知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『脳医学者中田力氏の「卑弥呼」と文学博士義江明子氏の「卑弥呼」 2』 『卑弥呼は「魏志倭人伝」から「記紀」の天照大神に比定できる可能性』と

2022-09-19 18:17:29 | 歴史・日本

『脳医学者中田力氏の「卑弥呼」と文学博士義江明子氏の「卑弥呼」 2』

『卑弥呼は「魏志倭人伝」から「記紀」の天照大神に比定できる可能性』

『五つの風土記(常陸・播磨・出雲・豊後・肥前)と逸文からも、検証を』

 

脳医学者 中田力氏の『日本古代史を科学する』からの卑弥呼

『「魏志倭人伝」によれば、卑弥呼が活躍したのは三世紀半ば、240年前後のことである。 推定誤差を考慮しても数理考古学的解析よる神武天皇の即位以前であることは間違いなく、「記紀」にもある天照大神が卑弥呼に比定できる可能性が極めて高い。 邪馬台国が宮崎平野にあったことと併せて考えれば、「記紀」に書かれた高天原の神話は邪馬台国を中心として始まった大和朝廷成立までの初期の歴史をデフォルメしたものとも考えられる。』 

『天照大神は禊(みそぎ)で生まれた神である。 禊とはイザナノミコトが火の神「カクツチ」を生んだ時の火傷がもとで死んだ妻「イザナノミコト」を追って黄泉の国を訪れ、その変わり果てた姿を見て逃げ帰った時、汚れを落とすために行った清めの作業である。 様々な神が生まれたが、左目から天照大神、右目からツクヨミノミコト、そして鼻からはスサノオノミコトが生まれた。』 

『やがて高天原は天照大神に、黄泉の国はスサノオノミコトに受け継がれることになる。これらの話は、高天原と黄泉の国とが現存した二大勢力であったことを意味する。 黄泉の国が出雲に比定されているように、高天原を卑弥呼の邪馬台国に比定すれば、天照大神とスサノオノミコトの競い合いの神話はまさに、大和朝廷(九州の)と出雲の間に起った歴史そのもの記載したものといえる。

 

文学博士 義江明子氏の『つくられた卑弥呼』の卑弥呼

ウエブ情報から引用

『邪馬台国の女王卑弥呼。 日本人なら誰もが知っているこの女性について、教科書で「すぐれた巫女であり、人に姿を見せることもまれで、弟が彼女を補佐して実際の政治を行っていた」と習わなかっただろうか。 しかし、この卑弥呼=神秘的巫女説は、実は近代に創られたものである。 本書は『魏志』倭人伝のほか、『風土記』『古事記』『日本書紀』の伝承を、木簡等の新出史料や古代女性史研究の成果をふまえて丁寧に読み解き、卑弥呼を“戦う”王ワカタケルと同種の、政治的実権をもった王として位置付け直す。 卑弥呼に象徴される古代の女性首長たちの実像を明らかにし、現在の女帝論議にも一石を投じる衝撃の論考。』 

つくられた卑弥呼<女>の創出と国家

本のタイトルを見ると、ジェンダーギャップを意識できる時代になったなと思います。 以下、今後の勉強のために、ウエブ情報「ヒストリア」の抜粋・引用の備忘録です。 

『この本では、今まで、だれもが持っている卑弥呼についてのイメージは『すぐれた巫女であり、人に姿をみせることもまれで、弟が補佐して実際の政治を行っていた。』そんな卑弥呼像に、『実際はどうだったのか』を問いかけています。 

魏志倭人伝だけにとらわれず、広く古代日本の女性社会へ目を向け、卑弥呼以外にも多くいた女性首長たちの残像を探り、律令以前の日本社会を女性の立場から見つめなおしています。

 

第一章『風土記の女を読む

『風土記』の世界には、男の土蜘蛛と、女の土蜘蛛がいた。  土着勢力は土蜘蛛にせよ、女神にせよ活躍内容に男女の別はほとんどなく、女性も男性も同じように、抵抗したり、恭順したり、争ったり、占ったり(当時の政治)している。 古墳の墳墓主からもそれはある程度裏付けられており、武器を副葬した女性墳墓も多くある。 ただそれでも、女性の活躍が「巫女」とだけに限定されがちなのは魏志倭人伝で、卑弥呼が「巫女」であり、男弟が政治を助けた、とあるため。

 

第二章『魏志倭人伝

いままでなにげなく現代語訳のまま理解していた魏志倭人伝ですが、著者いわく、そこには相当、男性視線の中国人観があるそうで(当時の中国は既に徹底した父系社会)書かれている倭人伝の記録には、隠された実像が多くあるようです。 

男女の別なく集まったという「会同(集会)」一夫多妻であったのに「妬忌(嫉妬)しない女たち」そこには父系社会視点からでは決してわからない新しい邪馬台国が見えてきます。(女たちが嫉妬しなかったのは、要は、一夫多妻でなく、多夫多妻だったからということみたい) 

奈良時代以降の戸籍の分析をもっても、八世紀ころまでの古代日本は、母方父方双方と密接にかかわりを持つ双系社会であり、父系でたどろうとする戸籍の手法は現実とだいぶズレがあり、分析上つじつまの合わない点が多くあるそうです。

そう言われてみれば、平安時代も、妻問い婚。 女性の貞操についてはある程度うるさいものの、子供は母方で育つし、人妻や、年頃の姫のところに忍び込んで、いったりし、源氏物語の主人公はいまから考えるとずいぶん勝手なことをしている。 

