知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『運河のこと 2(ミディ運河が大西洋と地中海を結んだ)』 ―ルイ14世の狙い・ジブラルタルの通行税をスペインから削ぐ―

2021-10-23 10:43:15 | 河川・運河

 『運河のこと 2(ミディ運河が大西洋と地中海を結んだ)』

ルイ14世の狙い・ジブラルタルの通行税をスペインから削ぐ―

英語の運河(カナル)も、日本語・中国語の運河の意味も、ほぼ同じで、『船舶の航行、灌漑、給排水などのために陸地を、切り開いてつくった人工の水路』、英語のカナルには『管』の意味もある。

世界的に有名な運河には、水平式スエズ運河と、閘門式(ロック式)パナマ運河がある。 規模と歴史から見ても中国の大運河・京杭大運河はスケールが違う。

中国の京杭大運河は、2,500㎞で幅も広くスケールが大きく別格だが、ヨーロッパにも、かなり大きな、『ミディ運河』総延長360㎞余の長い運河がフランスのワイン輸送のコスト削減のために築かれました。 『ところ変わっても輸送費(税金含む)削減コンセプトは変わらず』

ウキペデイア情報から引用

 この運河の建設プランは、ベジエ出身の徴税吏ピエール=ポール・リケにより発案された。 大西洋岸から地中海沿岸に貨物を輸送するための航路を約 3,000 km 短縮し、ジブラルタル海峡の通行税をスペインから削ぐことができる建設プランは、国王ルイ14世(絶対王政の絶頂期を築いた太陽王。72年という、世界史上まれにみるほどの長期間にわたりフランスを統治)により国家プロジェクトとして認められた。

 1666に開始された工事は、当時の土木技術の最先端を駆使したものであった。

ここで余談です。 

フランスのこの高度な土木技術をもってしても、パナマ地峡に設けられた運河は、1881年、フランス人レセップスが建設に着手したが失敗。 1903年、アメリカがパナマを強引に独立させ、運河地帯の支配権を獲得し、翌年建設に着手し1914年に完成。 

表題に戻ります。 

標高差のある運河全域に水を供給するため、運河から約20km離れた標高350mの位置にサン・フェレオール貯水池を築き、ここから水路を通して運河の最高地点である標高190mのノルーズの分水嶺へと水を導き、さらに途中にいくつかの人造湖を築くことで、まんべんなく水を行き渡らせることに成功した。 

 

さらに起伏の多い地形を克服するために運河橋を架け、トンネルを掘り、100を越える水門を築いた。なかでも標高差 21m を7つの閘門(ロック)で1時間かけて上下させるフォンセランヌの7段ロックは、この運河のハイライトとなっている。 

 

工事は難工事続きで、国家からの予算だけで賄うことはできず、リケは家財を売り払い、娘の持参金をも注ぎ込んだといわれる。 しかし、リケはこの運河の完成を見ることなく1680年に世を去った。 工事は彼の息子が引き継ぎ、リケの逝去から7ヶ月後の1681年に完成した。その後水害などの被害を受け改修がなされ、1694年に最終的に完成した。

 

この運河の完成で、運河沿いの地区の産物の流通が盛んとなり、ボルドー、サンテミリオン、ラングドック地方のワインは飛躍的に生産量を伸ばした。 その結果、リケの故郷ベジエはワイン交易の中心地として大いに発展した。

 

その後、19世紀に鉄道が開通し、輸送ルートの主役の座から降り、現在では運河クルーズで人気の観光地となっている。 また、動力を持たない当時の船舶を人や馬が引くために運河の両側につけられた道には、日差しを遮るために45,000本ものプラタナスや糸杉が植えられており、心地よい水辺の散歩道となっている。

 

水の絶景!世界遺産「ミディ運河」で感じる南フランス

ウキペデイア情報から引用

ミディ運河は、文化遺産として1996年に世界遺産に登録された。

 

またまた脱線です。

スエズ運河は、地中海と紅海の海面水位に『差(潮汐による)』ほとんどないので水平にできた。 パナマ運河は大西洋側(海底が急峻)と太平洋側(海底が遠浅)で、海面水位に『差(潮汐による)』が大きく、さらに、パナマ地峡の分水嶺、海抜95ⅿの壁があり、水平式はできなかった。  

 

スエズ運河の中間には、グレートビター湖など4ヶ所の湖があり、パナマ運河の中間には、ガトゥン湖があり、どちらも途中は湖上航行ができる。 ガトゥン湖水を閘門(ロック)に揚水ポンプ不要で流し込む省エネタイプ。 閘門(ロック)には、湖水又は、河川水を使う以外に手はなさそうです。

