙といった女性らしい感情、弱さを見せることが許されない場所にいた。
だから“鉄の女”と呼ばれたのだろう。
一人の偉大な女性の人生を、ある一時期だけではなく丸ごと眺めることができる。
ストリープ自身も現在62歳。
その年齢になると、自分の人生を最初から振り返ってみることも実際にあるのかもしれない。
また他方で、重要なのはこの日、この瞬間だと気付くのかもしれない。
劇中、“ティーカップを洗うだけで人生を終わらせるのはイヤ”という若きサッチャーのセリフがあるのだけれど、そんな言葉を言えるのは23歳の女の子だけなのかも。
“私はママみたいにはならない!”って思いながらも、ある程度の年齢に達すると、自分も母親となんら変わらない女性になっていることに気づくのだろう。
年をとるとは経験を積み重ねることであり、より内面が豊かになっていくということ。
若い頃はごう慢な部分があるかもしれない。
でも年をとると、普段の何気ないこと~台所に立ってお皿を洗いながら、鳥のさえずりや子どもたちのはしゃぐ声を聴いていること~などのように、人生のごくありふれたその瞬間がとても美しいことだと感じられるようになるだろう。
もう、それだけで十分なのかもしれない。
映画でも最後はそういった部分を描いている。
国のために懸命に働いてきた彼女が、夫を亡くしたことを受け入れ、台所から窓の外を眺めている。
とても美しいシーンだ。
先日のアカデミー賞授賞式で、主演女優賞を受賞したストリープはステージにあがり「もうこの舞台に立つことはないだろう」とスピーチした。
「別にリタイアするという意味じゃないのよ。ただ、彼ら(アカデミー会員)が私にオスカーをくれることはもうないって思ったから。3度ももらったし、彼らもいい加減、私に飽きているはずよ(笑)。うんざりされているとは思うけど、でもこの年齢になって再びこうして認めてもらった。とてもありがたいことよ」
役者としてのメリル・ストリープ、劇中のマ-ガレット・サッチャー、同時に偉大な二人の女性にめぐり合えた心境だ。