知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『知る喜び「信長の妹・お市の方の波乱万丈」(この兄にこの妹あり』   ―お市の方と徳川家康は婚約していた事実を見つけた安部龍太郎氏は凄い―

2023-01-30 07:32:57 | 歴史・日本

『知る喜び「信長の妹・お市の方の波乱万丈」(この兄にこの妹あり』

『お市の方と徳川家康は婚約していた事実を見つけた安部龍太郎氏は凄い』

 

20210418の日経新聞の文化欄で、標題の備忘録を作成することになった、安部龍太郎氏のエッセイ『家康とお市の方』を見つけました。 この興味あることが、今後の課題となり、国会図書館通いを再開したいと思いました。

 ウキペディアから引用 

お市の方の姫子・三姉妹、淀殿(長女・茶茶)、京極高次の正室(次女・初)、徳川秀忠の正室、(三女・江)、明正天皇は『江の孫』と、彼女らがあまりにも有名ですが、今回、彼女らの母についてもよくわかりました。 『この三姉妹の母・絶世の美女のお市の方は、凄さと、波乱万丈と、数奇な運命です。』

 

赤文字はエッセイから(タフな課題ですが時系列に並べると疑問も!)

数奇な運命に翻弄された戦国一の美女・お市の方の生涯

 

生年       天文16年(1547年)

浅井長政と結婚  永禄10年9月(1567年) 20歳(当時としては晩婚)

(長政は主家の六角氏の家臣・平井定武の娘と婚約してい たが、お市の方 との婚姻により破談となった。 二男三女を、二男は実子かどうか不明。)

6年後小谷城陥落 天正元年8月(1573年) 浅井長政自害

 

徳川家康と婚約  天正10年5月(1582年) 信長が親代わりで婚約

 

本能寺の変    天正10年6月(1582年) 信長横死

柴田勝家と結婚  天正  10年8月(1582年) 

(織田家筆頭家老・勝家と秀吉の申し合わせでお市の方は  柴田勝家と再婚することになった。 婚儀は岐阜城で行われ、勝家の居城・北ノ庄城に三姉妹と共に入った。)

 

徳川家康に進上物 天正10年8月(1582年)  お市の方から家康思いの証と

信長の義弟と表現 天正10年11月(1582年)ルイス・フロイス書簡に明記

 

勝家と共に自害  天正11年3月(1583年) 享年37歳

 

信長・秀吉・家康の三英傑はそれぞれ凄いと思ってきましたが、ここに、お市の方を加えたいほど、この方は凄い、信長の言いなりに政略結婚に振り回されただけとは思えず、それとも、『強い自分』の意志で生きたのか、分からなくなりました。

 

このエッセイの冒頭にこうありました。 以下は抜粋です。

『「信長の妹のお市の方と家康は婚約し、床入りもすませていました」 そんな話をすると、多くの方が怪訝な顔をされる。 中でも歴史に詳しい方は「冗談でしょ」と取り合おうともなさらない。

 

これまで戦国時代に関する万巻の書物が上梓されているが、2人の婚約について記したものは(管見の限り)1冊もない。 だから一笑に付されるのも致し方がないが、これは紛れもない事実である。

 

私がそうではないかと思い始めたのは、家康の重臣松平家忠が残した「家忠日記」の天正10年5月21日の記事を読んだからである。 安土城からもどった者から、信長が手ずからお膳を据え、麦こがしを引いて家康主従をもてなしたと聞いた。 (天正10年6月2日早朝・本能寺の変の12~13日前)

 

その上信長は引き出物に、帷子を2つずつ与えたが、その内1つは、女性用の紅の生絹(すずし)だったという。 しばらく考えているうちに、これは三日夜の餅と三日夜の絹ではないかと思い当たった。 

 

婿取り婚が一般的だった平安時代、男は女の家に忍んでいった。 そして一夜二夜と共に過ごし、三夜目になれば婚約が成立したと見なし、女の父が三日夜の餅でもてなし、女の着物を三日夜の衣としておみやげに持たせた。

 

信長がこれと同じ形で家康をもてなしたのは、お市の父親替わりとして婚約を祝ったものではないか。 そう考え、お市と家康の関係を証明する記録はないかと資料にあたるようになった。 

 

すると同じ「家忠日記」の天正10年12月11日の条に次のように記されていた。

「古府(甲府)へ出仕候、明日帰陣候への由、仰せられ候、越前芝田(柴田)所より、しちら30巻、は綿百杷に、鱈5本なり。 家康はこの頃、本能寺の変後の豊饒と対立していたが、和議が成立、帰陣することになった。

 

そんな折に、越前の柴田勝家のところから『御音信』があったのである。 家忠の敬語の使い方を見れば、贈り物をしたのは勝家ではなくお市の方だと分かる。 贈り物の、しちら30巻、は綿百杷で、綿入れをつくって寒さをしのいでという心遣い。 鱈は正月料理に欠かせない北陸の名産品である。 勝家との政略結婚後も家康に思いを寄せ、こうした贈り物もしたらしい。』

 

(お市の方の政略結婚を決めたのは信長で、信長は、この半年前に本能寺の変で横死、今回の結婚は大嫌いな秀吉が決めているし、勝家とは一年半余の結婚生活だったが、家康への贈り物の4ヵ月後には、勝家と一緒に自刃している。)

