知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『大女優 原節子さんの凄さ 3(激動する時代に波乱万丈の人生)』『「東京物語」を見た、イタリアの若者たちが「聖母のような」と』

2022-06-23 20:05:12 | 映画

『大女優 原節子さんの凄さ 3(激動する時代に波乱万丈の人生)』

『「東京物語」を見た、イタリアの若者たちが「聖母のような」と』

写真家・秋山庄太郎氏は同い年のこの女優を撮りたくて、近代映画社へ入社)』 

表題のエピソード『聖母のような』と、もうひとつのエピソードがあります。 美人で、淑やかで、優雅なこの方、原節子さんは,知れば知るほどファンでシンパになります。

酒のこと、『ビール党』と自称していた自分が、大女優原節子さんが、『上品な酒豪でビール党』であったことを知り、原節子さんに、一層の親近感を覚えました。 

原節子さんには豪快なエピソードもあります。 写真家・秋山庄太郎さんは、鎌倉の原邸で、お酒とお馳走を頂いた後、泊まることになったそうですが『ふすま一枚隣に原節子さんがお休みと思うと、一晩中眠れませんでした』と言ったエピソードを読んだこともありました。   

原節子さんの波乱万丈の人生をリストしてみました。

  • 神奈川県橘樹郡保土ヶ谷町帷子(現在の横浜市保土ヶ谷区月見台)で、末っ子として生まれた。
  • 私立横浜高等女学校(現:横浜学園高等学校)に進むが、家庭の事情もあり、姉光代の夫、映画監督の熊谷久虎の勧めで映画界に入り、女学校を二年で中退した。 一年の時には、後に小説家となる中島敦から直接の授業を受けている。
  • 1935/04/15、日活に入社し、同年の日活映画『ためらふ勿れ若人よ』で映画デビュー。 同作で演じた役名「節子」は芸名の「節子」に。
  • 1936年、撮影中に見学にきたドイツのアーノルド・ファンク監督の目にとまり、初の日独合作映画『新しき土』のヒロイン役に抜擢される。

ウキペデイア情報から引用

映画の一シーン、大和邸でゲルダ(右、ルート・エヴェラー)に箸の使い方を教える光子(左、原節子)

  • 1937/03/12、下関から海路大連に、そこからシベリア鉄道で0326にベルリンに到着。 先に帰国していたファンクが一行を出迎え、アドルフ・ヒトラーはじめ、ナチ党幹部がこの映画をすでに見ており、皆から高評価を受けたと伝えた。 宣伝省の工作もあって、原はドイツ各地で大歓迎された。(ちなみにこの『新しき土』における日独合作映画の製作は、11/25に締結される日独防共協定の交渉と準備のための両国スタッフの往来をカモフラージュするためのものだったという。

ウキペデイア情報から引用

16歳の原節子が主演した日独合作映画。 日独防共協定がらみのキナ臭い匂いのする映画ですが、今となっては大変興味深い作品です。 伊丹万作が監督した版も存在しますが、こちらはドイツ版プレスブックなのでファンク監督版。 西洋人が見るエキゾチックな日本を感じるプレスブックですが、ここではとにかく原節子です。 表紙のポートレートは額装して飾りたいくらい初々しくて素晴らしいです。

 

  • 1946/09、資生堂のイメージガールに起用され、戦後初の多色刷りポスターが街中を賑わせた。
  • 1947/06、フリーの女優として独立。 フリー第1作は初の松竹出演作品となった『安城家の舞踏会』のヒットで、戦後のトップ女優としての地位を確立した
  • 1949年、『青い山脈』では女性教師役を演じ、同名主題歌とともに映画も大ヒットした。 その後、小津監督の6作品と、山本薩夫監督の7作品に出演を果たすことになる。 小津監督は女優としての原節子を絶対的に高く評価し、自らの作品に起用し続けた。
  • 1963/12/12、小津監督が没し、その通夜に出席したのを最後に原は女優業を事実上引退し、以降表舞台には一切姿を見せなくなった。
  • 晩年は鎌倉市で親戚と暮らしているとされ、元気であったということだけが伝えられた。

