『「西では極悪人、東では神様」、平将門にみる日本人の 歴史感覚、理由は天皇系図の直系であったが「新皇」の名乗りが早すぎ!』
『アイヴァン・モリス(著)「高貴なる敗北―日本史の悲劇の英雄たち」にもなぜか、将門の記載ないが、東日本での人気 は凄い』
『日本の古代では、西の朝廷の影響か、東の将門人気なし、名誉回復のため調査してみたが!「判官びいき」の変形か』
早すぎた新皇を名乗った武士・平将門
ウエブ情報から引用
平 将門(903年? - 940年3月25日)は、平安時代の関東の豪族ですが、その由緒・血筋が凄い。 日本の第50代桓武天皇四代の皇胤であり、平氏の姓を授けられた高望王の三男の鎮守府将軍平良将軍の子。 下総国・常陸国に広がった平氏一族の抗漁争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国府を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称して東国の独立を標榜。朱雀天皇の朝敵となった。 しかし即位後わずか2カ月たらずで藤原秀郷・平貞盛らにより討伐された(承平天慶の乱)。 死後は怨霊になり、日本三大怨霊の一人として知られる。 後に御首神社・築土神社・神田明神・国王神社などに祀られる。
日本三大怨霊(やはり平将門の由緒・血筋が凄い);
- 菅原道真:天満宮・菅原神社(学問の神様)
- 平将門:神田明神など(除災厄除の神様)
- 崇徳天皇:白峯神宮(厄除け・縁切りの神様)
評価の東西差と変遷
歴史学者の川尻秋生は中世の貴族の日記に将門の名が現れるピークが大きく二つあり、一つは12世紀後半の源平争乱期、もう一つが14世紀前半の南北朝の動乱期だとしている。 いずれも大きな戦乱が起きた際にその先例として将門の名が挙げられており、中央の貴族にはいわばトラウマの様な形で将門の乱が伝承されていたとしている。
またこれとは別に中世以降、将門を祖先とした千葉氏を中心とした武士団により平親王や日本将軍として受け入れられ、逆臣的要素が払拭され、将門伝説が伝承されていった。 将門伝説は千葉一族の分布する場所に多く見られる。 また当時の史料から東国の民衆は疲弊していたことが窺えるが、その原因について環境史研究の成果から、異常気象などの天災ではなく欲にかられた為政者が起こした人災であったと考えられている。
ただし延喜15年(915年)に有史上日本最大の噴火とされる十和田湖の噴火が起こっており、東北一帯を火山灰が覆い京都でもまた扶桑略記に「昼間なのに太陽が月のようであり皆不思議がった」と記されており、降灰の影響で東国でも大規模な不作が発生した可能性も存在する。 そうした背景から反権力闘争を起こした将門は東国の民衆から支持を得ていたという説がある。 これらから必然的に将門の評価は東西で相反するものになる。
近世の徳川時代になると東国政権という意味から、初めて坂東を横領した将門に関心が寄せられた。 神田明神が江戸総鎮守となり、将門は歌舞伎や浮世絵の題材として取り上げられた。 将門伝説は文芸化と共に民衆の支持を受けたといえる。bその多くが将門を誇張し怨霊として描いており、滝夜叉姫の伝説などが生まれた。 将門を日本三大怨霊一つとするのもこの頃からと考えられる。 明治期には将門は天皇に逆らった賊とされ、政府の命により神田明神などの神社の祭神から外されたりした。 一方で民衆の信仰は厚く将門塚を保護するため、将門の怨霊譚が喧伝されたとされる。
戦後、天皇制に関する研究が解禁され国家の発展段階が理論的に議論されると、将門の乱を中世封建社会への前段階とみなす説が現れるが、のちにこの説は勢いを失う。 一方で社会には大河ドラマ (風と雲と虹と (1976年))で取り上げられた事で好意をもって広く受け入れられ、『帝都物語 (1987年)』により将門=怨霊・祟り神のイメージが定着した。
従前の将門研究は文献史料を中心とし歴史学と日本文学史が大きな潮流であったが、史料の少なさからこれらには限界が見られ、今後は考古学や在地社会研究との協業作業が期待される。 何故、少なかったかは、表題『「西では極悪人、東では神様」、平将門にみる日本人の歴史感覚、理由は天皇系図の直系であったが「新皇」の名乗りが早すぎ!』ではないでしょうか。
(記事投稿日:2024/12/27、#F282)
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