『信長の妹のお市の方と家康は婚約し、床入りもすませていました』ということよりもお市の方と3人の姫子・三姉妹に俄然興味が湧いてきました。

(記事投稿日:2021/04/19 、最終更新日:2023/01/30、#319)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『日本は凄い・日本人は凄い (石舞台古墳、天皇家と蘇我一族)』『蘇我入鹿は影の天皇とまで!(系図は稲目―馬子―蝦夷―入鹿)』

2022-11-20 14:49:00 | 歴史・日本

『日本は凄い・日本人は凄い (石舞台古墳、天皇家と蘇我一族)』 

『蘇我入鹿は影の天皇とまで!(系図は稲目―馬子―蝦夷―入鹿)』

『更に凄い系図、孝元天皇・・武内宿祢・・蘇我満智・・蘇我高麿―蘇我稲目』

 

今こそ『頑張らなければいけない、日本は・日本人は』ですが、やはり『古代日本は凄かった・古代日本人は凄かった』特に縄文人は、それに続く天皇家と蘇我一族についても知りたいことが沢山あります。

 

古墳時代では、古墳が権力の象徴のように見えますが、最近は、形と大きさだけで、権力の大きさ、判断はできないことが分かりました。 先ずは蘇我馬子の石舞台古墳です。 本来なら石室の上に土盛りがされていますが、今は石室の上部が出ており、石舞台などと呼ばれていますが政敵にあばかれたものです。 日本史上、最大の石室を持った蘇我馬子古墳を再現して頂きたいとものです。

 

先ずは、77トンと、60トンの石材を天井石に積み上げた、石舞台古墳・蘇我馬子古墳を、初めて見た時、特に石室内部を見上げた時には、その構造に驚いた記憶があります。

 

石舞台古墳全景

ウキペデイア情報から引用

 

石室側面

ウキペデイア情報から引用

 

石室出入口

 

ウキペデイア情報から引用

 

石室内部

 

ウキペデイア情報から引用

 

日本史には、弥生時代と飛鳥時代の間に、世界でも珍しく古墳時代と呼ばれた時代がありました。 古墳時代は、3世紀中頃 ~ 7世紀頃ですが。 およそ16万基は建設されたようですが、当時の日本の人口は500~600万人ですので、この古墳建設のエネルギーはどこから来たものか、楽しみな今後の課題です。 古墳と蘇我一族の凄さを少し調べました。

 

古墳の時期区分

時期       前期        中期       後期

        3世紀後半       4世紀末        5世紀末  

               ~4世紀後半      ~5世紀後半      ~7世紀

  

分布        近畿中央部       近畿中央部から    全国に拡大

                    各地へ

 

形態    近畿中央部は大規模な  前方後円墳巨大化    近畿中央部は大規模な

      前方後円墳       周囲に堀や陪塚       前方後円墳

 

内部   竪穴式石室       竪穴式石室      横穴式石室が

構造   粘土槨・木棺・石棺   木棺・石棺      全国に普及

 

実例   ホノケ山古墳      大仙陵古墳      石舞台古墳

     (奈良県)       (大阪府)      (奈良県)

      箸墓古墳        誉田御廟山古墳    藤ノ木古墳

             (奈良県)       (大阪府)      (奈良県)

 

主な   ヤマト政権成立       5紀の初めから       527年 磐井の乱

出来事                約1世紀の間、

                  倭の五王が中国の

                  に朝貢

    391 倭軍が百済・                  592年 推古天皇即位

    新羅を破る

 

石舞台古墳;権力者・蘇我馬子(墓説)は前方後円墳ではなく方墳

箸墓古墳(奈良県):卑弥呼の墓と推定されるが、邪馬台国北九州説?

磐井の乱;磐井の乱は、527年に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いる大和朝廷軍の進軍を筑紫君磐井がはばみ、翌528年11月、物部麁鹿火によって鎮圧された反乱、または王権間の戦争。

 

日本の古墳の形は大きく分けて前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳の4つに分類されます。 古墳時代は大和政権により墓制(埋葬の風俗・風習)が敷かれていてこの中で最も高いランクに位置付けられていたのが前方後円墳です。 前方後円墳は3世紀中ごろに成立した形で大王やその一族、大和政権と密接な関係の地方の有力首長が埋葬されています。 前方後方墳は3~4世紀に流行した形でルーツは東海地方西部と言われています。

 

前方後円墳は3世紀ごろから造られ始めて5世紀には岩手県から鹿児島県までに広まっていきます。 そして前方後円墳は7世紀初め頃には造られなくなります。 大きさは墳丘長、10mのものから数百mのものまであります。
大阪府大山古墳(仁徳陵古墳)の大きさは墳丘長、486mもあって面積ではエジプトのクフ王のピラミッドよりも大きいのです。

 

 身分の差と時期によって異なる古墳の種類  ウエブ情報から引用

古墳は、時代によって築造された、その形状が異なる。 前方後円墳や前方後方墳は古墳時代の初期から見られ、後期にあたる6世紀まで築造されていた。また帆立貝(ほたてがい)式古墳は、前方後円墳の変形あるいは円墳の変形であるが、5世紀を中心に築造されたものであった。 円墳と方墳は初期から古墳時代の終末期である飛鳥時代まで続くものである。 ちなみに最も多い形は円墳であり、全国に20万基ともいわれる古墳のほとんどを占める。