引退に関しては

「老いていく姿を人前に晒したくないと考えていた」

「撮影用のライトで白内障を患い、健康上の理由で引退を決意した」

「戦前の国策映画に出演していた自分の責任を強く感じており、けじめを つけるべきだと考えていた」といった様々な憶測が飛び交ったが、

「小津の死に殉じるかのように」公的な場から身を引いたとも言われ。

当時、その理由としてと

「畳の上での芝居がしづらくなったから」と語っていたそうです。

  • 201509/05、肺炎のため神奈川県内の病院で95歳の生涯を閉じた。 訃報は、没後約2か月半が経過した11/25にマスメディアで伝えられた。

2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・女優編」で日本女優の第1位に輝いたのが原節子さんでした。 やはり稀代の大女優です。  

(記事投稿日:2022/06/23、♯545)

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『美と破壊の女優と呼ばれるグランプリ女優・京マチ子さんの凄さ』 『女優は監督を選べないが、大勢の監督が選んだ、稀な女優の一人』

2022-06-20 19:57:56 | 映画

『美と破壊の女優と呼ばれるグランプリ女優・京マチ子さんの凄さ』

『女優は監督を選べないが、大勢の監督が選んだ、稀な女優の一人』

 

京マチ子さんは表題通りの美と破壊の大女優と呼ばれ、同時代の五大女優(桑野通子・原節子・山口淑子・高峰秀子・京マチ子)の一人、原節子さんとは両極端に位置づけられそうです。 北村匡平氏の『スター女優の文化社会学 戦後日本が欲望した聖女と魔女』作品社2017年9月発行があります。

 ウエブ情報から引用

この本を著した北村匡平氏のプロフィールです。

1982年山口県生まれ。 東京大学大学院学際情報学府修士課程修了、同大学博士課程単位取得満期退学。 日本学術振興会特別研究員(DC1)を経て、現在、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授。 専門は映像文化論、メディア社会学。
単著に『美と破壊の女優 京マチ子』(筑摩選書)『スター女優の文化社会学 -戦後日本が欲望した聖女と魔女』(作品社)、訳書に『黒澤明の羅生門 -フィルムに籠めた告白と鎮魂』(ポール・アンドラ著・新潮社)、共編著に『川島雄三は二度生まれる』(水声社)『リメイク映画の創造力』(水声社)など。

 

先ずは、その抜粋と引用です。

『彼女たちはいかにして「スター」となったのか。 なぜ彼女たちでなければならなかったのか。 原節子と京マチ子を中心に、スクリーン内で構築されたイメージ、ファン雑誌などの媒体によって作られたイメージの両面から、占領期/ポスト占領期のスター女優像の変遷をつぶさに検証し、同時代日本社会の無意識の欲望を見晴るかす、新鋭のデビュー作。


本書が描こうとしているのは、スター女優が「国民的スター」として存在することができた最初で最後の時期――映画と戦争が協働しながら理想の帝国を築こうとし、一つの国家が映画に描かれた民主主義を目指した時代の「国民的スター女優」である。 日本映画を支えてきた(…)スター女優たちの存在は常に国家の記号『ナショナル・シニフィアン(意味しているもの・表しているもの)』だった。 だが、社会の集合的欲望が作り出すさまざまなスター女優のなかで、なぜ彼女たちでなければならなかったのか。 この問いを突き詰めれば、現代社会を生きる私たちの意識とも直結する戦後の日米関係や日本人の美意識の系譜など、日本人の〈戦後〉を異なる視点から解明してくれる。 すなわち、彼女たちの身体イメージから、戦後日本のナショナル・アイデンティティが透けて見えてくるのである。集合的欲望としてスクリーンに投影されるスターこそ、潜在的な意識を顕在化させる文化装置――あるいは抽象的な欲望を具現化する媒体(メディウム)なのである。』

 と、紹介されています。

大女優の基準を、人々を惹きつけ、映画を中心の場として活躍し女優たちとすると、そこで挙がるのが原節子、田中絹代、高峰秀子です。 この三人が日本映画を代表する女優ではないかと思います。 映画が娯楽の頂点にあった昭和という時代に、映画界で活躍した女優・日本映画の『三大女優』と言われるのは、この三人でした。 三人の出演した映画の多くは、傑作として記憶に残る作品が多くあります。 この三人で、すぐに思い出すのは、特徴的なのが、原節子には小津安二郎、田中絹代に溝口健二、高峰秀子に成瀬巳喜男という巨匠監督が存在したことです。 

昭和の名女優だった高峰秀子さんは『日本映画の最もいい時期に、最もいい監督と仕事ができて幸せだった』と語ったそうです。 が、高峰秀子さんや原節子さんは、溝口映画には出る機会がなかった。 そんななか、京マチ子さんは、日本の四大巨匠と称される、黒沢明、溝口健二、小津安二郎、成瀬巳喜雄の四監督監の映画に主演している