パナマ第二運河の建設プランには、ダイナマイトの代わりに『超小型核爆弾使用案』もあった。  理由はパナマ地峡の分水嶺、海抜95mのカットの大工事であった。 現運河建設当時には、超大型土木機械もなく、この地峡の分水嶺の掘削には、当初は、アフリカ系労働者で進めたが、かなり難航したので中国系労働者の採用で、やっと乗り切れたという背景があった。

何事も急ぐ時代ですが、『ゆっくり行こう』の運河には、心にゆとりができます。

(記事投稿日:20211023、#413

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『大運河のこと 1(「黄河vs長江を横切り、この北京と杭州を結んだ2500kmの京杭大運河は1400年以上掛けて建設)』

2020-05-19 17:21:48 | 河川・運河
『大運河のこと   1(黄河vs長江を横切り、この北京と杭州を結んだ2500kmの 京杭大運河は1400年以上掛けて建設)』

水平式スエズ運河と閘門式パナマ運河を初めて見たときは、こんなに歴史の古い巨大な閘門式大運河が中国に存在を知らず!!』     
 

不思議なことで、大河川を大河とは言いますが、世界には大きな川は多くありますがそれらを、大川(だいせん)とは呼びません。 大川(おおかわ)は、江戸の大川(隅田川の吾妻橋から河口まで)や、難波の大川(淀川の毛馬水門・毛馬閘門から河口までの一部)です、

四大文明」とは、メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明をさす、長江文明、メソアメリカ文明、アンデス文明などは基本的に含まれず、アメリカ大陸の文明を含めて六大文明と解釈することもあり、 最近は長江文明を含み中国文明とも言われることもあります。

大河と文明発祥は、密接な関連がありますが、大きな『河床勾配』の暴れ大河『ユーフラテス川』『インダス川』よりも『ナイル川』『黄河』『長江』のように、小さいか、又は程よい『河床勾配』が、農耕民族に、ゆっくりと安定した継続的な文明の発達をさせてくれるのでないか思いました。 先のブログで『河床勾配』を計算してみました。

 文明      河川     長さ     水源海抜     河床勾配 
エジプト     ナイル    6853㎞   1134ⅿ    0.02%
メソポタミア   チグリス   2850㎞   1150ⅿ    0.04% 
         ユーフラテス 2800㎞   3520m    0.13%
インダス     インダス   3200㎞   4500ⅿ    0.14%
中国       黄河     5464㎞   4800ⅿ    0.09%
         長江     6300㎞   5042ⅿ    0.08%

ウエブ情報(黄河と長江の画像)から引用

 

3世紀には中国の主要5河川が、京杭大運河で結ばれ、国家の経済、文化交流に重要な役割を果たした。 運河の大部分は現在も利用されている。

 
ウエブ情報(黄河と長江の画像)から引用 

この京杭大運河は、北にある北京から始まり、北京、天津両市及び河北、山東、江蘇、浙江四省を経由し、南にある杭州まで延びています。 そして、海河、黄河、淮河、揚子江、銭塘江という五大水系を閘門なしで通過します。 京杭大運河は、全長2500㎞で、スエズ運河(164km)の15倍で、パナマ運河(83km)の30倍です。 

京杭大運河の断面図を見ますと、水平式のスエズ運河とは異なり、又パナマ運河とも異なります。 海抜26ⅿのパナマ地峡を、3段の閘門で、船を持ち上げて、下ろすのが、閘門式パナマ運河です。 パナマ運河は、人工湖の水を流し込んでを船を上げて、排水して下げる、ポンプ使わずの、超省エネ構造です。 この『水は低きに流れる』を利用した世界最長の京杭大運河のことは、断面図で、この度、解りました。 驚くことに、スエズ運河やパナマ運河よりも、1000年以上も早く、この世界最大の運河の縄張りと長年月の建設が始まっています。
 
古代では、大量の貨物は水路を通して運送するようになりました。 しかし、中国では、自然の江河はいずれも西から東へ流れていました。 そして、黄河流域が戦乱で破壊、長江流域の開発にともない、中国の経済文化の中心は南の方に移り、政治軍事の中心は北の方にあるという局面が形成されました。 そこで、南北の交流および税収や物資の移動のために、南北を貫通する水路が必要でかつ重要なことになりました。
 
春秋時代から掘り始めた京杭大運河は、2500年余りの歴史を持ちます。この間に、京杭大運河は主に三つの時期に発展しました。 第一の時期は春秋時代と戦国時代に、大溝と鴻溝の掘ったことにより、江、淮、河、済四大水系が繋がりました。 第二の時期は隋代で、運河システムが作り上げられ、黄河と淮河を繋ぎ永済渠を掘り、北の涿郡と結びました。 第三の時期は元代で、杭州から大都(北京)への運河全線が開通されました。

このほかにも、京杭大運河は当時、中国が水利工事で世界に誇れる先進的技術をもっていたことを表わしており、豊かな歴史的文化遺産としての価値をもっています。 しかしながら、近年来、深刻な環境、水汚染が進み、大運河の保全が叫ばれています。 京杭大運河に対する保護は、人類文明の伝承、調和的社会の促進においてもきわめて重要な意味を持っていると思われます。 

ここで長江文明に肩入れです。 長江文明は長江下流の河姆渡(きむと)遺跡がその代表で、紀元前5000年頃のものと推定され、黄河流域の判坡遺跡とほぼ同時代のものです。 さらに長江上流に近い三星堆で発掘された異様な仮面や人頭像、立人像など特色のある青銅器でした。 三星堆文化は、竜山文化や河栂渡文化の頃に始まりますが、黄河と長江両文化の影響を受けながら独自の文化を残しました。
 

黄河流域には紀元前7000年ごろに黄河文明が成立した。 黄河文明はやがて南の長江流域に成立した長江文明と一体化し、中国文明となるが、黄河流域は基本的に中国文明の中心地であり続けた。黄河の治水は古くより中国文明においての重大事であり、伝説上の中国初の王朝である夏王朝が、禹が黄河の治水事業に成功して舜より禅譲を受けたことにより成立したという伝説も、その一端を示している。 

紀元前17世紀ごろには確認できる中国最古の王朝である殷が成立した。 以後の歴代統一王朝は、基本的に西周が都をおいた関中盆地の長安周辺か、中原の端にある洛陽のいずれかに都をおいた。 一方、明確に中原諸王朝の支配下にあった地域は黄河屈曲部の中ほどまでであり、それ以北は北方の遊牧民族諸王朝の勢力下にあることが多かった。

屈曲部の北端である河套地域は黄河の遊水地的な湿地帯で、牧畜に必要な豊かな草と水が広がる大牧草地として遊牧民にも重要な土地の一つとなっていた。 しかしこの地域はどちらの根拠地からも遠く離れており、両勢力の係争地となることが多かった。戦国時代にはこの地域に趙が進出し、河套の北に長城を築いて雲中や九原を支配した。 

趙を滅ぼした秦もこの地域の支配を継続し、九原県を置いたが、秦漢交代期にこの地域の支配は崩れ、頭曼単于の侵攻によって屈曲部北部は匈奴の領域となった。 以後100年近くこの支配は続いたが、武帝が即位すると匈奴は圧迫され始め、紀元前127年には屈曲部が、紀元前121年にはそれまで中国諸王朝が進出していなかった蘭州などの黄河上流部およびその西に連なる祁連山の麓までを支配下に置き、ここに河西四郡を置いた。  

しかし後漢王朝以降、徐々に屈曲部の中国王朝の支配は減退し、さらに晋の衰退によって北方遊牧民族が中国北部に侵入し五胡十六国時代が始まると、 黄河流域全体が遊牧民族の支配下に置かれるようになった。 こうした状況は北魏によって華北が統一されても続き、黄河流域の北朝と長江流域の南朝とが対峙する、いわゆる南北朝時代が長く続いた。 この状況は、北朝の隋が南朝の陳を滅ぼして中国を再統一するまで続いた。 

政治的には両大河流域は統一されたものの、経済的にはこの両河川は分離したままだった。 これを統一するため、610年には隋の煬帝の手によって大運河が完成し、黄河と長江が水運によって直結された。これにより、大運河と黄河との結節点にあたる開封が経済的に大繁栄し、五代から北宋にかけての都となった。

一方で軍事的に弱体な宋は黄河屈曲部に十分な勢力を伸ばすことができず、河套は遼の支配下に入り、銀川平野はタングート族の李元昊が興した西夏王国の本拠地となった。 歴史上、銀川平野に独立王朝が割拠したのはこれが唯一のことである。 