その他には、数が少ない特殊なものがいくつかあげられる。双方中円墳(そうほうちゅうえんふん)は前方後円墳の変形で、前方後円墳に方の段が取り付いたものであり、前期に見られたもの。一方、双円墳(そうえんふん)には後期の例がある。上円下方墳や八角形墳は時代が下った7世紀代に見られる形で、八角形墳は天皇陵と見られるものであった。

 

蘇我一族の系図

(日本史を選択せずとも知っていたこの系図、稲目―馬子―蝦夷―入鹿)

ウエブ情報から引用

 

政権争いの結果、政敵に破壊されてもこれだけ残った別名『石舞台』の巨石の方墳墓、大化の新政権は蘇我宗本家の旧政権否定から始まり、飛鳥京の上方部の馬子の巨大墳墓の破壊から開始された。

 

蘇我馬子墓、『説』、と言われるが三重中京大学のコンピュータ―画像解析で、石室内部の羨道の玄門上部に、馬と子の字の半分が読めた。大宝律令条文にも、『墳墓には碑文を立てよ』とある。

 

欽明天皇(571年2月没)の円墳が先で、蘇我馬子(626年5月没)は後で方墳。 これも馬子墓説の裏付けの一つ。 著名の考古学者曰く、『歴史に確実はないが、定説でいえば、・・・』、とあり、これは蘇我馬子の墓が確実に近い、定説と言えそうです。 蘇我一族の祖先の渡来人説調査は楽しみな課題です。             

(記事投稿日:2022/11/20、#602)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『海外の古文書が日本史の謎を解く(手紙・日記等)から解る 1』 『宣教師は植民地主義の拡大の中で、情報収集・報告機能を見事に』

2022-09-25 14:43:42 | 歴史・日本

『海外の古文書が日本史の謎を解く(手紙・日記等)から解る 1』

『宣教師は植民地主義の拡大の中で、情報収集・報告機能を見事に』

『日本の信仰・宗教は、自然崇拝の八百万の神から神道、外来宗教へ』

 

NHKスペシャルのタイトル『戦国~激動の世界と日本~第1集 秘められた征服計画 織田信長×宣教師』を見ました。 島国日本の中世・近世に興味津々、益々調べたくなります。

ウエブ情報から引用

『世界各地で「日本の戦国時代」に関する発見が相次ぎ、大航海時代のヨーロッパと日本が強く結びつき、地球規模で歴史を揺るがしていた事実が明らかになってきた。 第1集は、織田信長と豊臣秀吉の時代。 ヨーロッパの16世紀の文書が公開され、信長・秀吉と、来日したキリスト教の宣教師、そして背後にいたポルトガルやスペインとの深い繋がりが見えてきた。 それぞれの思惑と、熾烈な駆け引きを描く。』

 

『長篠の戦いで使われた織田軍の銃弾には海外(タイ)産の鉛が使われていた。 イエズス会の宣教師が本国からの指令を受け、布教の後押しを見返りに、国内で調達困難な鉛などの軍需物資を提供していたというのだ。 大航海時代の、死の商人といったところか。 イエズス会の記録によれば、こうした取引に(豊臣)秀吉は反対していたという。 宣教師たちは日本征服を企んでいるとにらんでいたからだ。 しかし、(織田)信長は意に介さず、彼らとの取引を続けた。 信長は鉄炮を量産させており、鍛造技術による革新的な日本製火縄銃の優位性と殺傷能力の高さに自信をもっていた。』

 

この番組を見て初めて知ったこと。

群雄割拠の日本の戦国時代は、覇権争いの内戦ではなく、世界史の大きな流れの中に巻き込まれていた。 織田信長や豊臣秀吉の野望と、ヨーロッパからやってきた宣教師たちの狙いが、それらが交錯して、激動の戦国時代に影響していた。

 

宣教師フランシスコ・カブラルが織田信長に接近、鉄砲の弾はタイ産

(こんな『ネットワーク・サプライチェーン』の存在に驚き)

今 世界各地で、戦国日本に関する発見が相次いでいます。 注目されているのが、日本にやって来た、キリスト教の宣教師たちの機密文書。 宣教師たちは、壮大な征服計画を、持っていました。 それが戦国日本の戦いや、天下統一への歴史を左右していた。 キリスト教カトリックの総本山から、戦国日本に関する貴重な史料の撮影が、特別に許可されました。

記録では1549年宣教師のザビエルが来日。
宣教師には、全世界をキリスト教の国にするという、大きな使命があり、達成するため、宣教師が極秘の情報活動をしていたことが、明らかになってきました。 各地の日本人キリシタンと協力して、広大な情報網を築き、戦国武将の動向を探っていた。 情報網を取りしきっていた、宣教師の名前はフランシスコ・カブラル。 ザビエルから数えて3代目の宣教師のリーダーでした。

カブラルは 布教の拡大を図るため、次々と戦国武将への、接触を試みていた。
その中で 最も有力な候補者と考えたのが、織田信長でした。 信長が天下統一に向け 大きく飛躍した、長篠の戦いです。
信長の鉄砲と 武田の騎馬の戦いだといわれてきましたが、鉄砲対鉄砲の戦いでもあったのです。何が両者の勝敗を分けたのか?