昭和の戦前戦後を通じての二大女優についての著書を見て、ますますこの二人の女優の大ファンになりました。 日本映画史上の三大女優を、傘寿爺が自分勝手に決めれば、残る一人は岸恵子さんで、別の機会に調べます。

(記事投稿日:2022/06/20、#542)

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『高倉健さんと、香港の「ザ・ペニンシュラホテル」のこと』 『江利チエミさんと離婚のあとの、大スターと多くの女性たち』

2022-04-03 22:58:49 | 映画

『高倉健さんと、香港の「ザ・ペニンシュラホテル」のこと』

『江利チエミさんと離婚のあとの、大スターと多くの女性たち』

 

高倉健さんは、28歳の誕生日となる1959年2月16日に結婚した江利チエミさんとは、1971年9月3日に離婚しています。 この2人の離婚は、はっきりしない不可思議なものでした。 いろいろな情報は氾濫していますが、無口であった『健さん』を思い、そっとしておきたいと思います。 なぜならですが、『健さん』の自然の笑顔は、いつも江利チエミさんとのツーショットでした。

ウキペデイア情報から引用『国際情報社『映画情報』第31巻1月号(1966年)』

1972年の秋だったと思います。 香港の「ザ・ペニンシュラホテル」のロビーに、ネイザンロード側のエントランスから入ってきた高倉健さん(180㎝、71㎏、生涯ほぼ変動なし)が背筋をすっと伸ばし、ベージュ系のカジュアルな装いでした。

 

広い「ザ・ペニンシュラホテル」のロビーですが、ほとんどは欧米人と中国人で、その中に数人の日本人が居り、高倉健さんに気が付きました。 『アッ、高倉健さんだ!』それで、自分も本人を直に拝見できました。 更にこんな声、『江利チエミと離婚し、その傷心旅行でしょうか!』も聞こえてきました。 高倉健さんの香港滞在は、リージェントホテルか「ザ・ペニンシュラホテル」に宿泊されたようです。

 

高倉健さんの出演映画は、最初は1961年の「万年太郎と姐御社員」をはじめ、沢山見ましたが、やはり強烈な印象を受けたのは、

『鉄道員(ポッポや)』、『幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ』、

『単騎、千里を走る』、『ブラックレイン』、『居酒屋兆治』、『南極物語』、

『動乱』、『健さん』、『あなたへ』・・・、

等々、挙げればきりがありません。 生涯で、205本の映画に出演され、20曲を歌っておられますが、どれを見ても、聴いても、ただただ感激です。

 

ランキング好きな日本人は、日本の男優ランキングいろいろありますが、高倉健さんは必ず、トップ5には入っています。 自分は、三船敏郎と高倉健さんが双璧だろうと信じています。

 

前置きが長くなりましたが、表題の『江利チエミさんと離婚のあとの、大スターと多くの女性たち』に戻ります。 ウェブ情報からですが『健さん』の大ファンとしては、なんとしても真実を調べたく、とりあえず備忘録にしました、

 

離婚後、最初の相手は印相学の大家のバツイチ令嬢。 彼女は高倉を紹介してくれた俳優に「健さんと結婚するつもりなので、その節はよろしくお願いします」と挨拶までしていたという。

十朱幸代 印相学大家令嬢との破局から程なくして、十朱幸代との親密交際が噂されるようになる。高倉、40代半ばの頃だった。 高倉が十朱にエルメスのバッグをプレゼント、あるいはそば店でひそかに食事をするシーンが目撃されたこともあった。

賠償千恵子「2人が共演した映画『駅 STATION』(81年)を撮影している時、健さんはロケに毎回、夫婦役の倍賞さんと一緒に来るとスタッフから聞かされて、倍賞さんのマンションをカメラマンと一緒に張り込みました。 よそのビルから自宅をうかがうと料理を作っている倍賞さんの姿が見えて、壁に健さんがCM出演していた三菱自動車の大きなポスターが貼ってあるんです」

児島ゆき 不器用すぎるモテ男は、女優・児島美ゆきと熱烈交際、半同棲にまで至っている。83年から84年にかけてのことだった。ドラマ「北の国から」(フジテレビ系)にスナックのホステス役で出演した児島を見た高倉が気に入り、ドラマ共演者を介して電話がかかってきたのだという。

