知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『地形を見ると、歴史が面白い 1 「大阪城vs江戸城」』 『大阪城(半島状の上町台地北端立地で水城の如し)対して、江戸城(凹凸武蔵野台地東端で個々の掘の水面標高差最大15ⅿに苦心!』

2024-11-24 21:30:34 | 寺院・仏閣・神社・お社
『地形を見ると、歴史が面白い 1 「大阪城vs江戸城」』
『大阪城(半島状の上町台地北端立地で水城の如し)対して、江戸城(凹凸武蔵野台地東端で個々の掘の水面標高差最大15ⅿに苦心!』

縄文時代、上町台地は大阪湾の海に突出した半島でした。 戦国時代の海面は下がっていましたが、満潮時には海流が淀川・大和川の奥まで逆流し、雨が降れば一面水浸しの湿地帯でした。 そういう意味では名古屋城と立地条件が極似しています。 ちなみに浪速や難波という地名は、文字通り海の波にさらされていた場所という意味です。 当時の大阪、摂津地方で唯一この石山の上町台地だけが乾いた高台だったのです。

織田信長が1570年から11年もの間、一向宗と戦っていたことは有名な話ですが、実は一向宗の本山があったのは大阪の石山本願寺。 現在大阪城が建っている場所でした。 石山とは大阪市中央区の上町台地を指し、そこには本願寺の総本山があったのです。

さて、江戸城ですが、
なんでもランキングする昨今ですが、世界中の難攻不落と呼ばれる機能美溢れる城郭や城塞を歴史上の防御実績をもとに、ランキングした情報がありました。
トップ10の中に、大阪城6位と、熊本城9位が入っていました。 最大規模の江戸城がこのランキングに入っていないのは、江戸城は築城以来一度も『城攻め』されてないことが理由でしょうか。

『大阪冬の陣で城は淀川を堰き止め、水城のようにしたが、徳川方に堰を破壊され、さらに上町台地北端の大阪城天守閣に大砲を撃ち込まれ落城!』

 ウエブ情報から引用

秀吉の文禄堤
大坂城の水没防御策、今回は「大坂冬の陣について新事実が分かった」と千田嘉博氏が大活躍している。 その新事実とは秀頼がとった大戦略。 大坂城は水没防御策をとったというのである。

その方法とは淀川の堤防を決壊させて、大坂城下を水浸しにするという方法。籠城戦の場合、完全に囲まれることで回りからの補給を断たれるという問題が生じるのだが、城下を水浸しにすれば、敵はそこに陣を置くことは出来ず完全包囲が出来なくなる。

では実際に淀川の堤防を決壊させた場合にどの程度の浸水が起こるかを、地形データに基づいて、古気象学によって導き出した当時の降雨のデータを組み合わせることによって推測している。 その結果として判明したのは、大坂城の北から東にかけての地域でかなり広範囲に浸水が起こり、その水深は2メートルにも及ぶというものである。 こうなると滞陣はおろか攻め込むことさえ不可能となる。

寄せ手が攻めあぐねると長期戦は必死。 そうなると大軍である徳川軍はやがては秤量などにも事欠くようになる。 それに対して豊臣軍は船を使って外部からの輸送も可能(といっているのだが、実際にこの時に外部から補給を行ってくれる勢力があるのかが私は大いに疑問だが)なので、状況的に徳川を不利に追い込んで有利な条件での講和なども可能となるという読みだという。 
この作戦も、家康の百戦錬磨の戦績には対抗できず、淀川の北側から大阪城の天守閣に大砲を撃ち込まれ、淀殿と秀頼が降伏します。

秀吉時代の大坂城を「豊臣大坂城」、徳川時代の大坂城を「徳川大坂城」と言う。 豊臣家は、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で敗れ、大坂城とともに滅亡する。 その後、大坂城の地には、新たに徳川幕府によって盛り土され、徳川大坂城が築かれた。 現在見られる 大阪城はこの時の城で、秀吉の大坂城は地下に眠っている。

徳川幕府は「大阪城」を再建する際、豊臣時代の石垣に盛り土を施し、地下に埋めてしまい、その上に建造するという荒行を行いました。淀川など河川の整備を行う際に出た土などを使用したと言われています。その後、地下に豊臣時代の名残があることは忘れ去られてしまいました。