戦国時代の弾丸でした。 合戦当時の陣形や見つかった場所から、信長軍の鉄砲玉と推定されました。 帝京大学 客員教授 平尾良光は。この鉄砲玉の素材は 鉛。 当時の日本では極めて貴重な金属でした。 鉛の成分を解析した結果、信長軍の弾丸は、日本から4,000km離れた、東南アジアのタイ鉱山で、産出した鉛でした。

海外の鉱山まで伸びる,この鉛のネットワーク・サプライチェーンこそが、信長の勝因の一つだったのです。 イエズス会ローマ文書館に、宣教師の記録があり、カブラルは、布教を後押ししてもらうため、軍事物資である鉛の取引を、行っていたと考えられています。 

 

リスボン大学歴史センター准教授ペドロ・コレイア

信長への軍事支援と布教をカブラルは結び付けていた。 天下統一したければ、キリスト教を支持せよ。

日本に軍事物資を運んだのは、ポルトガルの交易船でした。(沈没船調査2014年 オマーン)沈没した交易船の調査で見つかったのは 大量の弾丸。
そして ヨーロッパで作られた鉄砲。 長篠の戦いで 宣教師の力を借りて、宿敵 武田家を打ち倒した信長。

 

織田信長がキリスト教を保護してまで南蛮貿易を続けた4つの理由

南蛮貿易とキリスト教の布教がセットだった

火薬の原料になる輸入品「硝石」をおさえたかった

南蛮貿易で上がる莫大な利益

寺社勢力をけん制したかった

この後の、日本の中世史・戦国時代を見ると、織田・豊臣・徳川時代は、まさに『織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座して喰らふは 徳の川』という落首のように、織田信長の『先見性・先取性』には驚くばかりです。

      (記事投稿:2022/09/25、 #576)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『脳医学者中田力氏の「卑弥呼」と文学博士義江明子氏の「卑弥呼」 2』 『卑弥呼は「魏志倭人伝」から「記紀」の天照大神に比定できる可能性』と

2022-09-19 18:17:29 | 歴史・日本

『脳医学者中田力氏の「卑弥呼」と文学博士義江明子氏の「卑弥呼」 2』

『卑弥呼は「魏志倭人伝」から「記紀」の天照大神に比定できる可能性』

『五つの風土記(常陸・播磨・出雲・豊後・肥前)と逸文からも、検証を』

 

脳医学者 中田力氏の『日本古代史を科学する』からの卑弥呼

『「魏志倭人伝」によれば、卑弥呼が活躍したのは三世紀半ば、240年前後のことである。 推定誤差を考慮しても数理考古学的解析よる神武天皇の即位以前であることは間違いなく、「記紀」にもある天照大神が卑弥呼に比定できる可能性が極めて高い。 邪馬台国が宮崎平野にあったことと併せて考えれば、「記紀」に書かれた高天原の神話は邪馬台国を中心として始まった大和朝廷成立までの初期の歴史をデフォルメしたものとも考えられる。』 

『天照大神は禊(みそぎ)で生まれた神である。 禊とはイザナノミコトが火の神「カクツチ」を生んだ時の火傷がもとで死んだ妻「イザナノミコト」を追って黄泉の国を訪れ、その変わり果てた姿を見て逃げ帰った時、汚れを落とすために行った清めの作業である。 様々な神が生まれたが、左目から天照大神、右目からツクヨミノミコト、そして鼻からはスサノオノミコトが生まれた。』 

『やがて高天原は天照大神に、黄泉の国はスサノオノミコトに受け継がれることになる。これらの話は、高天原と黄泉の国とが現存した二大勢力であったことを意味する。 黄泉の国が出雲に比定されているように、高天原を卑弥呼の邪馬台国に比定すれば、天照大神とスサノオノミコトの競い合いの神話はまさに、大和朝廷(九州の)と出雲の間に起った歴史そのもの記載したものといえる。

 

文学博士 義江明子氏の『つくられた卑弥呼』の卑弥呼

ウエブ情報から引用

『邪馬台国の女王卑弥呼。 日本人なら誰もが知っているこの女性について、教科書で「すぐれた巫女であり、人に姿を見せることもまれで、弟が彼女を補佐して実際の政治を行っていた」と習わなかっただろうか。 しかし、この卑弥呼=神秘的巫女説は、実は近代に創られたものである。 本書は『魏志』倭人伝のほか、『風土記』『古事記』『日本書紀』の伝承を、木簡等の新出史料や古代女性史研究の成果をふまえて丁寧に読み解き、卑弥呼を“戦う”王ワカタケルと同種の、政治的実権をもった王として位置付け直す。 卑弥呼に象徴される古代の女性首長たちの実像を明らかにし、現在の女帝論議にも一石を投じる衝撃の論考。』 

つくられた卑弥呼<女>の創出と国家

本のタイトルを見ると、ジェンダーギャップを意識できる時代になったなと思います。 以下、今後の勉強のために、ウエブ情報「ヒストリア」の抜粋・引用の備忘録です。 

『この本では、今まで、だれもが持っている卑弥呼についてのイメージは『すぐれた巫女であり、人に姿をみせることもまれで、弟が補佐して実際の政治を行っていた。』そんな卑弥呼像に、『実際はどうだったのか』を問いかけています。 

魏志倭人伝だけにとらわれず、広く古代日本の女性社会へ目を向け、卑弥呼以外にも多くいた女性首長たちの残像を探り、律令以前の日本社会を女性の立場から見つめなおしています。