 小田貴 健康フリークで、ヒマがあれば運動をしていた彼も、『単騎、千里を走る』(2005年)あたりから年を感じさせ、遺作になった『あなたへ』(2012年)では老いが目立った。2014年11月10日悪性リンパ腫で死去、享年83。

死後、しばらくしてから、彼に養女がいたことが報じられた。 小田貴という女性だ。高倉の最後を見届けた唯一の人間。 40億円ともいわれる遺産を受け継いだ。

だが不可解なことに、彼女は高倉の死を福岡にいる高倉の実妹にも知らせず、死後2日で火葬してしまったのである。 実妹が、遺骨を分けてほしいというと、遺言で散骨してくれといわれたからと断っている。

 

高倉健さんは、すでにレジェンド・伝説の大スターです。 大ファンとして、これからも、『健さん』のことを続けて調べていきたいです。

(記事投稿日:2022/04/03、♯511)

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『チャップリンの凄さ 2(五・一五事件とチャップリン暗殺計画!)』

2021-10-26 08:26:10 | 映画

『チャップリンの凄さ 2(五・一五事件とチャップリン暗殺計画!

「美人女優ジュラルディン・チャップリンの父親の素顔は超男前」

「喜劇王を救い、遺産272億円の相続人になった日本人の正体は」

 ウエブ情報から引用

 

冒頭から余談です。

半世紀以上、昔の映画青年にとっては、偉大な喜劇俳優の『チャールズ・チャップリン』よりも、鮮烈な印象を受けたのは、映画『ドクトル‥ジバゴ』の主演女優(チャップリンの長女)『ジュラルディン・チャップリン』でした。

この映画では、唇、特に下唇のセクシーな『ジュリー・クリスティ』が、魅力的で、悪ガキ仲間では、意見が真っ二つ『ジュラルディン・チャップリン VS ジュリー・クリスティ』に割れたのをはっきりと覚えています。

ロシア文学は、大の苦手でしたが、この映画の原作『ドクトル・ジバゴ』は、ソ連の作家ボリス・パステルナークの小説、1957年出版。 ロシア革命の混乱に翻弄される、主人公で医師のユーリー・ジバゴと恋人ララの運命を描い た大河小説。 「戦争と革命の最中でも、人間は愛を失わない」内容でノーベル文学賞を授与された 。

表題に戻ります。

1927年に撮影されたチャップリンと高野虎市(右)=高野の遺族、東嶋トミエ氏所有の写真

 ウエブ情報から引用

  • チャップリンは五・一五事件で暗殺される恐れもあったのだが、直前の予定変更で辛うじてそれを切り抜けていた。 (高野虎市の一連の行動からチャップリンが察したと言われている。)

  • 喜劇王で有名なチャーリー・チャップリンが、来日中に暗殺されそうになっていました。

    チャップリンが来日していたのは1932年(昭和7年)5月。

    15日に首相官邸で行われる当時の内閣総理大臣犬養毅との晩餐会に出席する予定でしたが、急遽「相撲が見たい」というチャップリンが晩餐会をドタキャンしました。

    海軍の青年将校たちが武装して首相官邸に乱入し、犬養毅を殺害した「5.15事件」でした。

    チャップリンは日本に退廃をもたらす人物とされ、犬養毅と共に暗殺される計画が練られていましたが、突然相撲を見に行ったため逃れられたといいます。 

  • チャップリンの秘書として長年共に活動してきた高野虎市は、チャップリンの恋人との対立でチャップリンの元を去った後、日米親善のために活躍していた。

  • ファシズムを否定し、愛国心に批判的だったチャップリンは、戦後に赤狩りにあってアメリカから追放されている。

喜劇王チャールズ・チャップリンの遺産相続人となった日本人。 生涯で80本の映画に出演し、アメリカの大スターとなったチャップリンの総資産は、現在の日本円に換算すると約272億円! この莫大な遺産を、なぜ日本人が相続することになったのか?  その裏には、知られざる絆(きずな)の物語があった。

チャップリンは遺産を6人に分けるという遺言を残しており、その一人が日本人。なんと自分の映画に出演させるほどのお気に入りだったという。 その人物は、高野虎市氏。 映画撮影において完璧主義者だったチャップリンについていけず、辞めてしまうスタッフが続出するなか、高野だけは無理難題をこなしていた。

チャップリンは、高野について「私の全てだ」という言葉を残している。 大スターにそこまで言わしめる高野とは、いったいどんな人物だったのか?