北宋が金に敗れ南遷すると、華北を支配するようになった金は中原の北端に近い中都(北京)に都を置き、以後の王朝は北京または南京に都をおくようになって、黄河流域に都は置かれなくなった。 元の時代には大運河がより直線的になるよう東側にルートが変更され、これによって水運の結節点でなくなった開封の経済的重要性は低落した。 

大河川と歴史、中国の場合は、将に歴史大絵巻で、興味は尽きません。  

(記事投稿日:2020/05/19、最終更新日:2024/06/01、#168)

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『運河のこと 1(大運河・京杭大運河 vs スエズ運河 vs パナマ運河)』ー南船北馬の中国ですが、この大型の閘門式運河はパナマより大先輩ー

2019-02-12 07:59:10 | 河川・運河

    『運河のこと 1(大運河・京杭大運河 vs スエズ運河 vs パナマ運河)

    ー南船北馬の中国ですが、この大型の閘門式運河はパナマ運河より大先輩ー    

 

英語の運河(カナル)も、日本語・中国語の運河の意味も、ほぼ同じで、『船舶の航行、灌漑、給排水などのために陸地を、切り開いてつくった人工の水路』、英語のカナルには『管』の意味もある。
世界的に有名な運河には、水平式スエズ運河と、閘門式(ロック式)パナマ運河がある。 規模と歴史から見ても中国の大運河・京杭大運河はスケールが違う。

 

スエズ運河は、地中海と紅海の海面水位に『差(潮汐による)』ほとんどないので水平にできた。 

 

パナマ運河は大西洋側(海底が急峻)と太平洋側(海底が遠浅)で、海面水位に『差(潮汐による)』が大きく、さらに、パナマ地峡の分水嶺、海抜95ⅿの壁があり、水平式はできなかった。  

 

スエズ運河の中間には、グレートビター湖など4ヶ所の湖があり、パナマ運河の中間には、ガトゥン湖があり、どちらも途中は湖上航行ができる。 ガトゥン湖水を閘門(ロック)に揚水ポンプ不要で流し込む省エネタイプ。 閘門(ロック)には、湖水又は、河川水を使う以外に手はなさそうです。

余談です。
パナマ第二運河の建設プランには、ダイナマイトの代わりに『核爆弾使用案』もあった。  理由はパナマ地峡の分水嶺、海抜95mのカットの大工事であった。

現運河建設当時には、超大型土木機械もなく、この地峡の分水嶺の掘削には、当初は、アフリカ系労働者で進めたが、かなり難航したので中国系労働者の採用で、やっと乗り切れたという背景があった。


ここで、今回の『大運河』と『京杭運河』のウエブ情報です。

 

 

『大運河 1,794㎞ 横Y字形

604年に即位した第2代煬帝は605年、黄河と淮河を結ぶ通済渠(つうさいきょ)を築き、これによって長江から長安に至る運河が貫通した。さらに、長江の南岸から杭州に至る江南河を完成させ、長江デルタ地帯と結びつけた。また608年には黄河と現在の北京付近を結ぶ永済渠を開いた。これは高句麗遠征に利するためのものであった。
大運河の建設には、多数の人民が徴発され、その負担が隋の支配への反発となり、早い滅亡の一因となったとされるが、これらの洛陽を中心点とした「横Y字形」の運河網が、長安・杭州・北京地方を結ぶ動脈となって中国の経済的統一に大きな役割を果たした。また後の元や明・清も運河の整備に力を入れ、現在においてもこれらの大運河網は活用されている。→ 元の大運河

 

『京杭大運河 2,500㎞』

京杭大運河(けいこうだいうんが)は、中国の北京から杭州までを結ぶ、総延長2500キロメートルに及ぶ大運河である。 途中で、黄河と揚子江を横断(河床勾配が小さいため閘門が不要?要調査)している。 戦国時代より部分的には開削されてきたが、隋の文帝と煬帝がこれを整備した。 これを、さらに元のクビライ・ハーンによって軍事上の要地である琢郡だった大都(後の北京)が結合して、中国統一の基盤が整備された。この元の運河は、その後の歴代王朝でもおおいに活用され、現在も中国の大動脈として利用されている。

 

中国の国土の広さと、歴史の長さと、『大運河』と『京杭大運河』それぞれのスケールには驚くばかりです。 この超大型運河は、当然ですが水平式と閘門式(ロック式)の複合タイプでした。 正確には、閘門式(ロック式)がはいっているので閘門式(ロック式)です。 

 

南船北馬といわれる中国ですが、この度の大型の閘門式(ロック式)運河については、パナマより中国が大先輩でした。 

                              (20190212纏め #072)

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