 

第一章『風土記の女を読む

『風土記』の世界には、男の土蜘蛛と、女の土蜘蛛がいた。  土着勢力は土蜘蛛にせよ、女神にせよ活躍内容に男女の別はほとんどなく、女性も男性も同じように、抵抗したり、恭順したり、争ったり、占ったり(当時の政治)している。 古墳の墳墓主からもそれはある程度裏付けられており、武器を副葬した女性墳墓も多くある。 ただそれでも、女性の活躍が「巫女」とだけに限定されがちなのは魏志倭人伝で、卑弥呼が「巫女」であり、男弟が政治を助けた、とあるため。

 

第二章『魏志倭人伝

いままでなにげなく現代語訳のまま理解していた魏志倭人伝ですが、著者いわく、そこには相当、男性視線の中国人観があるそうで(当時の中国は既に徹底した父系社会)書かれている倭人伝の記録には、隠された実像が多くあるようです。 

男女の別なく集まったという「会同(集会)」一夫多妻であったのに「妬忌(嫉妬)しない女たち」そこには父系社会視点からでは決してわからない新しい邪馬台国が見えてきます。(女たちが嫉妬しなかったのは、要は、一夫多妻でなく、多夫多妻だったからということみたい) 

奈良時代以降の戸籍の分析をもっても、八世紀ころまでの古代日本は、母方父方双方と密接にかかわりを持つ双系社会であり、父系でたどろうとする戸籍の手法は現実とだいぶズレがあり、分析上つじつまの合わない点が多くあるそうです。

そう言われてみれば、平安時代も、妻問い婚。 女性の貞操についてはある程度うるさいものの、子供は母方で育つし、人妻や、年頃の姫のところに忍び込んで、いったりし、源氏物語の主人公はいまから考えるとずいぶん勝手なことをしている。 

そこまで時代をあげなくても、万葉集の中で皇族・豪族の姫君たちは、おおっぴらに不倫めいた歌をたくさん残しているし、・・・ちょっと説得力あって面白すぎる。 

中世以降、日本も完全な父系社会になるのですが、それ以前の古代という世界を、根本から見つめなおすのに、非常に必要なのに、忘れられがちな視点を、この本は教えてくれます。

話を卑弥呼に戻すと、ヒミコとワカタケル(雄略天皇)を比較して、巫女と武王という、まったく違うイメージのこのふたりが、中国や朝鮮の外交使節にはともに直接姿を見せないでいるのに着目して、ヒミコもワカタケルと同じように、戦う王だった、可能性を指摘しています。 

また、男弟が卑弥呼の政治を助けた、ということを指す、「佐治」というキーワードを著者は、稲荷山鉄剣の銘文と比較して、「佐治」はあくまでも政治を補佐する意であり、卑弥呼自身が政治を行わず、巫女に専念したことにはならない、としています。 他に、卑弥呼に給仕したという「男子一人」が夫であったかもしれない可能性を指摘。

 

第三章の「飯豊王の物語を読む

飯豊青尊(いいとよのあおのみこと)は雄略天皇の次の清寧天皇が跡継ぎの子がなく亡くなったときに、雄略の父・允恭の兄である、履中天皇の娘である飯豊王が、甥である顕宗(弟)仁賢(兄)が即位するまでの間政務をつかさどった、とされる女性で、推古天皇以前の女帝として古代史上カウントされることもある方なのです。

このお方。 日本書紀に「与夫初交(まぐわい)したまう」としっかり書かれてしまっている、気の毒な方なのです~(いいですか~宮内庁)女の道は知ったけれど、男はもういらない、という続きになっていて、結婚はされなかったようなのですが。 伝承の世界の方とはいえ・・・現実味のある表現で書かれていてビックリ。 

とはいえ、卑弥呼との対比として考えると、卑弥呼も「与夫初交」しなかったとはいえない? 古代最後の女帝、孝謙・称徳天皇の道鏡の例もあるし。(著者も対比しています)

推古天皇も寵臣、三輪逆(みわのさかし)と、夫・敏達天皇の死後とはいえいい関係だったような記述があるし。

  

第四章は、「ジェンダー記号としてのヒメを読む

主に、ヒメミコのヒメについて分析していて、律令以前は王、と表記され、ミコと読み、(額田部王、長屋王など)男女の区別がなかった、皇族の御子たちが、律令以後、二世が親王(皇子)、内親王(皇女)。三世以降が王、女王、と表記されるようになったことをふまえ、ヒメミコのヒメはそれまで同じミコだった、女性のミコたちを、区別するためのジェンダー記号だった、としています。 

もっと、古来の、ある印象の、ヒメですが、オトメ、イラツメ、といしても使われる女性としての、メ、という接尾語は、律令以後、政治・軍事への参加から女性を排除する意味でいっせいに付けられるようになった、と。 

著者も、ヒコ(彦)=男性、ヒメ(姫)=女性、の人名タイプが古くからあったことを完全に否定しているわけではないのですが、この男女の使い分けが確立したのは、記紀や風土記が編纂された七~八世紀ではないか、と推定しています。 神話に出てくる神様たちの彦、媛についても慎重に見直す必要がある、としていますから、ちょっとすごいです。