益々、調べてみたくなる人物です。 高野虎市氏のこと。 この方『ジュラルディン・チャップリン』とも長い付き合いが続いていたようです。

 (記事投稿日:2021/10/26、#414)

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幅広い芸域で真のスーパースター、ジャン=ポール・ベルモンド』 「スタントマンなしのアクションをこなし大衆魅了した万能の役者

2021-09-16 08:46:33 | 映画

『幅広い芸域で真のスーパースター、ジャン=ポール・ベルモンド』

「スタントマンなしのアクションをこなし大衆魅了した万能の役者」

 

日経新聞(20210915)文化欄に、映画評論家・中条省平氏のエッセイ『ジャン=ポール・ベルモンドさんを悼む』が載っていました。 今まで、スーパースターとは、定義通り『他にまさって格段の人気・注目を集める,スポーツ選手や芸能人など』と思っていましたがこのエッセイを読んで考えを改めました。

 

最近は、俳優さんより大女優に、魅せられて、原節子さん・京マチ子さん・岸恵子さんをよく調べていましたが、俳優さんにも凄い人を見つけました。 これからは、ジャン=ポール・ベルモンドさんの映画をいろいろ見てみたいと思っています。

ジャン=ポール・ベルモンド

ウキペデイア情報から引用

 

先ずは、この『エッセイ』から抜粋・引用させて頂きます。

『間違いなく、第二次大戦後のフランス映画界における最大の男性スターだった。 フランス映画史全体を見渡しても、1930年代の名優、ジャン・ギャバンに比肩する偉大な男優だ。』

 

ここで脳の片隅をよぎるのは『アラン・ドロン』です。 フランスの映画俳優。1960年代から70年代にかけて、二枚目俳優の代名詞であった。 芸術映画から娯楽映画まで、数多くの作品に出演している。 『ジャン=ポール・ベルモンド』のようなスタントなしのアクションスターだったのかは不明です。

 

アメリカのマーロン・ブランドや日本の三船敏郎と比較すべき野生的な魅力にあふれた稀有の役者であるともいえるだろう。 出世作にして決定的な一作が「勝手にしやがれ」(60年)である。

ポスター「勝手にしやがれ」

 ウエブ情報から引用

 南仏で警官を射殺して、パリの街をさまよい、恋人に裏切られ死ぬチンピラの役だ。 文字どおり虫けらのような男だが、ベルモンドが全身で表現する軽快なニヒリズムは、新しい時代にふさわしい新しい人間像を表現していた。 文学の世界でいえばカミュの「異邦人」の主人公に匹敵する鮮烈さで観客に衝撃をあたえた。』

 

『おりから、ヌ―ベル・バーグを代表する偶像となる「気狂いのピエロ』に記録され、世界のファンが主人公の奔放な生と死のありように魅了された。 しかしベルモンドの俳優としてのスケールの大きさは、ヌーベルバーグの芸術的な映画でも、娯楽映画でも、その役柄を完璧にこなしてみせたことである。」

 

『なかでも、60年代前半にフィリップ・ド・ブロカ監督と組んだ「リオの男」「カトマンズの男」では、抜群の身体能力でスタントマンに頼らず自分自身で危険なアクション場面を演じ、大喝采を浴びた。 のちのS.スピルバーグの監督の「インディ・ジョーンズ」シリーズに影響を与えたとされる。』

 

『以後、スタントマンなしの手に汗握るアクション場面がベルモンドの主演映画の売り物となり、そこに独特のコミカルな味わいが加わって、70~80年代には、ベルモンドはフランスでもっとも興行収入を上げる役者となる。』

 

『一方。ベルモンドはもともと国立高等演劇学校出身の舞台俳優で、徐々に活躍の軸足を舞台に移し、69年には「シラノ・ド・ベルジュラック」を演じ、ガオ公表を博す。 92年には日本でも公演をはたしている。 剣劇場面など身体能力を発揮し、溌溂たる演技だった。』

 

『日本では、マンガ・アニメの「ルパン三世」の主人公が、ベルモンドがモデルにしたことが知られ、ルパン三世の声優・山田康雄がテレビでベルモンドの声を吹き替えていることから親しまれてきた。』

 

過去のスタント要らずのアクションスターと言えば、日本では千葉真一さん、香港ではジャッキー・チェンさん、米国ではスチーブ・マックイーンさん等が大勢いました。 ジャン=ポール・ベルモンドさんも、凄いスーパースター・アクションスターだったのです。 これからの『傘寿の余生』の映画鑑賞が楽しみです。

(20210916纏め、#383)

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