そこまで時代をあげなくても、万葉集の中で皇族・豪族の姫君たちは、おおっぴらに不倫めいた歌をたくさん残しているし、・・・ちょっと説得力あって面白すぎる。 

中世以降、日本も完全な父系社会になるのですが、それ以前の古代という世界を、根本から見つめなおすのに、非常に必要なのに、忘れられがちな視点を、この本は教えてくれます。

話を卑弥呼に戻すと、ヒミコとワカタケル(雄略天皇)を比較して、巫女と武王という、まったく違うイメージのこのふたりが、中国や朝鮮の外交使節にはともに直接姿を見せないでいるのに着目して、ヒミコもワカタケルと同じように、戦う王だった、可能性を指摘しています。 

また、男弟が卑弥呼の政治を助けた、ということを指す、「佐治」というキーワードを著者は、稲荷山鉄剣の銘文と比較して、「佐治」はあくまでも政治を補佐する意であり、卑弥呼自身が政治を行わず、巫女に専念したことにはならない、としています。 他に、卑弥呼に給仕したという「男子一人」が夫であったかもしれない可能性を指摘。

 

第三章の「飯豊王の物語を読む

飯豊青尊(いいとよのあおのみこと)は雄略天皇の次の清寧天皇が跡継ぎの子がなく亡くなったときに、雄略の父・允恭の兄である、履中天皇の娘である飯豊王が、甥である顕宗(弟)仁賢(兄)が即位するまでの間政務をつかさどった、とされる女性で、推古天皇以前の女帝として古代史上カウントされることもある方なのです。

このお方。 日本書紀に「与夫初交(まぐわい)したまう」としっかり書かれてしまっている、気の毒な方なのです~(いいですか~宮内庁)女の道は知ったけれど、男はもういらない、という続きになっていて、結婚はされなかったようなのですが。 伝承の世界の方とはいえ・・・現実味のある表現で書かれていてビックリ。 

とはいえ、卑弥呼との対比として考えると、卑弥呼も「与夫初交」しなかったとはいえない? 古代最後の女帝、孝謙・称徳天皇の道鏡の例もあるし。(著者も対比しています)

推古天皇も寵臣、三輪逆(みわのさかし)と、夫・敏達天皇の死後とはいえいい関係だったような記述があるし。

  

第四章は、「ジェンダー記号としてのヒメを読む

主に、ヒメミコのヒメについて分析していて、律令以前は王、と表記され、ミコと読み、(額田部王、長屋王など)男女の区別がなかった、皇族の御子たちが、律令以後、二世が親王(皇子)、内親王(皇女)。三世以降が王、女王、と表記されるようになったことをふまえ、ヒメミコのヒメはそれまで同じミコだった、女性のミコたちを、区別するためのジェンダー記号だった、としています。 

もっと、古来の、ある印象の、ヒメですが、オトメ、イラツメ、といしても使われる女性としての、メ、という接尾語は、律令以後、政治・軍事への参加から女性を排除する意味でいっせいに付けられるようになった、と。 

著者も、ヒコ(彦)=男性、ヒメ(姫)=女性、の人名タイプが古くからあったことを完全に否定しているわけではないのですが、この男女の使い分けが確立したのは、記紀や風土記が編纂された七~八世紀ではないか、と推定しています。 神話に出てくる神様たちの彦、媛についても慎重に見直す必要がある、としていますから、ちょっとすごいです。

他にも、卑弥呼ではないか、と言われるヤマトトトヒモモソヒメ(漢字変換大変なので省略)のことも出てきますし、日本書紀が卑弥呼に比定している神功皇后も出てきますし、卑弥呼好きの方、必読です。 

長々と書きましたが、今回、私がいちばん読んでよかったのは、彦=男性、という考えを疑う視点において出てきた、「アメノタリシヒコ」についての考察。 

いわゆる聖徳太子が派遣した遣隋使が倭王について「姓は、阿毎(アメ)字(あざな)は、多利思比弧(タリシヒコ)号して、阿輩鶏弥(オオキミ)」「王の妻は、鶏弥(キミ)と号す」と、語ったと隋書に記されている、有名なこの一節。

この一節のおかげで、いわゆる「聖徳太子は天皇だった!」とか「推古天皇は実際に政務をとっていない」とかいわれる要因になっていて、中国の史書もあてにならないな、などともやもやしていたのですが、今回、明確な答えが、この本にありました。

つまり、彦=男性ではない。 ヒコ、は日の御子、の意でヤマトにおける王たちの呼称として古くからあり、男女の区別なく使われた。「王の妻」については、隋は倭王の使者に、称号を訊ねたのであり、王の妻の称号を、遣隋使は答えたのにすぎないと。 これまでの、父系社会である中国視点というのを考えて読み合わせると、一貫した流れがあって、無理がないのが解釈としてよい。 

ひとつの考古資料や文献の一文から歴史的事実のカケラを拾い出そうとするのではなく、時代全体を鳥瞰図のような広い視点で眺め、その時代の価値観を見出し、その価値観によって作られたであろう、考古資料、文献を分析する。 史学の世界では、そういった視点が最近は重要視されているみたいです。 

時代全体をみる、となると扱う年代が長すぎて、素人にはなかなか難しい世界ですが、こういった視点で書いている歴史の本は今までと違って新鮮で面白いです。 何冊か、こういった本を読んでみようと思います。』 

古代の王朝、邪馬台国・出雲王朝・大和王朝説には興味が尽きません。

(記事投稿日:2022/09/19、#573)

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『脳医学者中田力氏の「卑弥呼」と文学博士義江明子氏の「卑弥呼」1』 『卑弥呼は「魏志倭人伝」から「記紀」の天照大神に比定できる可能性』

2022-09-18 22:47:58 | 歴史・日本

『脳医学者中田力氏の「卑弥呼」と文学博士義江明子氏の「卑弥呼」1』

『卑弥呼は「魏志倭人伝」から「記紀」の天照大神に比定できる可能性』

五つの風土記(常陸・播磨・出雲・豊後・肥前)と逸文からも、検証を』

 