築城以来不戦の江戸城は、最後は無血開城
江戸城は武蔵野台地の東端に位置しており、築城には武蔵野台地特有の凹凸地形が活用された。内郭内の高低差が最大25メートルもある。かつては本丸の前まで入江が広がっていて、現在の東京駅や日本橋は「江戸前島」と呼ばれる半島にあった。江戸城は天下一の巨大な城郭となり、城下町は当時世界一の大都会へと発展した。

 ウエブ情報から引用

徳川家康が江戸幕府を開いたときから、人口は膨張している。 関東ローム層だから、井戸を掘っても、さして水は出てこない。そこで、神田上水や、玉川上水がつくられた。
玉川上水は、奥多摩・羽村の堰(せき・堤防)から延々と水を引いてくる。
基本的な考えは、現在の水道管と同様に、木樋(もくひ)や石樋を地下に埋め込み、上水を引いているのだ。

豊臣大阪城 vs 徳川大阪城(西国外様大名に備えたか、浪速っ子に見せた?)
秀吉時代の大坂城を「豊臣大坂城」、徳川時代の大坂城を「徳川大坂城」と言う。 豊臣家は、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で敗れ、大坂城とともに滅亡する。 その後、大坂城の地には、新たに徳川幕府によって盛り土され、徳川大坂城が築かれた。 現在見られる 大阪城はこの時の城で、秀吉の大坂城は地下に眠っている。

徳川幕府は「大阪城」を再建する際、豊臣時代の石垣に盛り土を施し、地下に埋めてしまい、その上に建造するという荒行を行いました。 淀川など河川の整備を行う際に出た土などを使用したと言われています。 その後、地下に豊臣時代の名残があることは忘れ去られてしまいました。

 ウエブ情報から引用
江戸城の豪華で巨大な天守閣が復元されない限り、日本人は豪華で巨大な大阪城の天守閣に魅せられる続けることでしょう。 江戸城天守閣再建は以前話題になりましたが、また立ち消えました。
(記事投稿日:2024/11/24、#979)
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『自然の不思議・樹木のこと 14(紅葉狩りならぬイチョウ狩りに』 『四季には、いつでも花・木鑑賞ができる広大な昭和記念公園に)』

2024-11-19 09:18:01 | 寺院・仏閣・神社・お社
『自然の不思議・樹木のこと 14(紅葉狩りならぬイチョウ 狩りに』

『四季には、いつでも花・木鑑賞ができる広大な昭和記念公園へ)』

イチョウは、剪定されているいないに拘わらず、葉っぱは小さくなる一方の不思議と、同じ日当たりでも黄金色時間差拡大傾向?

イチョウの葉っぱは、『最近小さくなってきている』と大半の方々から聞いています。 イチョウ(銀杏、公孫樹、鴨脚樹、学名:Ginkgo biloba)は、裸子植物で落葉性高木。 日本では街路樹や公園樹として観賞用に、また寺院や神社の境内に多く植えられ、食用、漢方、材用としても栽培される。

イチョウの黄金色(紅葉)時間差拡大傾向?


 
モミジの紅葉は見頃
 


イチョウの黄金色(紅葉)時間差このぐらいで十分
 


日傘の飾り付けが見事
 

先日(2024/11/15)広大な『国営昭和記念公園、季節を問わず、散策が楽しい!』に行ってきました。 一日では、四分の一回るのがやっとでした。 とにかく広い公園で、カメラぶら下げての散策には2-3日かかりそうです。 公園は『緑の回復と人間性の向上』をテーマに1978年(昭和53年)度より建設省の手で施設整備が進められ、1983年(昭和58年)広大な、約70haで開園した後、レインボープールや子供の森、日本庭園、砂川口、盆栽苑等次々と施設が整備された。 

この公園は立川基地跡に開設されており、レクリエーション施設としての面もあるが、立川市と昭島市の広域避難場所の一つに指定されている。 防災関係機関が所在する立川広域防災基地が公園に隣接している。

この度、広大な『国営昭和記念公園』の散策で気が付いたことは、表題の通りです。 世界の20数ヶ国で、ボーッと、見てきた樹形のこと、この歳、傘寿+3まで、気にも留めませんでした。 その樹形の理解と記憶は『樹冠』と言われるくらいですので、暑い地方では半球形の冠と寒い地方では円錐形の冠でした。 人間は、よくこれを矯正剪定をしますが、狭い地球上のことですので、できるだけ、自然体の半球形の冠形円錐形の冠形を維持したいものです。
(記事投稿日:2024/11/20、#978)


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『地球上で一番難しい言語・日本語 (公用文では、常用漢字表の漢字使用がルール、更には表意文字の「漢字」と表音文字の「ひらがな・カタカナ・ローマ字・英語と英語の略語・短縮語」も!』

2024-11-12 08:27:14 | 寺院・仏閣・神社・お社
『地球上で一番難しい言語・日本語 (公用文では、常用漢字表の漢字使用がルール、更には表意文字の「漢字」と表音文字の「ひらがな・カタカナ・ローマ字・英語と英語の略語・短縮語」も!』

『日本を占領したGHQは「漢字を廃止」、ローマ字に一本化狙いを!』

『昔 GHQだけではなかった「漢字廃止論」が、でも漢字使用継続』


 ウエブ情報から引用

日本語学者 今野真二氏の『日本語日記「大きな島と小さな島」』の記事が載っていました。
2024年8月26日から5日間、太平洋の島嶼国、地域とオーストラリア、ニュージーランドが参加する「太平洋諸島フォーラム(Pacific Islands Forum)」の首脳会議が開催されました。 「日経新聞」の見出しは「島しょ国首脳会議 開幕」です。 「トウショ」を『三省堂国語辞典』第8版(2022年)で調べてみると、「しま。しまじま」と説明されています。 「嶼」が常用漢字表に載せられていないので。

ウエブ情報から引用
日本語でも中国語でも実際に使用されている漢字は異なり字の総数は数千の単位であって、数万ではない。 字種の数は調査する対象が多方面になり、また数量も多くなれば、当然のことながら増大するが、中国語の場合にはおよそ7,000程度、日本語の場合には5,000程度であって、それ以上急激に増大することはありえない。』
『公用文では、常用漢字表に従って漢字を用いることが定められていますが、固有名詞や専門用語などについては表外字の使用も許容しています(筆者追加;これが、新型コロナウイルス感染症の予防と治療の医療機関での登録手続きが、IT後進国・日本では、大混乱の原因)。 ただし、専門用語等で読みにくいと思われる場合には振り仮名を付けるなどの適切な配慮をするとしています。新聞では、読みやすく分かりやすい記事を書くために、常用漢字表を基に、各社独自の漢字使用の基準を作っています。 この基準は、新聞社などが加盟する日本新聞協会が決定したものを基に、各新聞社で更に検討を加えて作られます。 例えば、日本新聞協会の決定では、常用漢字のうち「虞」「且」「謁」「但」「朕」「附」の7字を使わないとする一方で、表外字である「磯 いそ」「絆 きずな」「哨 ショウ」「疹 シン」「胚 ハイ」の5字を新聞で使用できるとしています。』 やはり、日本語は難しい。

日本語が難しい理由は、以下のようなものがある:  
  • 漢字や敬語の使い分けが複雑
  • オノマトペや方言が多い
  • 文字の種類が多い(ひらがな、カタカナ、漢字、アルファベット)
  • 主語が曖昧で内容を読み取るのが難しい
  • 日本語は英語と文構造が逆である(英語はS+V+Oだけど、日本語はS+O+V)

といわれていますが、昔は、世界に先行した技術・産業・知識等ありましたが、最近は先行しているものが、少なくなりました。 とくに外国と比べて大きなハンデになっているのは、

  • 文字の種類が多い(ひらがな、カタカナ、漢字、アルファベット)+ローマ字と外国語)、加えて得意げに作られる新造語・略語(これで無暗に脳細胞に対して脳トレを超えた、年がら年中の酷使)する結果になっています。 

因みに、世界の表意文字の使用大国は中国と日本だけです。 中国では表意文字漢字とピンイン(発音記号)の2種類で、IT・AIのトップレベルに駆け上がりました。 何かヒントになりそうではありませんか

毎日、新聞をくまなく見ていると解ります。 『表意文字の「漢字」と表音文字の「ひらがな・カタカナ・ローマ字・英語と英語の略語・短縮語」も!』に加えて、連日の新造語の乱発です。 言語は生きており、成長していると言いますが、傘寿+3には、ついていけないほどです。
(記事投稿日:2024/11/12、#977)
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『「兵馬俑の凄さのこと 1(日本と米国で半導体の結晶研究の志村史夫工学博士の著書「古代世界の超技術」の「世界第八の奇跡・兵馬俑の発見」』

2024-11-10 12:31:28 | 寺院・仏閣・神社・お社

『「兵馬俑の凄さのこと 1(日本と米国で半導体の結晶研究の志村史夫工学博士の著書「古代世界の超技術」の「世界第八の奇跡・兵馬俑の発見」』

『兵馬俑(兵士俑と馬俑)が文化大革命の中、偶然・奇跡的に、現代まで破壊されず、残されたことは、周恩来首相のお陰』

『周恩来首相の有名な一言「始皇帝陵の発掘は、発掘した後、発掘以前と同様に維持保全のできる技術が開発されるまでは、その発掘は許可しない」と。』

この本の著者のプロフィールの再掲載
1982年「シリコン単結晶中の不純物酸素および微小欠陥に関する研究」で名古屋大学工学博士(応用物理)。
1974年日本電気中央研究所、1983年モンサント・セントルイス研究所、1987年ノースカロライナ州立大学教授 (Tenure:終身在職権付) 。
物理学、半導体関係の専門書、教科書のほかに一般向け著書も多数あり、2002年(平成14年)日本工学教育協会賞・著作賞を受賞した。
半導体結晶が専門だが、古代文明、自然科学、基礎物理学、生物機能などに興味を拡げている

この方の、この著書について、ネット上には沢山の『感想・レビュー・コメント』が紹介されていますが、内容については、かなり納得された方々のものが多かったようです。

表題の著書の中の「世界第八の奇跡・兵馬俑の発見」から、古代世界の技術の高さと、これ程の規模の副葬品を造ったことの凄さを知りました。

始皇帝陵平面図
この著書の影響で、いろいろ調べて、ウエブ情報で、この『図面』を見つけた時に分かりました。 中国の古代遺跡のスケールの大きさと内容の豊富さです。 
図面の右中央部分に、小さく表示されているのは、兵馬俑坑の1~4号抗です。その一部の発掘から発見された『兵馬俑(兵士俑と馬俑)』の謎に、圧倒されています。

 ウエブ情報から引用

兵馬俑抗1号抗(兵士俑と馬俑)
(兵馬俑と始皇帝陵の全容と比較、始皇帝陵のスケールが分る)

ウエブ情報から引用

始皇帝陵から東へ約1.5km離れた距離にある陪葬抗。 これは1974年に村の住民が井戸を掘ろうとした際に発見したもの。 ここでは8000体の兵馬俑と大量の青銅器の武器が発見されました。「俑」とは、粘土で造られたもので、これは古代中国では死者と一緒に埋葬されていました。 かつては彩色されていたと考えられ、どれも顔つきが違うというのも特徴。

兵士俑と馬俑

ウエブ情報から引用
  • 始皇帝陵兵馬俑坑では、現在までに約8,000体の俑が確認されている。 兵士の俑にはどれ一つとして同じ顔をしたものはない。 
  • 兵士の俑のそれぞれに顔料で彩色がされていたこともその後の発掘調査で判明。 
  • 指揮官・騎兵・歩兵と異なる階級や役割を反映させた造形は、始皇帝麾下の軍団を写したもの。
  • 兵馬俑の軍団は東方を向いており、旧六国を威圧したものとみなされている。
  • 来世へと旅立った始皇帝の為に造設されたこの遺跡は、身を守る軍隊だけでなく宮殿のレプリカや、文官や芸人等の俑も発掘されている。
  • 生前の始皇帝の生活、そのものを来世に持って行こうとしたと、考えられている。

俑の種類
  • 武士俑(兵士俑、歩兵俑)
一般的な兵士をかたどったもの、平均身長は約180㎝。 軍団の主体を構成しており、兵馬俑坑から出土した数は最も多い。 

  • 御手俑(御者俑)
兵馬俑坑1号坑では、随所に4頭立ての陶製馬の引く木製の指揮用戦車がみられた。戦車の後方には3体の俑が並べ置かれたが、そのうち中央か左側に立つのが御者俑である。

  • 立射俑
兵馬俑坑2号坑の東部で出土し、武器として弓を所持していた。後述する跪射俑とともに弓弩兵の四方戦陣を構成しており、陣の外側に配置されている。

  • 跪射俑
前述の立射俑と同様に、2号坑の東部で出土し、武器として弩を所持していた。跪射俑は左膝を曲げて立て、右膝を地につけた形状が特徴的である。

  • 騎兵俑
騎兵と馬に分けられて作られている。

  • 将軍俑
兵馬俑としても数が少なく、出土したものは10件に満たない。 戦袍を着た将軍と鎧を着た将軍の2種類がみられ、いずれも頭の髷の上に鶡冠を載せている。

  • 軍吏俑

  • 文官俑
裾の長い上衣を着て、頭に冠をつけ、腰には小刀と砥石をぶらさげて携帯している。

  • 百戯俑(力士俑)
でっぷりと肥った腹部と逞しい筋肉をもつ男性の俑。

  • 楽士俑
足を伸ばして座り、足の上の何かを操作する男性の俑。船を漕ぐ人という説もある。

志村史夫博士が指摘された『世界第八の奇跡の発見』・『兵馬俑(兵士俑と馬俑)』の凄さです。

  • 兵士俑の兵士俑のすさまじいまでの数8000体、『等身大』といわれる平均で100㎝、大きな傭では195㎝、重さ200㎏超。 『等身大』の、当初のリアルに彩色されていた大量のテラコッタはどのように作られたか?

❶輪にした帯状の粘土板を積上げ、下半身や胴体を作る。 内部は中空、焼成の際にこの空洞が必須
❷頭部、腕、手、肩などの末端部を型に嵌めて作る
❸すべてを陰干した後に、各部を組み合わせる
❹頭部、顔、鎧などの細部を彫刻する(この段階で、個性豊かな“一人一人”
の兵士傭となる)
❺頭部を胴体の首部にはめ込む
❻炉に入れて焼成する
❼彩色する

  • 兵馬俑2号坑で発見された全身彩色豊かな跪射俑(左膝を曲げて立て、右膝を地につけた形状が特徴的)の復元図

ウエブ情報から引用

彩色は自然鉱物顔料によって行われているが、顔料の”乗り”をよくするために、テラコッタ(粘土の素焼き)表面には下地として黒い生漆(きうるし)が塗られている。

繰り返しですが、兵馬俑(兵士俑と馬俑)が文化大革命の中、偶然・奇跡的に、現代まで破壊されず、残されたことの、大きな要因には周恩来首相がおられたからこそと感慨深く思い出しました。 周恩来首相の有名な一言『始皇帝陵の発掘は、発掘した後、発掘以前と同様に維持保全のできる技術が開発されるまでは、その発掘は許可しない』と。
  (記事投稿日:2024/11/10、#976)
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『ナスカの地上絵-4(紀元前200年から紀元600年頃の絵、由来の説はいろいろあるが、「一筆書きの絵」は雨乞いの祈りの歩道!)  と、ほぼ納得したが、最近の専門家の先生方の調査でさらに謎が?』

2024-11-05 09:41:49 | 寺院・仏閣・神社・お社
『ナスカの地上絵-4(紀元前200年から紀元600年頃の絵、由来の説はいろいろあるが、「一筆書きの絵」は雨乞いの祈りの歩道!)
 と、ほぼ納得したが、最近の専門家の先生方の調査でさらに謎が?』

『画像は、初めの「動植物の絵」(雨乞いの歩道)→「幾何学模様」(雨乞いの歩 道)→「直線」(雨乞いの歩道・水源表示)への変遷か?』

ハチドリの地上絵

 ウエブ情報から引用
『雨乞いの祈り』の歩行はどこから始めても歩行開始地点にもとれる、まさに一筆書き歩行ができます。

温暖湿潤気候の日本でさえも、1~2世紀前頃までは、田圃の中に水神様が沢山祀らおり、雨水頼みで、その数は「八百万」以上?』

『因って、ナスカの地上絵は「何のために描かれたか・Why?」の由来は沢山ありますが、ずばり一つ、雨乞い儀式利用の「雨乞い説」?』

世界の八番目の不思議と言われるナスカの地上絵は,南米ペルー南部の海岸に近い岩石砂漠に約2,000年前に描かれていましたので、まだ最近の発見です。 1939年6月22日、動植物の地上絵は考古学者のポール・コソック博士により発見されました。 その後ドイツの女性数学者、マリア・ライヒェ氏が終生この地に住み着き、彼女を中心として、地上絵の解明作業と、保護が行われるようになった。

地上絵の全体が分かる衛星画像

ウエブ情報から引用
右側が北で、広大な大地に無数の直線が描かれていることが分かる。 なお動植物を描いた絵はこの写真では小さすぎて確認できない。 北にある川の対岸には、『パルパの地上絵』エリアがあり、ここにも多数の地上絵がある。
パルパの地上絵
地上絵は、ナスカ(約2000年前)とパルパ(約3000年前)とでは微妙にデザインが違っていて、パルパは幾何学模様が多い傾向にあり、『ファミリー』といった人間をモチーフにしたと思われるデザインも有名。 ナスカの地上絵は、動物から昆虫、花、木々、模様、巨人など、テーマはさまざま。 ちなみに、2022年にはいよいよネコをモチーフにしたデザインも発見されています。

ナスカの地上絵はどのように描かれたのか?
有力な説は『拡大法』ですが、拡大法は紐を真っ直ぐ張った状態でなければ描写できないため、200メートル以上の地上絵を描くのは難しく、200メートルを超える地上絵の詳しい描き方はわかっていません。

ナスカの地上絵は何のために描かれたのか?
『カレンダー説』
構成する直線には、意図的に太陽と星の動きを表しているものがあり、農業用のカレンダーとして描かれたという説。 ですが、この説だと、他の地上絵の線はいらないですし、何のためにあれほどまでに大きな絵を描いたのかも謎

『巡礼に関する役割説』
古代の人々はナスカの地上絵を歩いて渡り、聖なる場所に向かったという説ですが、どこが聖地であったか不明。

『水のありかを示していた説』
ほとんど雨が降らないナスカでは、地下水に頼って生活する必要がありましたが、現在までには、地下水と直結した確証がない。

『灌漑、水のコントロールに活用された説』
米国のGregory Charles Herman博士は、ナスカに書かれた大量の直線と多くの台形および長方形が「水の流れをコントロールするため」に作図されたものである可能性を指摘した。 しかし水路にしては線が浅すぎる、線のネットワークが多すぎることがこの仮説が支持される可能性を低くしている。

『権力者の埋葬説』
ナスカ文化では権力者が埋葬された際、地上絵をひとつ描いたという説。ナスカ文化では死者は太陽に帰るとされていて、太陽に向けて地上絵を描いたのだとか。

やはり、『確信』できる説は『雨乞い儀式説
ナスカは地球上で有数の乾燥地帯なので、雨乞いのために描かれたという説。地上絵の中にクモを描いたものがあり、クモは雨を象徴するものだったと言われています。 が、ナスカの地上絵には『水源を確保する』といった実用的な機能はないので、古代の人たちが宗教的な意味合いで地上絵を描き、そこを歩行し、祈り雨乞いした可能性はありそうです。

ナスカの地上絵といえば、鳥・魚・昆虫等動物の絵(一筆書き、これが雨乞い
❶動植物の絵が、70個以上、ナスカの地上絵と言えば、動物や植物を覚えていますが、大きいものは、長さ370ⅿ近くないなる地上絵も存在します。 不思議なことに、サボテン、トカゲ以外は、岩石砂漠にはあまり縁のない、蜘蛛、猿、クジラ、カモ、花、樹木、犬、ペリカン、シャチ、ラマ、ハチドリなど描かれています。
 
❷幾何学模様、300個以上が見つかっています。 

❸直線800本以上(交点がある)、その中には、48㎞の長さに及ぶものがある。 三角形、長方形、台形などの基本図形に、螺旋模様、矢印、ジグザグ模様、波線など、

ナスカの地上絵は、地上からは何も分からないが、空から見れば分かる。 何のために描かれたのか? アンデス文明は 紀元前2500年から紀元1532年まで、ナスカの地上絵は、その間の紀元前200年から紀元700年頃までに描かれたもの

さて、最後に一番多い『❸直線800本以上(交点がある)、その中には、48㎞の長さに及ぶものがある』です。 今後の課題は、『ナスカの地上絵は、紀元前200年から紀元700年頃までの、約千年にわたって描かれたもの』、この順序が
『動植物の絵』➡『幾何学模様』➡『直線』であれば、ナスカの地上絵は、海抜520ⅿ前後の岩石砂漠に住んだナスカの人々が、水を入手することが難しく、その水をどうにかして確保したいという『思い』ナスカの地上絵が描かれる理由になったという説です。

とにかく古代史は、分かったような錯覚に、簡単に陥りますが、毎度のことで、やはり、謎ばかりです。 とくに直線は、二点間を結べば簡単に描けますが、数十キロの直線は何に使ったのでしょうか。 傘寿+3には重い宿題・謎です。
 (記事投稿日:2024/11/04、#974)
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