他にも、卑弥呼ではないか、と言われるヤマトトトヒモモソヒメ(漢字変換大変なので省略)のことも出てきますし、日本書紀が卑弥呼に比定している神功皇后も出てきますし、卑弥呼好きの方、必読です。 

長々と書きましたが、今回、私がいちばん読んでよかったのは、彦=男性、という考えを疑う視点において出てきた、「アメノタリシヒコ」についての考察。 

いわゆる聖徳太子が派遣した遣隋使が倭王について「姓は、阿毎(アメ)字(あざな)は、多利思比弧(タリシヒコ)号して、阿輩鶏弥(オオキミ)」「王の妻は、鶏弥(キミ)と号す」と、語ったと隋書に記されている、有名なこの一節。

この一節のおかげで、いわゆる「聖徳太子は天皇だった!」とか「推古天皇は実際に政務をとっていない」とかいわれる要因になっていて、中国の史書もあてにならないな、などともやもやしていたのですが、今回、明確な答えが、この本にありました。

つまり、彦=男性ではない。 ヒコ、は日の御子、の意でヤマトにおける王たちの呼称として古くからあり、男女の区別なく使われた。「王の妻」については、隋は倭王の使者に、称号を訊ねたのであり、王の妻の称号を、遣隋使は答えたのにすぎないと。 これまでの、父系社会である中国視点というのを考えて読み合わせると、一貫した流れがあって、無理がないのが解釈としてよい。 

ひとつの考古資料や文献の一文から歴史的事実のカケラを拾い出そうとするのではなく、時代全体を鳥瞰図のような広い視点で眺め、その時代の価値観を見出し、その価値観によって作られたであろう、考古資料、文献を分析する。 史学の世界では、そういった視点が最近は重要視されているみたいです。 

時代全体をみる、となると扱う年代が長すぎて、素人にはなかなか難しい世界ですが、こういった視点で書いている歴史の本は今までと違って新鮮で面白いです。 何冊か、こういった本を読んでみようと思います。』 

古代の王朝、邪馬台国・出雲王朝・大和王朝説には興味が尽きません。

(記事投稿日:2022/09/19、#573)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『脳医学者中田力氏の「卑弥呼」と文学博士義江明子氏の「卑弥呼」1』 『卑弥呼は「魏志倭人伝」から「記紀」の天照大神に比定できる可能性』

2022-09-18 22:47:58 | 歴史・日本

『脳医学者中田力氏の「卑弥呼」と文学博士義江明子氏の「卑弥呼」1』

『卑弥呼は「魏志倭人伝」から「記紀」の天照大神に比定できる可能性』

五つの風土記(常陸・播磨・出雲・豊後・肥前)と逸文からも、検証を』

 

日本古代史最大のミステリーと言えば、「邪馬台国論争」、中国では魏・呉・蜀の三国が覇権を競いあった三世紀に、日本列島に存在したとされる邪馬台国だが、その正確な位置はまだわかっていない。

 

日本古代史では、『邪馬台国』の存在を、いまだに研究と推論が続いています。 中国の魏志倭人伝(*)によってのみ、現在にその存在が伝えられていることから、卑弥呼などは実在していたかどうかについても議論されています。 浅学菲才の傘寿爺でも興味津々で勉強になります。

(*)魏志倭人伝は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称 

 

同書によると、邪馬台国の存在が推測されている年代は、約3世紀~4世紀です。 この時期の日本は『空白の4世紀』または『謎の4世紀』などと呼ばれており、その実態が明らかになっておりません。 文化的に大きな変化が起こっていたことは想像ができますが、未だに大きな謎が『邪馬台国の消滅と大和朝廷の成立の経緯』です。

 

この度は、表題の『脳医学者中田力氏の「卑弥呼」と文学博士義江明子氏の「卑弥呼」』との比較で調べてみました。

 

日本の歴史が始まるころの人物『卑弥呼』の実態はよく分っていないようです。

  名前:   卑弥呼

  配偶者:  未婚

  子女:   台与(卑弥呼死去後、国を治める)

  埋葬場所: 諸説あり(後に記述)

  生年/生地/没地は不明

 

脳医学者 中田力氏の『日本古代史を科学する』の中の卑弥呼

ウエブ情報から引用

中田力氏の略歴

  • 1976年 東京大学 医学部医学科 卒業。
  • 1992年 カリフォルニア大学デービス校 脳神経学 教授。
  • 1996年- 新潟大学脳研究所 脳機能解析学 教授。
  • 2002年- 新潟大学脳研究所 統合脳機能研究センター長(併任)。

著書(表題に関連)

  • 『日本古代史を科学する』
  • 『科学者が読み解く日本建国史』

 

中田氏は、複雑系脳科学者としての立場から、「条件設定と全体像での評価」という複雑系科学における検証作業の方法論を日本古代史に応用すると宣言する。

 

複雑系科学においてまず考えなくてはならないのは「初期条件の設定」である。 

その初期条件の設定として信頼できるのは、やはり魏志倭人伝と考えました。その成立の過程から見て信憑性が高いからです。

 

距離の表現では一里は60mであり、方角は上級官吏の記録ですからほぼ確かでしょう。 実際に確かめた部分と伝聞の部分を分け、そこに宇宙考古学による地形観察を重ねると、国々の位置と邪馬台国への道筋が浮かんできます。 著者は、邪馬台国を宮崎平野の日向灘付近と特定しました。

 