日本古代史最大のミステリーと言えば、「邪馬台国論争」、中国では魏・呉・蜀の三国が覇権を競いあった三世紀に、日本列島に存在したとされる邪馬台国だが、その正確な位置はまだわかっていない。

 

日本古代史では、『邪馬台国』の存在を、いまだに研究と推論が続いています。 中国の魏志倭人伝(*)によってのみ、現在にその存在が伝えられていることから、卑弥呼などは実在していたかどうかについても議論されています。 浅学菲才の傘寿爺でも興味津々で勉強になります。

(*)魏志倭人伝は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称 

 

同書によると、邪馬台国の存在が推測されている年代は、約3世紀~4世紀です。 この時期の日本は『空白の4世紀』または『謎の4世紀』などと呼ばれており、その実態が明らかになっておりません。 文化的に大きな変化が起こっていたことは想像ができますが、未だに大きな謎が『邪馬台国の消滅と大和朝廷の成立の経緯』です。

 

この度は、表題の『脳医学者中田力氏の「卑弥呼」と文学博士義江明子氏の「卑弥呼」』との比較で調べてみました。

 

日本の歴史が始まるころの人物『卑弥呼』の実態はよく分っていないようです。

  名前:   卑弥呼

  配偶者:  未婚

  子女:   台与(卑弥呼死去後、国を治める)

  埋葬場所: 諸説あり(後に記述)

  生年/生地/没地は不明

 

脳医学者 中田力氏の『日本古代史を科学する』の中の卑弥呼

ウエブ情報から引用

中田力氏の略歴

  • 1976年 東京大学 医学部医学科 卒業。
  • 1992年 カリフォルニア大学デービス校 脳神経学 教授。
  • 1996年- 新潟大学脳研究所 脳機能解析学 教授。
  • 2002年- 新潟大学脳研究所 統合脳機能研究センター長(併任)。

著書(表題に関連)

  • 『日本古代史を科学する』
  • 『科学者が読み解く日本建国史』

 

中田氏は、複雑系脳科学者としての立場から、「条件設定と全体像での評価」という複雑系科学における検証作業の方法論を日本古代史に応用すると宣言する。

 

複雑系科学においてまず考えなくてはならないのは「初期条件の設定」である。 

その初期条件の設定として信頼できるのは、やはり魏志倭人伝と考えました。その成立の過程から見て信憑性が高いからです。

 

距離の表現では一里は60mであり、方角は上級官吏の記録ですからほぼ確かでしょう。 実際に確かめた部分と伝聞の部分を分け、そこに宇宙考古学による地形観察を重ねると、国々の位置と邪馬台国への道筋が浮かんできます。 著者は、邪馬台国を宮崎平野の日向灘付近と特定しました。

 

さてそこからは記紀の検討です。 高天原(邪馬台国)に対して素戔嗚尊の黄泉の国(出雲)の勢力があり、博多の奴国(綿津見神の国)は金印で実在が確認できます。 それらのルーツをDNAで解析すると、朝鮮半島ではなく、中国本土の上海付近と共通し、イネで調べても同様な結果でした。卑弥呼も魏の金印を貰いました(未発見)。 知識レベルは高く、中国本土と深い繋がりがあったのです。

 

王族が海を越えて未開の地に渡ったとすれば、それは国が滅亡したときしかありません。

BC473年に越によって滅亡したとあります。 呉の王族の集団が渡海し、五百年の歳月をかけて奴国を興して定着し、本土に朝貢したのです。 魏志倭人伝にも、倭人自ら呉の末裔と称したとありました。 さらにBC210年に秦の徐福が、若き貴族ら3千人を率いて渡来し、邪馬台国を建国しました。足場を固めた四百五十年後に卑弥呼が魏に朝貢し、邪馬台国は奴国を抜いて倭の宗主国となったのです。

 

出雲もまたBC334年、楚に滅ぼされた越の貴族の末裔でした。 彼らはもと呉の民でもあります。 渡海してみると、すでに呉の王族の建てた奴国があったため、さらに日本海沿いに進んで出雲、高志の地にたどり着きました。この仮説も染色体の解析で裏づけられます。

 

そこで韓半島にいた商王朝の祭祀を伝える貴族を探し出して迎えました。 素戔嗚尊の家系を継いで婿入りした大国主命です。 呉越の難民が弥生時代の出発点となったのです。 国譲りが平穏に行われた所以でした。 神武東征で大和王朝が誕生します。 そのとき商王朝の文化である祭祀の礼が天皇家に伝えられました。 神話にある血縁関係もほぼ納得できるのです。

 

先ずはこの方の、古代の王国・王朝史は勉強になりました。 今後の課題の参考にします。

①呉(姫姓周)の滅亡→奴国、

②徐福(姫姓周)→邪馬台国(日向)、

③越の滅亡→出雲(殷周の祭祀)、

④国譲り(周の王族と神官の融合)神武東征、

⑤神武王朝(周:王族父系、神官母系)、

⑥崇神王朝(新王朝、旧王朝系隼人の反乱)、

⑦応神王朝(神武王朝の復活:神官父系、王族母系)、

⑧継体王朝(王族父系、神官母系)。

 

文学博士 義江明子氏の『つくられた卑弥呼』の中の卑弥呼 

ウエブ情報から引用

義江明子氏の略歴

  • 1971年 - 東京教育大学文学部史学科卒業
  • 1987年 - 「日本古代の氏の構造」で都立大文学博士
  • 2000年 - 帝京大学文 学部教授
  • 2017年 - 退任、名誉教授

著書

  • 『日本古代の祭祀と女性』吉川弘文館〈古代史研究選書〉、1996年11月。
  • 『古代女性史への招待…“妹の力”を超えて』吉川弘文館、2004年10月。
  • 『つくられた卑弥呼…“女”の創出と国家』〈ちくま新書〉2005年4月。
  • 『日本古代女性史論』吉川弘文館、2007年2月。
  • 『古代王権論 神話・歴史感覚・ジェンダー』岩波書店、2011年
  • 『日本古代女帝論』塙書房、2017年
  • 『推古天皇遺命に従うのみ群言を待つべからず』ミネルヴァ書房、2020年
  • 『女帝の古代王権史』ちくま新書、2021年

 

人前に姿を現すことも稀な神秘的な巫女だったのか? 私たちに強く根ざしたこのイメージは、実は近代に創られたものであり、歴史の真実からは大きく異なっている。 古代の女性支配者に聖なる部分を担わせ、男が担う世俗の政治・権力闘争の世界と対置させる構図である。 本書は、『魏志倭人伝』『風土記』『古事記』『日本書紀』さらに木簡史料なども丹念に読み解きつつ、卑弥呼は政治的実権をもった王として位置づけなおし、さらには卑弥呼に象徴される古代の女性首長たちの実像を明らかにする。

 

卑弥呼の生涯から比定できる卑弥呼は日本国(倭国)国王

  • 出生は不明だが、40年続いた倭国大乱の後、189年前後に卑弥呼と呼ばれる女子が倭国の王として即位
  • 『鬼道』をもって大衆をまとめる
  • 何度か新羅に使者を派遣する
  • 232年に倭国が新羅に侵入し、新羅の王都である金城を包囲、しかし、新羅の抵抗に遭い、1000人以上の倭軍の兵士が亡くなる
  • 238年から239年に卑弥呼直属の家来・難升米を魏に派遣し、金印と銅鏡100枚を皇帝から授かる
  • 242年から248年の間に卑弥呼死去、死因は不明 
  •  

卑弥呼の時代の倭国は

卑弥呼の時代の倭国は、大変荒れていたようです。 『魏志の倭人伝』によると、当時の倭国は卑弥呼が即位するまで男性が代々王の座を受け継いでいたところ統治が上手くいかず、倭国の中で大変な騒乱が起こっていました(倭国大乱)。 しかし、倭国の中の邪馬台国から卑弥呼が即位すると、鬼道などを用いることで倭国の情勢は安定し、中国にも朝貢を行っていました。 卑弥呼の死後一度男性の王を立てると再び騒乱が起こりましたが、卑弥呼の後継者たる女性の国王を立てると、安定したのです。

 

卑弥呼が治めていた国「邪馬台国」

邪馬台国は、卑弥呼が居住していた倭国の都の国のことを指します。 『魏志の倭人伝』には当時の朝鮮半島にあった国から邪馬台国に至る道程が記されていますが、それによれば、邪馬台国は朝鮮半島から東に1000里ほど海を渡ったところにあったとされています。

 

邪馬台国の政治には、古代日本と同じように租税や賦役の制度が存在していました。 また、男子はみな身体に入れ墨を施し、髪型も男子は髷、女子はざんばら髪のように特殊な風俗感もありました。

 

当時卑弥呼は、『朝貢』という形で魏に使いを送っていました。 近世の日本でも朝貢貿易を時代がありましたが、朝貢とは『その周辺の国の中で最も権力のある国に対して周辺諸国が貢物を献上する』という意味を指します。これは、権力のある国に対して貢物を献上してその返礼を受けることで外交秩序を築くという目的があります。 やはり自分の国が外国から攻められてしまっては大変ですから、朝貢することで外交を築き上げようと卑弥呼は思ったのです。 

 

卑弥呼は占い「鬼道」を使って国を統治

卑弥呼は鬼道を使えたという記録も卑弥呼は『鬼道』という呪術的なものを使って国を治めていたことは有名な話です。 しかし『鬼道』という言葉は書物上の記述にすぎないため、その言葉が具体的にどんなものを指しているのかには諸説あります。 道教と関係があるのではないか、邪術ではないか、はたまた神道ではないか…。

 

一番の有力説としては、鬼道を『呪術』と解すことで、卑弥呼はシャーマン(超自然的存在)であり、男性が行う政治を霊媒者として補佐していたのではないか、という考えがあります。 これによれば邪馬台国は政治と神事の二元的な政治が行われていたということになり、その後の古代日本政治にもつながるのです。

 

人前に一切姿を見せない秘密主義

卑弥呼は女王に君臨すると、部屋の中にこもるようになり、そこで鬼道を操っていました。人前には一切姿を見せず、会うのは実の弟と、食事を運ぶ給仕1人だけだったと伝えられています。

そのため、女王となってから卑弥呼を見た人は極端に少なかったようです。また、卑弥呼の住む宮殿は楼観(物見櫓のようなもの)や城柵で囲まれており、建物内に入ることができる人も限られていました。

 

お墓の大きさは150m!100人の奴婢を殉葬、箸墓古墳

卑弥呼は240年代に亡くなった説が有力であるとされていますが、卑弥呼が亡くなった際、約150mの大きさにもなる墓が造設されたという記述があります。この時代は埴輪が導入される前であったので、卑弥呼の埋葬とともに奴婢100人ほどを一緒に殉葬しました。

 

卑弥呼が埋葬されたとされる墓は大きな塚であり、円墳や前方後円墳のような形をしていたのではないかと推測されていました。これらの情報をもとに奈良県桜井市の「箸墓古墳」が卑弥呼の墓なのではないかという説が挙げられています。

 

卑弥呼の功績

功績1「魏に使いを送り、金印や銅鏡100枚などを授かる」

卑弥呼は238年に自らの臣下である難升米を魏へと派遣しました。 この際に魏の王様から親魏倭王の金印と銅鏡100枚を授けられます。

功績2「70年以上に続いていた王座を巡る戦争を終わらせた」邪馬台国

 

 

卑弥呼にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「卑弥呼は日本の神様、天照大神である」説

都市伝説・武勇伝2「卑弥呼は天皇の妻、神功皇后である」説神功皇后

都市伝説・武勇伝3「卑弥呼の墓は箸墓古墳である」説

 

卑弥呼の生涯歴史年表

189年「卑弥呼、女王となる」

232年「新羅侵入」しかし軽騎兵率いる新羅王の前に倭軍は太刀打ちできず、千人もの捕虜と死者を生んだといいます。

239年「卑弥呼、難升米を初めて魏に派遣」魏から「親魏倭王」と書かれた金印と銅鏡100枚を皇帝から賜り、これにより、魏より倭国の女王であることを承認された。

240年「帯方郡より使者が倭国に訪れる」前年の派遣の返答として、魏の使いが倭国を訪れ、この時卑弥呼は皇帝からの詔書や正式な印綬を賜った。

247年「狗奴国との戦い」邪馬台国と敵対していた倭人の国、狗奴国との戦が始まり、この時、卑弥呼は載斯や烏越を帯方郡に派遣し戦の開始を報告。 一方で魏は張政を倭に派遣、239年に初めて派遣された難升米に詔書や黄幢を授与しました。

240~249年「卑弥呼死去」

卑弥呼が亡くなり、これにより男性の王が即位しますが、ここで再び内 乱が起き、その後卑弥呼の後継者である壱与という女性が即位することで治まったと言います。

287年「倭軍が新羅に攻め入る」

当時倭国は食料に困窮していたため、新たな土地を探そうと新羅に郡を 派遣、新羅を火攻めにし、この時新羅兵を千人程度捕虜としたと言われています。

 

古代の四王朝(神武・崇神・応神・継体)説には興味が尽きません。

(記事投稿日:2022/09/18、#572)

 

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『東洋のドーバー「屏風ヶ浦」の「通蓮洞」は、江戸時代に海底へ』ー名画「スタンド・バイ・ミー」の冒険物語の世界」が、ここ通蓮洞探検ー

2022-09-16 06:50:25 | 地球・火山・地震・津波

『東洋のドーバー「屏風ヶ浦」の「通蓮洞」は、江戸時代に海底へ』

『名画「スタンド・バイ・ミー」の冒険物語の世界」が、ここ通蓮洞探検』

東洋の『ドーバーばばぁ』と英国の『セブン・シスターズ』の紹介の前に、ほんの少しアカデミックなところを比較してみました

 

           東洋のドーバー   ドーバーの

                                     『屏風ヶ浦』     『セブン・シスターズ』

岩石の種類      砂と砂岩        石灰岩

色          茶色          白色

高さ         30-60ⅿ         50-150ⅿ

浸食速度       年間約50-70㎝      年間約10

浸食抑制       消波ブロック・遊歩道  なし

所謂、地球の表面積の約70%は海で、海洋の平均水深は約3,700ⅿ、陸地の平均標高は約840ⅿですので、遠い将来には『本当の「水の惑星」』になります。 平均標高と平均水深などどうやって計算したのか考えると、また、近いうちに『国会図書館の地図部』にお世話になりそうです。

 

 先ずは、折角ですので欧州の本物のドーバーを紹介します。 ユニークな、エピソードは、日本の『ドーバーばばぁ』です。 2010年9月17日午前6時45分、イギリスのドーバー海岸から第一泳者が泳ぎ出した。 1時間ずつ、6人が、交代で泳ぎ、1人でもリタイヤすればその時点で挑戦は終了。 12時間後には太陽は沈んだが、暗闇の中を進む。 フランス側の海岸にゴールしたのは午後9時4分、14時間22分かかった。 

 遠泳と言えば、九十九里海岸の飯岡育ちですので、海峡でも、湾でも、見れば、知れば、横断したくなりますが、成功したのは、香港の浅水湾(Clear Water Bay)から深水湾(Deep Water Bay)への遠泳ぐらいで、後はすべて、①エントリーできず(香港のビクトリア・ハーバー横断、東京湾の一部の横断)または、②強制中断(房州大原港から大東岬へ遠泳)でした。

 さて、このドーバー海峡の英国側の海岸にある崖を、さすが紳士のお国柄、『セブン・シスターズ』と名付け、それも『夕暮れのセブン・シスターズ』と呼び、称えた。

『セブン・シスターズ』ウエブ情報(セブンシスターズの画像)から引用
 

「屛風ヶ浦」([写真]左端に刑部岬の飯岡灯台)、から銚子市までの海岸線に、長さ約10㎞、高さ35ⅿ-60mの白い断崖絶壁が、英国のドーバー海峡の崖に似ているので、『東洋のドーバー』と呼ばれている。
 ウキペディアから引用

千葉日報からの抜粋                                                     
 屏風ヶ浦は、下総台地が波浪や風雨によって削られてできた海食崖。 自然侵食によって年間50㎝~1mベースで崖面が削られ、九十九里浜の砂を供給していたとされる。 1960年代に構築が始まった、崖際の消波ブロック・遊歩道で浸食は抑えられているが、反面、九十九里浜への砂の供給は減り九十九里浜は後退し深くなって来ている。 今でも所有者のわかる土地が海の底にあると言われ、鎌倉時代の海岸線は現在より数キロメートル先だったという。   

 何と、数世紀の間に、数十メートルの高さ、幅十キロメート崖が、数キロメートル後退した。 国会図書館『地図部』のお邪魔常連の自分としては、この屏風ヶ浦の浸食履歴と『昔の海岸線』は今後の調査課題です。 昔、遠浅の九十九里浜は大潮時にはかなり沖まで潮が引いたことを覚えています。 後退する九十九里浜の海岸からいろいろ、考えさせられます。

 2011年3月11日の東北地方三陸沖地震の飯岡津波の被害が、『入り江もなく遠浅』の飯岡海岸で、大きかったのは、津波の第一波が九十九里の西端の大東岬で反射し、その反射波(というより、むしろ海岸流が正しい、土地の人々が津波は西からも来たといった)と第三波(東から来た)が飯岡港沖でぶつかり合成波になり、波高7.6ⅿにもなった。 一般に、津波の合成波は,岸とは平行になりますが、飯岡の場合は、ほぼ直角でした。この合成波は、幅が狭く、合成部分が盛り上がり、飯岡津波の被害は下永井地区の狭い範囲に集中した。

 地震津波の合成波が飯岡津波のケースのように起こることは『稀有』のことと、いまだに信じています。飯岡津波の合成波再発がないことを祈っています。
屏風ヶ浦の旭市飯岡と銚子市の境に位置する潮見川の西側に通蓮洞『挿絵と解説』があります。

 

ウエブ情報の抜粋です。この風景は、多分江戸時代のものです。            
[挿絵(ウエブ情報の通蓮洞の画像から引用)と解説] 


 
 銚子と飯岡の境に洞穴が出来て、下の海水が見えるので通蓮洞と呼びました。絵の中央付近に人が洞を見ている姿が描かれています。 旅人は、屏風を立てたような関東ローム層の崖と洞穴・絶景の眺望に旅の疲れを癒したことでしょう。 しかし、地元民は怒濤押し寄せる浸食は、「延命姫の怒りだ」と伝説物語に加筆をしたりします。 やがて穴は広がり陸地と離れ島ができます。             

 この島は、ハイスピードの海岸後退で、既に存在しません。 故郷の飯岡に、こんな伝説がありました。 通蓮洞に関わる悲恋物語『ウエブ情報』です。                            

 陰陽師の安倍清明と夫婦になった長者の娘の延命姫は醜い顔の痣のために清明に嫌われ、逃げられてしまいます。 後を追った延命姫が通蓮洞のところに行ってみると、そこには清明の衣類と草鞋が残されていました。 絶望した姫は清明をしたって海に身を投げてしまいました。 然し清明は死んでおらず、姫を騙したという『悲しい物語』です。                       

 安倍清明が飯岡に住んだという記録もなく、多分、当時、日本に大勢いた陰陽師達の作り話と言ってしまえば、それまでですが、『観光案内』では、こうも言っています。 『美男の安倍清明が長者の家に滞在した時に、長者の娘がこの美男に一目ぼれし、『逆夜這い』をかけ、翌朝に『酷い顔の痣』がばれて、清明が逃げ出した。』

 この時代、『逆夜這い』など無かったと思いましたが、否、平安時代からありました南方伝来の風習で、特に、西日本で広範囲にあった『妻問い婚』です。
さて、最後にローカル且つ昔の話です。 千葉県旭市と旧飯岡町の間にあった旧三川村の子供たちにとって、ずっと後で公開された、かの有名な名画『スタンド・バイ・ミー』のほろ苦い子供達の冒険物語のような世界が、この『通蓮洞探検』でした。

[写真2] ウエブ情報(通蓮洞の画像)から引用
 通蓮洞探検の最終ターゲットの『崖の上の洞窟』


 この写真、崖の途中の洞窟・穴を一部の人達は、通蓮洞の跡といわれますが、記録・伝説・昔話によれば、これでは無さそうです。 

『通蓮洞探検』は、旧飯岡町刑部岬直下から通蓮洞(正確には通蓮洞跡)まで約3kmを、35-60mの垂直の崖に沿って干潮時に現れる数メートル幅の砂浜を徒歩行で通蓮洞まで行き、縄梯子で『崖の上の洞窟』経由で屏風ヶ浦の台地に出て三川村に戻るものでした。

 ガキ大将(自分・小学校6年)が、低学年生数人を引き連れて、当時『消波ブロック・遊歩道』もない、崖際には、崩れ落ちた青壁の塊が斜めに積みあがっており、その海側に干潮時に現れた数メートル幅の砂浜を急ぎますが、通蓮洞に到着したころには『潮が上げ始めてきて』その恐怖で、餓鬼どもが泣きだし往生し、脱兎のごとく崖際のもと来た崖下ルートを逃げ帰って記憶があります。 結局、通蓮洞の崖の洞窟ルートは登れませんでした。 今でも『あの時の恐ろしさ』を、自分も仲間も、夢に見ます。
(記事投稿日:2020/04/20、最終更新日:2024/11/24、#156)

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『塔(継承と改革 息づく匠の精神) 4(古代日本 塔の来歴)』『「日本で唯一」二層、三層へと登ることができる安来市清水寺』

2022-09-08 23:24:26 | 寺院・神社・教会

『塔(継承と改革 息づく匠の精神) 4(古代日本 塔の来歴)』

『「日本で唯一」二層、三層へと登ることができる安来市清水寺』

 

先般(2020/03/08・03/15・03/22)、日経新聞の日曜日版に美の粋という特集があり、『古代日本 塔の来歴』を掲載していました。


日本の塔は2層から上には上ることを想定していない造り(吹き抜け)だということを知りませんでした。 裳階(仏堂・仏塔などの軒下壁面に取り付けた庇状の構造物)辺りに見える回廊のようなものは、単なる飾りのようです。塔は、観たときには、上りたいと思いますが、上るものでは無く、下から見るものようです。

 

余談ですが、世界盆栽展の最優秀作品を大勢の観客の後ろから呆然と見ていたら、『南ア』から、来日された講師の方から、突然教わったこと、『盆栽は下から見て、巨木に見えるものが良い』とアドバイスをいただきました。 盆栽ズブ素人のアラ傘寿(当時)には、『目から鱗』で即納得でした。


通常、五重塔、三重塔の内部は、立ち入り禁止です。 いつでも、そうですが、特例はあります。 通常、仏塔の中は基本的に非公開で立ち入り禁止ですが『日本で唯一』二層、三層(最上階)へと登ることができる階段が設けられていて『塔の中に入って最上層へと登り「外に出る」こともできる』仏塔が島根県の安来市にある清水寺(きよみずでら)です。

 

安来市清水寺

ウキペデイア情報から引用

天台宗の寺、山号は瑞光山(ずいこうざん)。 中國観音霊場第28番札所、出雲観音霊場第27番札所、出雲国神仏霊場第11番札所。 開山は尊隆上人、本尊は十一面観世音菩薩です。

大阪市堺市中区土塔町の大野寺土塔

塔として、瓦や石で作った仏塔もあるという。 土塔と呼ばれるこれらの塔の存在すら私は知らなかった。 堺市にある土塔は1辺53m、高さ9m、頂部まで13の階段が設けられた13層。 727年、行基によって創建。 これを『ピラミッド』と呼ばす『土塔』と呼ぶ、先哲の方々の敬意と同時にエジプトの影響がここまで及んでいることに驚きました。


平成9年周辺発掘調査時の土塔

ウエブ情報から引用

 

土塔(北西隅より)

ウエブ情報から引用
大野寺は行基(ぎょうき)が建立したといわれる。

行基668-749 飛鳥(あすか)-奈良時代の僧。 和泉(いずみ)(大阪府)の人、百済系渡来人の末という。 義淵(ぎいん),道昭に法相(ほっそう)をまなぶ。 各地で布教のかたわら架橋,築堤,池溝開削,布施(ふせ)屋の設置などにつくして多数の信者を得,菩薩(ぼさつ)とあがめられる。その活動は百姓をまどわすとして一時禁圧されるが,聖武(しょうむ)天皇の帰依をうけ,天平15年東大寺大仏造営の勧進(かんじん)をおこなった。 17年わが国初の大僧正。畿内に49寺院をひらいた。

 

同じような塔・遺跡が岡山県の赤磐市熊山遺跡の山頂にあります。 割石を3段に積んだ、1辺は8m、高さ3.4mの「龕」(仏像を納める区画)を持つ構造だ。

全国唯一の石積遺構

ウエブ情報から引用
この塔の源流はどこかと云う事は分からないらしいが、インドネシアのボロブドール遺跡の名前も類似としてあげられていた。

ウエブ情報から引用

『所変われば・・・』では済まされない、文明・文化の交流は凄いです。

(記事投稿日:2022/09/08、#571)

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『塔(継承と改革・息づく匠の精神) 5(十五重の石塔が意味するもの)』 『十五重の石塔は非常に珍しく、世界唯一! 他に、あるかが課題?』

2022-09-07 17:11:01 | 寺院・仏閣・神社・お社

『塔(継承と改革・息づく匠の精神) 5(十五重の石塔が意味するもの)』

『十五重の石塔は非常に珍しく、世界唯一! 他に、あるかが課題?

『前田利常公由来の小松天満宮に、貴重な十五重の石塔が存在』 

この度は、世界で唯一ともいえる『十五重の石塔は非常に珍しく、世界唯一!』を調べる中で分かりました。 天満宮のこと・菅原道真のこと・北陸の雄藩『加賀藩前田家』と天皇制との関わり合い等、日本歴史の奥深さと、『凄さ』を知りました。

梅原猛著の『塔』への興味を、まだまだ追いかけます。 仏塔の源流は仏舎利を納めるインドのストゥーパ。 大陸や朝鮮半島には、古い木造仏塔が現存せず来歴がはっきりしない、大切なのは『相輪』であり、塔の木造部分は単なる土台だと表現される。 

『相輪』は、仏塔の頂上の飾りで,インドの後期ストゥーパに起源。 木造塔では青銅製、鉄製が多い。 構造は伏盤、伏鉢、請花、九輪(宝輪)、水煙、竜車、宝珠からなる。

 

十五重(じゅうごじゅう)の石塔『小松市の文化財』

種別 小松市指定文化財 建造物

指定日 昭和40年11月3日

所在地 小松市天神町(小松天満宮)  

この石塔は、小松天満宮の本殿に向って 右にあり、総高は 7.24m。 加賀藩の重臣・本多政長が書いた『梯天神 霊験記』にこの石塔の存在が記されており、 石塔が明暦3年(1657)の小松天満宮の創建と同時期に建立されたものであることが分かっている。 石材は現在の金沢市坪野町で産出される 流紋岩(坪野石)である

                                     ウエブ情報から引用              ウエブ情報から引用 

流紋岩(坪野石)は,花こう岩と同じく,ケイ酸分 (SiO2)を多く(70%前後) 含む粘っこいマグマからできるが,花こう岩はそれが地下深部でゆっくり冷えて固まってできるのに対し,流紋岩はそれが地表付近で急に冷えて固まるなど,主に火山活動でできる。 流紋岩はきめが細かく,堅く,水がしみ込みにくく,侵食作用に耐え,丘陵地を構成する場合が多い。 

この石は黒色で 石質が非常に硬く、茶臼や薬研に重用され たが、利常の時代からは、藩主専用の石材とされ、藩用以外の採掘が 禁じられていた貴重なものである。 初層軸部は、高さ・幅とも 88 センチで、 頂点を大きく面取りし、中央には円孔が穿うがたれる。 その上に重ねられた15層の屋根は上部にかけて徐々に幅が小さくなり、軸の内部には空間を作り、柱を通している。 通常仏塔では三重や五重、七重の塔が一 般的であり、十五重の層を重ねた塔は日本 では他に例を見ない。 他に類例の見ない意匠と、7メートルを 超える十五層の石塔を直立させる高い技術 は貴重なもの。

小松天満宮の社地内には紅白合わせて100本ほどの梅が植えられていて、3月初旬にはほんのりと梅の香を漂わせる。 現代では日本の花といえば「桜」を思い浮かべる人が多いかもしれないが、古代の日本人にとって花といえば「梅」だった時期がある。 万葉集ではハギについで梅が多く歌われ、百余種収録されており、桓武天皇が平安遷都をした際に紫宸殿の前に植えたのも最初は梅だったようだ。

古代から日本人に愛された梅だが、最も梅を愛した日本人として有名なのが菅原道真公かもしれない。 菅原道真が、901年に大宰権帥(だざいのごんのそち)に任ぜられ、京を発つ際、邸宅(紅梅殿)に植えてあった梅に『東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ』と和歌を詠むと、後年、梅は道真を慕って京から太宰府まで飛んでいったという話は、飛梅伝説として有名。 

黒岩重人氏の『十五重の石塔の意味するもの「陰陽五行の視点から」』抜粋と引用

この塔は、何の為に建てられ、それは、どのような意味を持つもの

「小松天満宮等専門調査報告書」では、この塔について、次のように述べている。「塔というものは本来仏寺に於いて建てられるもので、釈迦の墓を表わす相輪を受ける台なのである。 ここでは相輪が無くそのかわりに宝珠をのせている。 七重、九重、十三重迄は多く造られたが、十五重と云うのは非常に珍らしい塔と云えるものである。

相輪をのせずに宝珠をのせると云う事は、ここでは塔本来の意味を失ってしまってあくまでも境内の荘厳の為の一つの飾りとしての塔が造られたものと見た方が良いのである。
つまり、

1)十五重の塔は、非常に珍しいものであること。

2)相輪をのせずに宝珠をのせると云う事は、仏塔としての意味を失っているということ。

3)したがって、この塔は、境内の荘厳の為の飾りとして建てられたものである。

と言うのである。

塔の建っている位置と、塔の形状

社地の中央にあるということは、この塔が、天神の聖なる空間の要であるということである。 易のことばで言えば、太極であるということであり、河図・洛書の中央の位を象ったものであると思われる。

ところで地は、厚くして万物を上に載せ、その形は四角である。 天は、地を覆いてその上を巡り、その形は円である。 台座の正方形は、地の方正なるに象ったものであり、その上に置かれた円盤型は、天の円形に象ったものであろう。
「天は円にして、地は方」という考えは、中国思想の伝統的な世界観である。 古くは、古墳時代の前方後円墳も、この世界観によるものである、と言われている。また近くは、昭和天皇の御陵も、方形円墳と聞いている。

十五重の塔の形も、それらと同じように、「天円地方」の世界観のもとに、天地を象ったものであろうと思われる。 そしてそれは河図の中央の数「天五・地十」を暗示しているといえよう。

塔の位置が社地の中央、形が、天地を象ったもの
1)易の蓍策の数  

                                                           
太陽の数九と、太陰の数六を合わせると、十五。 少陰の数八と、少陽の数七を合わせると十五。 つまり陰陽相対峙するものを合わせると、十五の数になる。
十五とは、天(陽)と地(陰)の合した数なのであり、これも又、天地を象ったものである。

2)河図の数河図における「十五」の数とは、それはとりもなおさず、中央の生数五(天)と成数十(地)を合わせた数であり、五行においては、五も十も共に土の数ということになる。

3)洛書の数
洛書とは、むかし禹王が、これも伝説上の人であるけれども、水を治めるときに、洛水から神龜が出で、その背にあったという文様のことである。 それには一から九までの数が画かれてあり、禹はそれに則って、九疇(天下を治めるための九つの大法)を定めた、とされている。

十五重の塔に秘められた意味
1)
社地の中央に建てられており、「中央の土」に象ったものであること。
2)その形は「天円地方」の天地を準えたものであること。そしてそれは、河図の中央の
「天五・地十」の数を導き出すものであること。
3)そして「十五」の数は、太陽(天)と太陰(地)の合数であり、更にそれは河図の
天五・地十」の数、および洛書の鬼門線の八・五・二の「土気の数」に基づいていること。 そしてこれらの3点は、結局のところ一つのことに集約することができる。それは、
4)、この十五重の塔の建てられた目的は、天神の聖なる空間を護るためであること。

小松天満宮の社地は、低地の湿地帯に盛土をして造成したものであることは、ボーリング調査によって明らかにされている。強固な地盤では無いが故に、社地を水気から護る必要がある。「水気」に対抗するには、「土気」を強めなければならない。五行においては、「土剋水」と、土気は水気を剋し、勝つことができるからである。 

もともと洛書は、禹が洪水を治めた功によって、天から授けられたもの、と伝えられている。その洛書に則って作られたこの十五重の石塔が、治水の目的をもっているということも、不思議なことではないであろう。 

天満宮には、現在梯川の治水の為の、移転問題がふりかかっている。 治水のシンボル的存在としての「十五重の石塔」を動かして、「治水を!」と言うのは、本末顛倒も甚だしいということになりはすまいか。            

『塔』への興味はまだまだ続きます。

(記事投稿日:2022/09/07、#570)

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