『脳医学者中田力氏の「卑弥呼」と文学博士義江明子氏の「卑弥呼」1』
『卑弥呼は「魏志倭人伝」から「記紀」の天照大神に比定できる可能性』
『五つの風土記(常陸・播磨・出雲・豊後・肥前)と逸文からも、検証を』
日本古代史最大のミステリーと言えば、「邪馬台国論争」、中国では魏・呉・蜀の三国が覇権を競いあった三世紀に、日本列島に存在したとされる邪馬台国だが、その正確な位置はまだわかっていない。
日本古代史では、『邪馬台国』の存在を、いまだに研究と推論が続いています。 中国の魏志倭人伝(*)によってのみ、現在にその存在が伝えられていることから、卑弥呼などは実在していたかどうかについても議論されています。 浅学菲才の傘寿爺でも興味津々で勉強になります。
(*)魏志倭人伝は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称
同書によると、邪馬台国の存在が推測されている年代は、約3世紀~4世紀です。 この時期の日本は『空白の4世紀』または『謎の4世紀』などと呼ばれており、その実態が明らかになっておりません。 文化的に大きな変化が起こっていたことは想像ができますが、未だに大きな謎が『邪馬台国の消滅と大和朝廷の成立の経緯』です。
この度は、表題の『脳医学者中田力氏の「卑弥呼」と文学博士義江明子氏の「卑弥呼」』との比較で調べてみました。
日本の歴史が始まるころの人物『卑弥呼』の実態はよく分っていないようです。
名前: 卑弥呼
配偶者: 未婚
子女: 台与(卑弥呼死去後、国を治める)
埋葬場所: 諸説あり(後に記述)
生年/生地/没地は不明
脳医学者 中田力氏の『日本古代史を科学する』の中の卑弥呼
ウエブ情報から引用
中田力氏の略歴
- 1976年 東京大学 医学部医学科 卒業。
- 1992年 カリフォルニア大学デービス校 脳神経学 教授。
- 1996年- 新潟大学脳研究所 脳機能解析学 教授。
- 2002年- 新潟大学脳研究所 統合脳機能研究センター長(併任)。
著書(表題に関連)
- 『日本古代史を科学する』
- 『科学者が読み解く日本建国史』
中田氏は、複雑系脳科学者としての立場から、「条件設定と全体像での評価」という複雑系科学における検証作業の方法論を日本古代史に応用すると宣言する。
複雑系科学においてまず考えなくてはならないのは「初期条件の設定」である。
その初期条件の設定として信頼できるのは、やはり魏志倭人伝と考えました。その成立の過程から見て信憑性が高いからです。
距離の表現では一里は60mであり、方角は上級官吏の記録ですからほぼ確かでしょう。 実際に確かめた部分と伝聞の部分を分け、そこに宇宙考古学による地形観察を重ねると、国々の位置と邪馬台国への道筋が浮かんできます。 著者は、邪馬台国を宮崎平野の日向灘付近と特定しました。
さてそこからは記紀の検討です。 高天原(邪馬台国)に対して素戔嗚尊の黄泉の国(出雲)の勢力があり、博多の奴国(綿津見神の国)は金印で実在が確認できます。 それらのルーツをDNAで解析すると、朝鮮半島ではなく、中国本土の上海付近と共通し、イネで調べても同様な結果でした。卑弥呼も魏の金印を貰いました(未発見)。 知識レベルは高く、中国本土と深い繋がりがあったのです。
王族が海を越えて未開の地に渡ったとすれば、それは国が滅亡したときしかありません。
BC473年に越によって滅亡したとあります。 呉の王族の集団が渡海し、五百年の歳月をかけて奴国を興して定着し、本土に朝貢したのです。 魏志倭人伝にも、倭人自ら呉の末裔と称したとありました。 さらにBC210年に秦の徐福が、若き貴族ら3千人を率いて渡来し、邪馬台国を建国しました。足場を固めた四百五十年後に卑弥呼が魏に朝貢し、邪馬台国は奴国を抜いて倭の宗主国となったのです。
出雲もまたBC334年、楚に滅ぼされた越の貴族の末裔でした。 彼らはもと呉の民でもあります。 渡海してみると、すでに呉の王族の建てた奴国があったため、さらに日本海沿いに進んで出雲、高志の地にたどり着きました。この仮説も染色体の解析で裏づけられます。
そこで韓半島にいた商王朝の祭祀を伝える貴族を探し出して迎えました。 素戔嗚尊の家系を継いで婿入りした大国主命です。 呉越の難民が弥生時代の出発点となったのです。 国譲りが平穏に行われた所以でした。 神武東征で大和王朝が誕生します。 そのとき商王朝の文化である祭祀の礼が天皇家に伝えられました。 神話にある血縁関係もほぼ納得できるのです。
先ずはこの方の、古代の王国・王朝史は勉強になりました。 今後の課題の参考にします。
①呉(姫姓周)の滅亡→奴国、
②徐福(姫姓周)→邪馬台国(日向)、
③越の滅亡→出雲(殷周の祭祀)、
④国譲り(周の王族と神官の融合)神武東征、
⑤神武王朝(周:王族父系、神官母系)、
⑥崇神王朝(新王朝、旧王朝系隼人の反乱)、
⑦応神王朝(神武王朝の復活:神官父系、王族母系)、
⑧継体王朝(王族父系、神官母系)。
文学博士 義江明子氏の『つくられた卑弥呼』の中の卑弥呼
ウエブ情報から引用
義江明子氏の略歴
- 1971年 - 東京教育大学文学部史学科卒業
- 1987年 - 「日本古代の氏の構造」で都立大文学博士
- 2000年 - 帝京大学文 学部教授
- 2017年 - 退任、名誉教授
著書
- 『日本古代の祭祀と女性』吉川弘文館〈古代史研究選書〉、1996年11月。
- 『古代女性史への招待…“妹の力”を超えて』吉川弘文館、2004年10月。
- 『つくられた卑弥呼…“女”の創出と国家』〈ちくま新書〉2005年4月。
- 『日本古代女性史論』吉川弘文館、2007年2月。
- 『古代王権論 神話・歴史感覚・ジェンダー』岩波書店、2011年
- 『日本古代女帝論』塙書房、2017年
- 『推古天皇遺命に従うのみ群言を待つべからず』ミネルヴァ書房、2020年
- 『女帝の古代王権史』ちくま新書、2021年
人前に姿を現すことも稀な神秘的な巫女だったのか? 私たちに強く根ざしたこのイメージは、実は近代に創られたものであり、歴史の真実からは大きく異なっている。 古代の女性支配者に聖なる部分を担わせ、男が担う世俗の政治・権力闘争の世界と対置させる構図である。 本書は、『魏志倭人伝』『風土記』『古事記』『日本書紀』さらに木簡史料なども丹念に読み解きつつ、卑弥呼は政治的実権をもった王として位置づけなおし、さらには卑弥呼に象徴される古代の女性首長たちの実像を明らかにする。
卑弥呼の生涯から比定できる卑弥呼は日本国(倭国)国王
- 出生は不明だが、40年続いた倭国大乱の後、189年前後に卑弥呼と呼ばれる女子が倭国の王として即位
- 『鬼道』をもって大衆をまとめる
- 何度か新羅に使者を派遣する
- 232年に倭国が新羅に侵入し、新羅の王都である金城を包囲、しかし、新羅の抵抗に遭い、1000人以上の倭軍の兵士が亡くなる
- 238年から239年に卑弥呼直属の家来・難升米を魏に派遣し、金印と銅鏡100枚を皇帝から授かる
- 242年から248年の間に卑弥呼死去、死因は不明
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卑弥呼の時代の倭国は
卑弥呼の時代の倭国は、大変荒れていたようです。 『魏志の倭人伝』によると、当時の倭国は卑弥呼が即位するまで男性が代々王の座を受け継いでいたところ統治が上手くいかず、倭国の中で大変な騒乱が起こっていました(倭国大乱)。 しかし、倭国の中の邪馬台国から卑弥呼が即位すると、鬼道などを用いることで倭国の情勢は安定し、中国にも朝貢を行っていました。 卑弥呼の死後一度男性の王を立てると再び騒乱が起こりましたが、卑弥呼の後継者たる女性の国王を立てると、安定したのです。
卑弥呼が治めていた国「邪馬台国」
邪馬台国は、卑弥呼が居住していた倭国の都の国のことを指します。 『魏志の倭人伝』には当時の朝鮮半島にあった国から邪馬台国に至る道程が記されていますが、それによれば、邪馬台国は朝鮮半島から東に1000里ほど海を渡ったところにあったとされています。
邪馬台国の政治には、古代日本と同じように租税や賦役の制度が存在していました。 また、男子はみな身体に入れ墨を施し、髪型も男子は髷、女子はざんばら髪のように特殊な風俗感もありました。
当時卑弥呼は、『朝貢』という形で魏に使いを送っていました。 近世の日本でも朝貢貿易を時代がありましたが、朝貢とは『その周辺の国の中で最も権力のある国に対して周辺諸国が貢物を献上する』という意味を指します。これは、権力のある国に対して貢物を献上してその返礼を受けることで外交秩序を築くという目的があります。 やはり自分の国が外国から攻められてしまっては大変ですから、朝貢することで外交を築き上げようと卑弥呼は思ったのです。
卑弥呼は占い「鬼道」を使って国を統治
卑弥呼は鬼道を使えたという記録も卑弥呼は『鬼道』という呪術的なものを使って国を治めていたことは有名な話です。 しかし『鬼道』という言葉は書物上の記述にすぎないため、その言葉が具体的にどんなものを指しているのかには諸説あります。 道教と関係があるのではないか、邪術ではないか、はたまた神道ではないか…。
一番の有力説としては、鬼道を『呪術』と解すことで、卑弥呼はシャーマン(超自然的存在)であり、男性が行う政治を霊媒者として補佐していたのではないか、という考えがあります。 これによれば邪馬台国は政治と神事の二元的な政治が行われていたということになり、その後の古代日本政治にもつながるのです。
人前に一切姿を見せない秘密主義
卑弥呼は女王に君臨すると、部屋の中にこもるようになり、そこで鬼道を操っていました。人前には一切姿を見せず、会うのは実の弟と、食事を運ぶ給仕1人だけだったと伝えられています。
そのため、女王となってから卑弥呼を見た人は極端に少なかったようです。また、卑弥呼の住む宮殿は楼観(物見櫓のようなもの)や城柵で囲まれており、建物内に入ることができる人も限られていました。
お墓の大きさは150m!100人の奴婢を殉葬、箸墓古墳
卑弥呼は240年代に亡くなった説が有力であるとされていますが、卑弥呼が亡くなった際、約150mの大きさにもなる墓が造設されたという記述があります。この時代は埴輪が導入される前であったので、卑弥呼の埋葬とともに奴婢100人ほどを一緒に殉葬しました。
卑弥呼が埋葬されたとされる墓は大きな塚であり、円墳や前方後円墳のような形をしていたのではないかと推測されていました。これらの情報をもとに奈良県桜井市の「箸墓古墳」が卑弥呼の墓なのではないかという説が挙げられています。
卑弥呼の功績
功績1「魏に使いを送り、金印や銅鏡100枚などを授かる」
卑弥呼は238年に自らの臣下である難升米を魏へと派遣しました。 この際に魏の王様から親魏倭王の金印と銅鏡100枚を授けられます。
功績2「70年以上に続いていた王座を巡る戦争を終わらせた」邪馬台国
卑弥呼にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「卑弥呼は日本の神様、天照大神である」説
都市伝説・武勇伝2「卑弥呼は天皇の妻、神功皇后である」説神功皇后
都市伝説・武勇伝3「卑弥呼の墓は箸墓古墳である」説
卑弥呼の生涯歴史年表
189年「卑弥呼、女王となる」
232年「新羅侵入」しかし軽騎兵率いる新羅王の前に倭軍は太刀打ちできず、千人もの捕虜と死者を生んだといいます。
239年「卑弥呼、難升米を初めて魏に派遣」魏から「親魏倭王」と書かれた金印と銅鏡100枚を皇帝から賜り、これにより、魏より倭国の女王であることを承認された。
240年「帯方郡より使者が倭国に訪れる」前年の派遣の返答として、魏の使いが倭国を訪れ、この時卑弥呼は皇帝からの詔書や正式な印綬を賜った。
247年「狗奴国との戦い」邪馬台国と敵対していた倭人の国、狗奴国との戦が始まり、この時、卑弥呼は載斯や烏越を帯方郡に派遣し戦の開始を報告。 一方で魏は張政を倭に派遣、239年に初めて派遣された難升米に詔書や黄幢を授与しました。
240~249年「卑弥呼死去」
卑弥呼が亡くなり、これにより男性の王が即位しますが、ここで再び内 乱が起き、その後卑弥呼の後継者である壱与という女性が即位することで治まったと言います。
287年「倭軍が新羅に攻め入る」
当時倭国は食料に困窮していたため、新たな土地を探そうと新羅に郡を 派遣、新羅を火攻めにし、この時新羅兵を千人程度捕虜としたと言われています。
古代の四王朝(神武・崇神・応神・継体)説には興味が尽きません。
(記事投稿日:2022/09/18、#572)