さてそこからは記紀の検討です。 高天原(邪馬台国)に対して素戔嗚尊の黄泉の国(出雲)の勢力があり、博多の奴国(綿津見神の国)は金印で実在が確認できます。 それらのルーツをDNAで解析すると、朝鮮半島ではなく、中国本土の上海付近と共通し、イネで調べても同様な結果でした。卑弥呼も魏の金印を貰いました(未発見)。 知識レベルは高く、中国本土と深い繋がりがあったのです。

 

王族が海を越えて未開の地に渡ったとすれば、それは国が滅亡したときしかありません。

BC473年に越によって滅亡したとあります。 呉の王族の集団が渡海し、五百年の歳月をかけて奴国を興して定着し、本土に朝貢したのです。 魏志倭人伝にも、倭人自ら呉の末裔と称したとありました。 さらにBC210年に秦の徐福が、若き貴族ら3千人を率いて渡来し、邪馬台国を建国しました。足場を固めた四百五十年後に卑弥呼が魏に朝貢し、邪馬台国は奴国を抜いて倭の宗主国となったのです。

 

出雲もまたBC334年、楚に滅ぼされた越の貴族の末裔でした。 彼らはもと呉の民でもあります。 渡海してみると、すでに呉の王族の建てた奴国があったため、さらに日本海沿いに進んで出雲、高志の地にたどり着きました。この仮説も染色体の解析で裏づけられます。

 

そこで韓半島にいた商王朝の祭祀を伝える貴族を探し出して迎えました。 素戔嗚尊の家系を継いで婿入りした大国主命です。 呉越の難民が弥生時代の出発点となったのです。 国譲りが平穏に行われた所以でした。 神武東征で大和王朝が誕生します。 そのとき商王朝の文化である祭祀の礼が天皇家に伝えられました。 神話にある血縁関係もほぼ納得できるのです。

 

先ずはこの方の、古代の王国・王朝史は勉強になりました。 今後の課題の参考にします。

①呉(姫姓周)の滅亡→奴国、

②徐福(姫姓周)→邪馬台国(日向)、

③越の滅亡→出雲(殷周の祭祀)、

④国譲り(周の王族と神官の融合)神武東征、

⑤神武王朝(周:王族父系、神官母系)、

⑥崇神王朝(新王朝、旧王朝系隼人の反乱)、

⑦応神王朝(神武王朝の復活:神官父系、王族母系)、

⑧継体王朝(王族父系、神官母系)。

 

文学博士 義江明子氏の『つくられた卑弥呼』の中の卑弥呼 

ウエブ情報から引用

義江明子氏の略歴

  • 1971年 - 東京教育大学文学部史学科卒業
  • 1987年 - 「日本古代の氏の構造」で都立大文学博士
  • 2000年 - 帝京大学文 学部教授
  • 2017年 - 退任、名誉教授

著書

  • 『日本古代の祭祀と女性』吉川弘文館〈古代史研究選書〉、1996年11月。
  • 『古代女性史への招待…“妹の力”を超えて』吉川弘文館、2004年10月。
  • 『つくられた卑弥呼…“女”の創出と国家』〈ちくま新書〉2005年4月。
  • 『日本古代女性史論』吉川弘文館、2007年2月。
  • 『古代王権論 神話・歴史感覚・ジェンダー』岩波書店、2011年
  • 『日本古代女帝論』塙書房、2017年
  • 『推古天皇遺命に従うのみ群言を待つべからず』ミネルヴァ書房、2020年
  • 『女帝の古代王権史』ちくま新書、2021年

 

人前に姿を現すことも稀な神秘的な巫女だったのか? 私たちに強く根ざしたこのイメージは、実は近代に創られたものであり、歴史の真実からは大きく異なっている。 古代の女性支配者に聖なる部分を担わせ、男が担う世俗の政治・権力闘争の世界と対置させる構図である。 本書は、『魏志倭人伝』『風土記』『古事記』『日本書紀』さらに木簡史料なども丹念に読み解きつつ、卑弥呼は政治的実権をもった王として位置づけなおし、さらには卑弥呼に象徴される古代の女性首長たちの実像を明らかにする。

 

卑弥呼の生涯から比定できる卑弥呼は日本国(倭国)国王

  • 出生は不明だが、40年続いた倭国大乱の後、189年前後に卑弥呼と呼ばれる女子が倭国の王として即位
  • 『鬼道』をもって大衆をまとめる
  • 何度か新羅に使者を派遣する
  • 232年に倭国が新羅に侵入し、新羅の王都である金城を包囲、しかし、新羅の抵抗に遭い、1000人以上の倭軍の兵士が亡くなる
  • 238年から239年に卑弥呼直属の家来・難升米を魏に派遣し、金印と銅鏡100枚を皇帝から授かる
  • 242年から248年の間に卑弥呼死去、死因は不明 
  •  

卑弥呼の時代の倭国は

卑弥呼の時代の倭国は、大変荒れていたようです。 『魏志の倭人伝』によると、当時の倭国は卑弥呼が即位するまで男性が代々王の座を受け継いでいたところ統治が上手くいかず、倭国の中で大変な騒乱が起こっていました(倭国大乱)。 しかし、倭国の中の邪馬台国から卑弥呼が即位すると、鬼道などを用いることで倭国の情勢は安定し、中国にも朝貢を行っていました。 卑弥呼の死後一度男性の王を立てると再び騒乱が起こりましたが、卑弥呼の後継者たる女性の国王を立てると、安定したのです。

