知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『来た、見た、分かった 5(グラバー夫人とオペラ「蝶々夫人)」』

2023-11-24 17:30:45 | 風景
『来た、見た、分かった 5(グラバー夫人とオペラ「蝶々夫人)」』

『二人の蝶々夫人、「談川 ツル、離婚から芸者、そしてグラバー夫人へ、」と、「三浦 環、波乱万丈の世界的オペラ歌手、音大卒」』

表題に、名言『来た、見た、勝った』(古典ラテン語:Veni, vidi, vici)を引用させて頂きました。 共和制ローマの将軍・政治家のユリウス・カエサルが、ゼラの戦いの勝利を、ローマにいるガイウス・マティウスに知らせた有名な言葉です。 今回は『来た、見た、分かった (グラバー夫人とオペラ「蝶々夫人)」』でした。

あまりに、オペラの『蝶々夫人』が有名ですので、もうひとりの元祖『蝶々夫人』長崎グラバー邸の女主人 グラバー・ツルのことが今回、分かりました。

 ウキペデイア情報から引用

グラバー・ツルは、江戸時代末期から明治にかけての女性。幕末に長崎を拠点としたイギリス商人トーマス・ブレーク・グラバーの妻。家紋は、芸者がよく使っていた女紋「揚羽蝶」。

ツルは大阪の造船屋「淡路屋」に生まれる。豊後竹田の岡藩士と結婚し、娘・センをもうけるも離縁し、芸者となるが、なお、センは祖母の元で育ち、1年ほどグラバー邸で暮らすがなじめず祖母の元に戻り、以後ツルとは断絶した。いつ頃トーマス・ブレーク・グラバーと結ばれたかは不明だが、戸籍によると長女ハナを明治9年(1876年)に出産している。グラバーの長男倉場富三郎とはハナの異母兄弟になる。 

(グラバーは、本国に妻子はおりせんでした。 したがって、五代友厚の紹介により日本人の談川ツルと結婚し、長女・ハナ、長男・倉場富三郎が生まれました。 なお、談川ツルとの結婚以前に、グラバーには内縁の妻広沢園がおり、2人の間に梅吉をもうけていますが生後4ヶ月程で病死しています。)

『蝶々夫人』のモデル説
ジャコモ・プッチーニのオペラ『蝶々夫人』の蝶々さんのモデルとされる説がある。これは、長崎の武士の出身であることや、「蝶」の紋付をこのんで着用し「蝶々さん」と呼ばれたことに由来する

しかし、オペラの原作であるジョン・ルーサー・ロングの小説『マダム・バタフライ』では、蝶々夫人は自殺しておらず、ロングはのちに『マダム・バタフライ その20年後』という戯曲を書いている。ロングはアメリカ人で来日経験はなく、宣教師の妻として長崎にいた姉からの話をもとにして書いたと推測されている。モデル説を否定され、旧グラバー住宅とオペラ蝶々夫人の関連は、同住宅がアメリカ進駐軍に接収されていた時に初めて言われるようになったと指摘される。

三浦 環とオペラ『蝶々夫人』
グラバー園にある『蝶々夫人』環の像

2023/11/10撮影

三浦 環、本名は柴田 環。 日本で初めて国際的な名声をつかんだオペラ歌手として知られる。 十八番だったジャコモ・プッチーニの「蝶々夫人」にある“蝶々さん”と重ね合わされて「マダム・バタフライ」と称され、国際的に広く知られた。

ウキペデイア情報から引用

東京府東京市出身、東京音楽学校卒後、同校の声楽の講師から助教授となり、この間に山田耕筰らを指導した。1907年に離婚していた環は、1913年三浦政太郎と再婚し、1914年に夫と共にドイツへ留学する。しかし同年、戦火を逃れるために英国へ移動し、現地で「蝶々夫人」を演じて好評を博す。

イギリスでの成功を受けて環は帰国せずに、1915年にそのまま米国へ向かい、ボストンで初めて「蝶々夫人」を演じると好意的な批評を受けた。環は、メトロポリタン劇場へ最初に迎えられた日本人歌手である。 

1922年に帰国後は長崎市に留まり、「蝶々夫人」とゆかりの土地を訪ね歩き、演奏会を開催した。同年に発売したレコードも大ヒットし、同年11月の時点では東京市だけで約8万枚を売り上げた。1935年には「蝶々夫人」出演通算2000回の大記録を達成した。

「蝶々夫人」出演通算2000回を達成した環は永住帰国を決断し、1935年に帰国する。1936年、歌舞伎座において開催された原語(イタリア語)による「蝶々夫人」公演に出演し、これが自身通算2001回目の出演となった。 これ以降は日本国内の各地でオペラへの出演やリサイタルの開催、レコーディングを行っていった。なお、「蝶々夫人」は自身による日本語訳の歌詞にて上演したこともあった。

しかし、1944年からは山中湖へ疎開する。環は地元の住民らと気さくに交流を楽しみ、同じく疎開してきた多くの文化人らとの語らいを楽しんでいた。また、子供好きであることから近所の子供たちに歌を教えるなど、充実した日々を送った。

大正時代に欧米各地で上演されたように「蝶々夫人」が環の代表作、かつ「蝶々さん」が当たり役で、その正統的・模範的な演技は国内外で現在でも高く評価されて いる。幼少期に日舞を学んでいたこともあり、美しく自然な所作によって成功を掴むことが出来たと言われている。その名声ゆえに、海外の著名な芸術家とも共演している。環が「蝶々さん」に扮した姿の銅像は、ジャコモ・プッチーニの銅像と共にグラバー園に建っている。

プッチーニ博物館(晩年の家)の歌手の写真を集めた一角には、日本語で「親愛なるジヤコモ・プチニ先生へ」と書かれたサイン付きの環の写真が展示されているほか、ローマ歌劇場にも歴代のプリマドンナと並んで環の写真が展示されている

ジェンダーギャップなど吹っ飛ぶほどの女傑『二人の蝶々夫人、「談川ツル、離婚から芸者、そしてグラバー夫人へ、」と、「三浦 環、波乱万丈の世界的オペラ歌手、音大卒」』でした。
(記事投稿日:2023/11/24、#702)


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