知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『海外の古文書が日本史の謎を解く(手紙・日記等)から解る 1』 『宣教師は植民地主義の拡大の中で、情報収集・報告機能を見事に』

2022-09-25 14:43:42 | 歴史・日本

『海外の古文書が日本史の謎を解く(手紙・日記等)から解る 1』

『宣教師は植民地主義の拡大の中で、情報収集・報告機能を見事に』

『日本の信仰・宗教は、自然崇拝の八百万の神から神道、外来宗教へ』

 

NHKスペシャルのタイトル『戦国~激動の世界と日本~第1集 秘められた征服計画 織田信長×宣教師』を見ました。 島国日本の中世・近世に興味津々、益々調べたくなります。

ウエブ情報から引用

『世界各地で「日本の戦国時代」に関する発見が相次ぎ、大航海時代のヨーロッパと日本が強く結びつき、地球規模で歴史を揺るがしていた事実が明らかになってきた。 第1集は、織田信長と豊臣秀吉の時代。 ヨーロッパの16世紀の文書が公開され、信長・秀吉と、来日したキリスト教の宣教師、そして背後にいたポルトガルやスペインとの深い繋がりが見えてきた。 それぞれの思惑と、熾烈な駆け引きを描く。』

 

『長篠の戦いで使われた織田軍の銃弾には海外(タイ)産の鉛が使われていた。 イエズス会の宣教師が本国からの指令を受け、布教の後押しを見返りに、国内で調達困難な鉛などの軍需物資を提供していたというのだ。 大航海時代の、死の商人といったところか。 イエズス会の記録によれば、こうした取引に(豊臣)秀吉は反対していたという。 宣教師たちは日本征服を企んでいるとにらんでいたからだ。 しかし、(織田)信長は意に介さず、彼らとの取引を続けた。 信長は鉄炮を量産させており、鍛造技術による革新的な日本製火縄銃の優位性と殺傷能力の高さに自信をもっていた。』

 

この番組を見て初めて知ったこと。

群雄割拠の日本の戦国時代は、覇権争いの内戦ではなく、世界史の大きな流れの中に巻き込まれていた。 織田信長や豊臣秀吉の野望と、ヨーロッパからやってきた宣教師たちの狙いが、それらが交錯して、激動の戦国時代に影響していた。

 

宣教師フランシスコ・カブラルが織田信長に接近、鉄砲の弾はタイ産

(こんな『ネットワーク・サプライチェーン』の存在に驚き)

今 世界各地で、戦国日本に関する発見が相次いでいます。 注目されているのが、日本にやって来た、キリスト教の宣教師たちの機密文書。 宣教師たちは、壮大な征服計画を、持っていました。 それが戦国日本の戦いや、天下統一への歴史を左右していた。 キリスト教カトリックの総本山から、戦国日本に関する貴重な史料の撮影が、特別に許可されました。

記録では1549年宣教師のザビエルが来日。
宣教師には、全世界をキリスト教の国にするという、大きな使命があり、達成するため、宣教師が極秘の情報活動をしていたことが、明らかになってきました。 各地の日本人キリシタンと協力して、広大な情報網を築き、戦国武将の動向を探っていた。 情報網を取りしきっていた、宣教師の名前はフランシスコ・カブラル。 ザビエルから数えて3代目の宣教師のリーダーでした。

カブラルは 布教の拡大を図るため、次々と戦国武将への、接触を試みていた。
その中で 最も有力な候補者と考えたのが、織田信長でした。 信長が天下統一に向け 大きく飛躍した、長篠の戦いです。
信長の鉄砲と 武田の騎馬の戦いだといわれてきましたが、鉄砲対鉄砲の戦いでもあったのです。何が両者の勝敗を分けたのか?

戦国時代の弾丸でした。 合戦当時の陣形や見つかった場所から、信長軍の鉄砲玉と推定されました。 帝京大学 客員教授 平尾良光は。この鉄砲玉の素材は 鉛。 当時の日本では極めて貴重な金属でした。 鉛の成分を解析した結果、信長軍の弾丸は、日本から4,000km離れた、東南アジアのタイ鉱山で、産出した鉛でした。

海外の鉱山まで伸びる,この鉛のネットワーク・サプライチェーンこそが、信長の勝因の一つだったのです。 イエズス会ローマ文書館に、宣教師の記録があり、カブラルは、布教を後押ししてもらうため、軍事物資である鉛の取引を、行っていたと考えられています。 

 

リスボン大学歴史センター准教授ペドロ・コレイア

信長への軍事支援と布教をカブラルは結び付けていた。 天下統一したければ、キリスト教を支持せよ。

日本に軍事物資を運んだのは、ポルトガルの交易船でした。(沈没船調査2014年 オマーン)沈没した交易船の調査で見つかったのは 大量の弾丸。
そして ヨーロッパで作られた鉄砲。 長篠の戦いで 宣教師の力を借りて、宿敵 武田家を打ち倒した信長。

 

織田信長がキリスト教を保護してまで南蛮貿易を続けた4つの理由

南蛮貿易とキリスト教の布教がセットだった

火薬の原料になる輸入品「硝石」をおさえたかった

南蛮貿易で上がる莫大な利益

寺社勢力をけん制したかった

この後の、日本の中世史・戦国時代を見ると、織田・豊臣・徳川時代は、まさに『織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座して喰らふは 徳の川』という落首のように、織田信長の『先見性・先取性』には驚くばかりです。

      (記事投稿:2022/09/25、 #576)

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『自然の不思議・樹木のこと 5(インドの生きている橋)』 『住民たちが生きたゴムノキの根を、編み込み橋を架けた!』

2022-09-25 12:02:34 | 植物・花

『自然の不思議・樹木のこと 5(インドの生きている橋)』

『住民たちが生きたゴムノキの根を、編み込み橋を架けた!』 

先日2022/09/25)の日経新聞のThe STYLE欄で見つけました『生きている橋』

ウエブ情報から引用

この写真の撮影者の苦労『木の根でつくられた「生きている橋」。 照明を駆使し、長時間露光で撮影した。』が良く分かりました。

『生きているの橋』とは、生きている樹木の根により作られた、簡易な吊り橋の一種。 北東インドのメーガーラヤ州の南部で見られる。 根の橋は、シロン高原の南部に沿った山岳地帯のカーシ族とジャインティア族によって、インドゴムゴムノキの『気根(*)』から手作りされている。 根の橋の多くは海抜50〜1,150mの温暖湿潤気候の広葉樹林の急傾斜地に生育している。

『気根(*)』植物の地表に出ている茎あるいは幹から出て、空気中に現れている根。 ゴムノキ・タコノキ・トウモロコシなどにみられる。

『生きているの橋』は、それを形成する元の樹木が健康である限り、自然に太く、強くなる。 木の寿命が尽きるまで新しい根が成長する可能性があり、橋を維持・強化するためには剪定や手入れをしなければならない。 ひとたび成熟すれば、50人以上の人が渡れるし、最長で150年の寿命を持つこともある。 積極的な手入れをしなければ、多くの場合、崩壊したり、野生化して、使えなくなる。

この橋を架ける準備が凄い。 先ず両岸にゴムノキを植え、15年から30年かけて竹製の仮の足場に沿って、その根を這わせ橋を架ける。 やがて湿度と歩行にうえが固められ根は絡まりあって太く強くなり、この構造は年を経るごとに弾力を増し、最長で150年の寿命を持つこともあるそうです。 

中国の人口14.3億人を、現在14.1億人の「IT大国」のインドは、来年にも抜きそうです。 『生きている根の橋』の維持・活用同様に自然との共存も上手くできているようです。

(記事投稿日:2022/09/25、#575)

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