 

卑弥呼が治めていた国「邪馬台国」

邪馬台国は、卑弥呼が居住していた倭国の都の国のことを指します。 『魏志の倭人伝』には当時の朝鮮半島にあった国から邪馬台国に至る道程が記されていますが、それによれば、邪馬台国は朝鮮半島から東に1000里ほど海を渡ったところにあったとされています。

 

邪馬台国の政治には、古代日本と同じように租税や賦役の制度が存在していました。 また、男子はみな身体に入れ墨を施し、髪型も男子は髷、女子はざんばら髪のように特殊な風俗感もありました。

 

当時卑弥呼は、『朝貢』という形で魏に使いを送っていました。 近世の日本でも朝貢貿易を時代がありましたが、朝貢とは『その周辺の国の中で最も権力のある国に対して周辺諸国が貢物を献上する』という意味を指します。これは、権力のある国に対して貢物を献上してその返礼を受けることで外交秩序を築くという目的があります。 やはり自分の国が外国から攻められてしまっては大変ですから、朝貢することで外交を築き上げようと卑弥呼は思ったのです。 

 

卑弥呼は占い「鬼道」を使って国を統治

卑弥呼は鬼道を使えたという記録も卑弥呼は『鬼道』という呪術的なものを使って国を治めていたことは有名な話です。 しかし『鬼道』という言葉は書物上の記述にすぎないため、その言葉が具体的にどんなものを指しているのかには諸説あります。 道教と関係があるのではないか、邪術ではないか、はたまた神道ではないか…。

 

一番の有力説としては、鬼道を『呪術』と解すことで、卑弥呼はシャーマン(超自然的存在)であり、男性が行う政治を霊媒者として補佐していたのではないか、という考えがあります。 これによれば邪馬台国は政治と神事の二元的な政治が行われていたということになり、その後の古代日本政治にもつながるのです。

 

人前に一切姿を見せない秘密主義

卑弥呼は女王に君臨すると、部屋の中にこもるようになり、そこで鬼道を操っていました。人前には一切姿を見せず、会うのは実の弟と、食事を運ぶ給仕1人だけだったと伝えられています。

そのため、女王となってから卑弥呼を見た人は極端に少なかったようです。また、卑弥呼の住む宮殿は楼観(物見櫓のようなもの)や城柵で囲まれており、建物内に入ることができる人も限られていました。

 

お墓の大きさは150m!100人の奴婢を殉葬、箸墓古墳

卑弥呼は240年代に亡くなった説が有力であるとされていますが、卑弥呼が亡くなった際、約150mの大きさにもなる墓が造設されたという記述があります。この時代は埴輪が導入される前であったので、卑弥呼の埋葬とともに奴婢100人ほどを一緒に殉葬しました。

 

卑弥呼が埋葬されたとされる墓は大きな塚であり、円墳や前方後円墳のような形をしていたのではないかと推測されていました。これらの情報をもとに奈良県桜井市の「箸墓古墳」が卑弥呼の墓なのではないかという説が挙げられています。

 

卑弥呼の功績

功績1「魏に使いを送り、金印や銅鏡100枚などを授かる」

卑弥呼は238年に自らの臣下である難升米を魏へと派遣しました。 この際に魏の王様から親魏倭王の金印と銅鏡100枚を授けられます。

功績2「70年以上に続いていた王座を巡る戦争を終わらせた」邪馬台国

 

 

卑弥呼にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「卑弥呼は日本の神様、天照大神である」説

都市伝説・武勇伝2「卑弥呼は天皇の妻、神功皇后である」説神功皇后

都市伝説・武勇伝3「卑弥呼の墓は箸墓古墳である」説

 

卑弥呼の生涯歴史年表

189年「卑弥呼、女王となる」

232年「新羅侵入」しかし軽騎兵率いる新羅王の前に倭軍は太刀打ちできず、千人もの捕虜と死者を生んだといいます。

239年「卑弥呼、難升米を初めて魏に派遣」魏から「親魏倭王」と書かれた金印と銅鏡100枚を皇帝から賜り、これにより、魏より倭国の女王であることを承認された。

240年「帯方郡より使者が倭国に訪れる」前年の派遣の返答として、魏の使いが倭国を訪れ、この時卑弥呼は皇帝からの詔書や正式な印綬を賜った。

247年「狗奴国との戦い」邪馬台国と敵対していた倭人の国、狗奴国との戦が始まり、この時、卑弥呼は載斯や烏越を帯方郡に派遣し戦の開始を報告。 一方で魏は張政を倭に派遣、239年に初めて派遣された難升米に詔書や黄幢を授与しました。

240~249年「卑弥呼死去」

卑弥呼が亡くなり、これにより男性の王が即位しますが、ここで再び内 乱が起き、その後卑弥呼の後継者である壱与という女性が即位することで治まったと言います。

287年「倭軍が新羅に攻め入る」

当時倭国は食料に困窮していたため、新たな土地を探そうと新羅に郡を 派遣、新羅を火攻めにし、この時新羅兵を千人程度捕虜としたと言われています。

 

古代の四王朝(神武・崇神・応神・継体)説には興味が尽きません。

(記事投稿日:2022/09/18、#572)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする