知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『古大陸の四大文明に匹敵する、プレインカ文明が新大陸の南米ペルーに』 ―ヨ-ロッパ中心の歴史は、古代文明のあった南北アメリカを新大陸と呼ぶ―

2023-04-18 07:20:37 | 歴史・世界

『古大陸の四大文明に匹敵する、プレインカ文明が新大陸の南米ペルーに』

ヨ-ロッパ中心の歴史は、古代文明のあった南北アメリカを新大陸と呼ぶ 

日本の縄文時代にハマっているときに、凄いニュースでした。 『北海道・北東北の縄文遺跡群』について、ユネスコの諮問機関は2021/07/27に,世界遺産委員会で世界文化遺産に登録。 最近、さらに気になったのは、南北アメリカの中の、メキシコと中南米の古代の歴史が脚光を浴びており、こちらも興味津々です。

 

古大陸の四大文明

  • 黄河文明:紀元前5000~2000年頃
  • メソポタミア文明:紀元前3500~1900年頃
  • エジプト文明:紀元前3000~1000年頃
  • インダス文明:紀元前2500~1500年頃

 

脚光を浴び続けた古大陸の四大文明に匹敵する文明が南米にありました。 

プレインカ文明・アンデス文明・インカ文明と、自分の中では、錯綜していましたが、最近プレインカの凄さが解かってきましたので、『プレインカ文明+インカ文明=アンデス文明』と理解・納得してプレインカ文明を調べていきます。

 

その先には、タフな課題・沢山の南北アメリカ古代文明があります。

 

『メソアメリカ文明』

オルメカ文明(前10世紀〜850年頃)

メキシコ湾岸に栄えた中央アメリカ初の都市文明。絵文字を使った。

テオティワカン文明(前2世紀〜後6世紀)

メキシコのテオティワカンに栄えた文明。 ピラミッドを造営。

マヤ文明(6〜14世紀)

ユカタン半島の古代文明。 マヤ文字や階段ピラミッドを造営。 スペイン人に征服された。

トルテカ文明(6〜10世紀)

テオティワカン文明後に成立。 後に分散した。

アステカ文明(12〜16世紀)

都テノチティトランを中心に栄える。 ピラミッドや象形文字、太陽暦を使用。 1521年、コルテスによって滅ぼされた。

 

 

『アンデス文明:プレインカ文明+インカ文明』

カラル文明

(前3000年〜前1800年頃)

チャビン文明(前1000年頃)

今回、NHKBSの再放送で紹介された『四大文明』に匹敵する

文明。

 

ペルーにおこった古代文明。 アンデス文明のさきがけとなった。

ワリ文明(500年〜900年頃)

チャビン文化消滅後ペルー中部に栄えた古代文明。

モチカ文明(100〜800年頃)

チャビン文化の後、ペルーで栄えた古代文明。

ナスカ文明(1〜8世紀)

ペルーのカワチ遺跡周辺に栄え、地上絵を残した。

ティアワナコ文明(1〜12世紀)

ボリビアで栄えた古代文明。

チムー文明(12〜15世紀)

モチカ文明を継承。 インカ帝国に滅ぼされた。

インカ文明(1200年頃〜1533年)

ケチュア族が首都クスコを中心に建国した大帝国。 高度な石造技術と青銅器、キープを使用した。 著名な遺跡がマチュピチュである。1533年、ピサロに滅ぼされた。

 

大ピラミッドコンプレックスとカラル遺跡コンプレックスの縄張りの比較です。

 ❶カラル遺跡コンプレックス:紀元前3000~1800年頃

    コンプレックスの総面積:66ヘクタール 

 人口:数万~十数万人

ウキペデイア情報から引用

 

 ウキペデイア情報から引用

 

大ピラミッドコンプレックス:紀元前3000~1000年頃

 コンプレックスの総面積:180ヘクタール

 推定人口:数十万~百万余人

ウキペデイア情報から引用

 

 ウキペデイア情報から引用

 世界四大文明と同じ時期、南米ペルーで栄えた古代アンデス文明。 2009年に世界遺産に登録された。 カラル遺跡は、66ヘクタールの広さに10のピラミッドが建ち、3千の人々が暮らしていたと見られる南北アメリカ最大規模の遺跡。

 南米大陸、ペルー を中心とする 太平洋 沿岸地帯およびペルーからボリビア へつながるアンデス中央高地 に存在した文明。 メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明といったいわゆる世界四大文明などと異なり文字は持たない。 今まで親しんできた、アステカ文明・マヤ文明・インカ文明をもう少し調べてみたいと再認識しました。

(記事投稿日:2021/06/06、#341)

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『文学者と医学者と科学者が見た、縄文・弥生・古墳・奈良時代 2』 『邪馬台国の女王 卑弥呼が、貢物を「魏王」に、西暦239年、貢物を献上、魏帝国の正史にとされる「三国志魏志」に記録ある』

2023-04-15 18:38:37 | 日本・歴史・先史-古代

『文学者と医学者と科学者が見た、縄文・弥生・古墳・奈良時代 2』

『邪馬台国の女王 卑弥呼が、貢物を「魏王」に、西暦239年、貢物を献上、魏帝国の正史にと

    される「三国志魏志」に記録あるも、当時日本には文字なし』

 

『歴史再発掘』の著者、副島孝彦氏はこう言っています。 今の日本は、『天皇家(皇室)以外は、皆、平等で、皆、平民、一般人、普通の人たち』という、疑似民主政体デモクラシー)で、デモクラシーと、王国の2重構造、入れ子構造の国だ。 このことは、私の、重要な本である、「愛子天皇待望論」弓立社、2022年刊)に書いた。』そうです。

 

日本の天皇制の歴史は2700年~、皇室は世界最古で唯一「天皇(Emperor)」の称号を持つ。 令和に即位した今上天皇は「126代目」になります。 日本の天皇制の歴史は2700年~、この天皇制にはおける遷都の回数と理由は、今後の課題です。

ウエブ情報の引用

 

副島隆彦氏はこの本の『まえがき』でこうも、言っています。 

『歴史は再発掘されるべきである。 今も隠されたままなっている、大きな真実が土中に埋められている。 それらを敢えて掘り出して、白日の下にさらけ出すことを、私は常に決意してきた。 故松本清張氏の晩年の長い連載作品に「昭和史発掘」週刊文春に連載。 1964-1971年がある。 この歴史発掘という言葉に私は魅かれて、これにあやかろうと思った。 それでこの本の書名となった。』

 

副島隆彦氏の著書『歴史再発掘』の抜粋引用です。

『邪馬台国論争の最前線、

(1)「畿内説」(内藤湖南派)京都大学の学者たちが唱えた。  邪馬台国は奈良県の南にあった。 やや奇抜だが、「畿内説」(奈良盆地説)が近年急激に巻き返したのは、奈良盆地の「纏向(まきむく)遺跡」の中の「箸墓(はしはか)の古墳」が卑弥呼の墓という説。 この古墳は日本最古の前方後円墳でもある。 箸墓古墳はヤマト王権最初の王墓と考えられている。 宮内庁は孝霊天皇の皇女の墓として管理。

 

(2)「九州説」(白鳥倉吉派)主に東京大学の学者たちが主張した。 大陸や朝鮮半島に近い北九州の当たりにあった。 有力であるが、問題は、邪馬台国は3世紀であることははっきりしている。 これが6世紀の畿内の大和朝廷とどのようにつながるか。』

 

『天皇や皇太后葬った「陵(みささぎ)」と、それ以外の皇族の「墓」などからなり、合計850。 他に被葬者を特定できないが陵墓の可能性がある「参考地」が46ある。 皇室用財産として宮内庁が管理する。 明治憲法公布直後の1889年に古墳時代の天皇陵がすべて定まり、その後の変更はない。』

 

『西暦57年邪馬台国『倭奴国』「漢倭奴国王」の金印(見つかっている)「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う」筑前国那珂郡志賀島村東南部(現福岡県福岡市東区志賀島)、1784年4月12日発見された。』

ウエブ情報の引用

西暦239年、邪馬台国『倭国』「親魏倭王」の金印(見つかっていない)

邪馬台国は中国の文献に出てくるコトバだ。 邪馬台国は、中国古代の「魏」という帝国の時に、邪馬台国の女王・卑弥呼が、貢物を「魏王」に、貢物を献上している。 それは西暦239年。 このことが魏帝国の正史にとされる「三国志魏志」の中の第三十の「東夷伝倭伝」にある。

 

その中に、「倭の女王の卑弥呼から、朝貢使が来た」と書いてある。 それに対して、魏の皇帝が、「親魏倭王」という称号を「倭の女王」に与え、承認した

だから邪馬台国は倭国である。 この時国王としての称号と。金の印鑑「親魏倭王」の金印をもらっているが、この金印は見つかっていない。

 

西暦247年、卑弥呼は「狗奴国が攻めてくるので助けてください」と魏の皇帝に使いを出している。

 

狗奴国が攻めてくるというのは、おそらく「熊襲」と呼ばれていた、今の熊本や鹿児島に住んでいた人たちだと私は思う。 魏は助けには来なかったが、錦の御旗を送ってきた。 このあと「倭国は大きく乱れた」と「魏志倭人伝」に書いてある。』

 

この「魏志倭人伝」の情報から、邪馬台国が九州南部であった可能性が高くなります。 熊襲のウエブ情報です。

 

熊襲(くまそ)は、日本の記紀神話に登場する、現在の九州南部にあった襲国(ソノクニ)に本拠地を構え、ヤマト王権に、抵抗したとされる人々、また地域名自体を表す総称である。 古事記には熊曾と表記され、日本書紀には熊襲、筑前国風土記では球磨囎唹と表記される。

 

『私、副島隆彦は、どう考えてもこの邪馬台国(倭国)は、北九州の当たりだと考える。 今の福岡市そのものだ。 邪馬台国(倭国)は、紀元前100年から紀元後663年(白村江の戦いで大敗)までは存在しただろう。 

 

朝鮮半島の南の沿岸部一帯にも倭人は住んでいた。 だからこの辺りも倭国だ。 北九州一帯と同じ言葉を喋って同じ文化だったろう。 漁労民(海洋性の民族)だったろう。 だから、倭国というのは、今の釜山を含む南のほうと北九州一帯と、今の山口県のあたりまで含んでいた。

 

 百済という朝鮮半島で一番大きな国があって、倭国は百済の弟分のような国だった。 両国民は言葉が自然に通じたようだ、 2600年を遡ると、日本語と朝鮮語は同一だったようだ。

 

大和とヤマト

前述したとおり、西暦200年代の「邪馬台国は大和(ヤマト)だ」と言って奈良盆地に無理やり決めてしまおう、という動きが文部科学者の文化審議会を牛耳る頑迷な古代史の学者たちから出ているのが今の今の動きだ。

 

中国から、この「大和」(大きな平和)という漢字を700年代にもらってきてそれを「やまと(山門)」という日本の土地の言葉に覆いかぶせた。 そして、漢字の大和と読ませた。

 

北九州あたりにあった邪馬台国(倭国)がいつ滅んで消えてなくなり、いつの間にか奈良盆地が、日本の中心で大和朝廷・ヤマトになったのか。 西暦300年代、400年代か、500年代には『山門・ヤマト(奈良盆地)』が中心だ。

 

西暦400年代の100年間は、今の難波(大阪)や、その南の河内地方に大王(おおきみ)たちが大国をつくっている。 これが仁徳天皇や雄略天皇。 中国側の文献『正史宋書』では『倭の五王』と言われる。

 

西暦663年の『白村江の戦い』のとき、2万8000人の全軍を出して大敗北したとき倭国(倭国連合の中心に卑弥呼の子孫の邪馬台国があったか? 夢のある課題が残った。)は滅んだ。 

 

北九州北部の邪馬台国の旅は、国土地理院地図とグーグルマップで我慢して、ますます、卑弥呼と邪馬台国のこと調べたくなりました。      

(記事投稿日:2023/04/15、 #648)

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『卑弥呼は邪馬台国を支配し、中国皇帝から認められた「倭国の王」』 『卑弥呼と邪馬台国の理解には、縄文時代1万年の文化と芸術の理解が必要!』

2023-04-15 11:14:29 | 歴史・日本・古代

『卑弥呼は邪馬台国を支配し、中国皇帝から認められた「倭国の王」』

『卑弥呼と邪馬台国に関する記録もお墓も、日本では全く見つかっていない!』

『卑弥呼と邪馬台国の理解には、縄文時代1万年の文化と芸術の理解が必要!』

 

卑弥呼・邪馬台国よりずっと大昔の、縄文時代は、紀元前1万3千年ころから約1万年以上もの長い間続きました。 さらに、ユネスコ第44回世界遺産委員会は 7月27日、「北海道・北東北の縄文遺跡群」について、

 

  1. 人類史上まれな農耕以前の定住社会と豊かな精神文化が育まれていたことの物証であること
  2. 長期間にわたり継続した採集・漁労・狩猟を基盤とした定住社会の変遷を網羅していること

 

などを評価し、世界遺産への登録を決定。 日本では25件目の世界遺産に、文化遺産としては20件目となった。

 

それに反して、卑弥呼・邪馬台国については、卑弥呼(ひみこ、生年不明 – 242年~248年)は、『魏志倭人伝』等の古代中国の史書に記されている倭国の女王で、邪馬台国に都をおいていたとされる。 諱(いなみ・生前の実名)は不明で、封号は親魏倭王。 とあり、日本には記録がなく、中国にあることが、日本歴史の不思議です。

 

田中英道氏の著書『発見! ユダヤ人埴輪の謎を解く』関連情報の抜粋・引用です。 縄文人とそのルーツを調べれば『卑弥呼・邪馬台国』が見えてくるかもしれません。 楽しみが増えました。

ウエブ情報の引用

戦後、日本文化が朝鮮、中国文化から来た、という考え方を研究者に植えつけられ、秦氏は新羅出身であるとか、中国からやって来たと、一般に考えられているが、そうではないのです。 なぜDNA鑑定で、日本人がユダヤ人に近いD2があるのか。 それがユダヤ人埴輪の存在で、初めて跡付けられました。 どうして日本人と朝鮮、中国の文化とが異なるのか、わかったのです。

 

卑弥呼の“謎”

中国の歴史書『魏志倭人伝』に記された、日本史初の女王・卑弥呼、『邪馬台国』を支配し、中国皇帝からも認められた『倭国の王』である。 しかし不可解なことに、卑弥呼に関する記録も、お墓も、日本では全く見つかっていない。


一国を支配するほどの権力者であれば、死後、地域の神社で祀られるのが普通だが、日本各地の神社にも、遺跡にも、卑弥呼が存在した痕跡が一切見当たらないのだ…(*日本では、聖徳太子や菅原道真、平将門など、国を直接治めていない偉人でさえも、鎮魂の祈りをささげるため、神社がつくられてきた伝統がある)

 

また、“邪馬台国の人々の顔や身体には刺青がある”と『魏志倭人伝』には書かれているが、当時の遺跡や遺物をいくら調べてみても、刺青をしているような痕跡はほとんど確認されていない…。

 

ちなみに、著者の陳寿という中国人は、実は日本に来たことはなく、伝聞のみ。つまり“フィクション小説”として、この作品を記したようだが…。 一体、卑弥呼とは何者だったのか? 本当に邪馬台国は存在していたのだろうか?

 

「君が代」「ソーラン節」「相撲」など…実は、ユダヤ人の言語と日本語には、似たような共通点が多数存在。 伝統・習慣でも類似点があるなど、両者には何らかの関係性があると見ることもできる。 果たして、遥か昔、ユダヤ人は日本にやってきていたのだろうか? 

 

日本人の起源の“謎”

近年、最新のDNA分析によって、日本人のルーツとされる縄文人のDNAが、周辺アジアの民族とは“ほとんど一致しない”という事実が明らかにされた。


これまでの通説では、中国・朝鮮・東南アジアのいずれかの民族が縄文人の起源と考えられていたが、それらとは全く異なるタイプの民族が、すでに日本に存在していたことがわかったのだ…。

 

では、いったい縄文人とは何者だったのか? そして、われわれ日本人の祖先はどこからやって来て、どのような変化を遂げてきたのか?

古代史に残された数々の謎…。

 

それらを解き明かす“鍵”とは…。

これらの謎の答えは、従来の歴史教科書や、文献だけに頼る研究からは決して見つかりません。 日本の古代史に残された「謎」の数々。それらを解き明かす鍵とはいったい何なのか?…。

 

「西洋美術史研究の第一人者」と呼ばれ、50年以上、歴史研究の最前線で 評価を受ける田中教授は、こう語ります…。

 

教科書では、縄文から弥生時代まで、日本人は原始的な生活を営んでいた。そこに大陸や朝鮮半島から稲作や文化が伝えられ、日本はようやく発展の糸口をつかみ、日本という国家が形成された。という歴史だけが当たり前のように教えられています。 

 

しかし、文献だけに頼る従来の研究ではなく、先人たちが残した文化遺産に光を当てると… われわれがこれまで信じさせられてきたのとは全く違う。 壮大なストーリーが見えてきます

 

元来、日本という国は外敵がやってこない島国であり、「信頼」を土台に共同体をつくってきました。 よって、絶えず民族が移動し、争いごとの絶えない西洋や大陸とは違い、文字を必要としなかったのです。 よって、当時の先人たちの生活ぶりや、思いを読み取るには、神社や文化遺産といった形あるものの解読が必須になってくるです。

 

多くの学者は、文献だけに頼ることにより、この大切なポイントを見落としてしまいます。さらに残念なことに、美術の知識がないため、いざ実物を目にしても、そこから何を読み取ればいいのか?がわからないのです。

 

「日本には文明がなかった」・・そう言われることがありますが、それはありえません。 遺跡を紐解けば、日本最初の国家「ヤマト政権」よりも、卑弥呼がいたとされる時代よりも遥か昔から、日本では高度な文明が栄えていた。 その中心は、関東・東北であり、そこには大きな“国”があったのです…。

 

田中英道氏の著書『発見! ユダヤ人埴輪の謎を解く』に対するご意見、ウエブ情報の抜粋・引用です

著者は美術史家にして日本古代研究家とでも言えばいいのだろうか。 一見、トンデモ本のようにも思えるが、丹念に資料を追い積み重ねた考察でもあるようだ。 DNAを分析すれば日本人の多くは支那大陸、朝鮮半島の人々と異なりむしろユダヤ系であるという最新科学のDATAの提示もある。 その上で帽子を被り、美豆良を持つ埴輪はユダヤ人の伝統的主張の姿と一致すると言われればなるほどとも思える。 夢あって面白い。

 

この表紙写真の人物埴輪が、著者曰くユダヤ人を模したものだという。 著者曰くユダヤ人が古代に大量に押し寄せ、関東に定住し後に西日本へ移動して秦氏になったという。 秦氏は景教(キリスト教ネストウリウス派)であってユダヤ教徒ではないと思うのだが 最初に人物埴輪=ユダヤ人という前提で議論を進めているから史料読解も全部そう思えてくるのだ。トンデモ本によくあるケースだ。 ユダヤ人と日本人のDNAが近いということが書かれているが、だからといってユダヤ人が古代日本に来た証拠にはならないだろう。 まぁ「物語」としては面白いか。

 

日本古代史の『邪馬台国』と『出雲王朝』はまだまだ発掘と解明の夢があるのではないでしょうか。

(記事投稿日:2023/04/15、#646)

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『岡山城の狭間(サマ)(行って見て・解かったこと)』ーこの城の狭間だけが内側も外側も広く、城壁断面の中央で小さく、ユニークー

2023-04-15 09:54:39 | 城・城郭・城塞

『岡山城の狭間(サマ)(行って見て・解かったこと)』

『この城の狭間だけが内側も外側も広く、城壁断面の中央で小さく、ユニーク』

 

 

岡山城は別名、烏城・金烏城、梯郭式平山城(日本城郭協会さんへ、天守付近で海抜12m、背後の旭川の水面から、標高差10ⅿ、これで平山城、因みに千代田城・江戸城は天守付近で海抜29ⅿ、東京駅付近からの標高差26m、これでも、平城です。)

 

岡山城は宇喜多家が本格築城、関が原で敗れ、関が原の寝返り小早川家が城主に、これも世継なしの理由で2年後改易、徳川譜代の大大名岡山藩池田家に引き継がれ城郭拡張も、1620年頃完成、天守は第二次大戦中、空襲で焼失。ナント日本の城郭・寺院等の木造建築は数百年持つし、鉄筋コンクリートよりはるかに、長寿命です

 

さて、本題です。

狭間は、西洋の城郭にもあり、アロースリットとか、ループ(勾配)ホールと言われる。 狭間は武器分類で、矢狭間・鉄砲狭間・大砲狭間、形で分類は、弓矢用の縦長の長方形、鉄砲用なら丸型・三角型・正方形がある。

狭間は、一般に内側・防御側のホールが広く、外側・攻撃側に狭くする勾配がかかっており、ワンサイドの勾配です。 内側から弓でも銃でも広角に狙えるようになっています。

 

Webには、こんな説明もありました。

狭間は多くの場合、外側(城外)にいる敵を狙う小窓であるが、例外として、姫路城の大天守内部には、敵が侵入した際、隠れ部屋の壁から狙う狭間があり、いわゆる城の外側を狙うのではなく、部屋内の敵を狙うものであり、籠城戦が崩れた後の想定、すなわち最後の最後の抵抗目的で造られたものもある。城内に侵入した敵の油断(狭間は城外を狙うもので建物内にはないとの思い込み)をつく狭間である。

 

備中松山城には、一部の狭間が逆向き(外広がり)なってところがありますがこれは工事ミスですが、平和な時代になっていたので放置された由。平和です。

ところが、この岡山城の狭間だけが、内側も外側も広く、城壁断面のセンターで小さくなっています。つまり両側から勾配(ループ)がかかっています。 このユニークな狭間は今後の調査課題です。

岡山城は石垣もユニークで、宇喜多時代の野面積みと池田時代の打ち込み接ぎ(ハギ)の共存なっています。 

(記事投稿日:2016/09/10、最終更新日:2023/04/15

        (20160910纏め、20190225改、#000)

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『世界の城郭 7(ネルトリンゲン城郭都市は隕石のクレーターに)』『奇跡の「二つのクレーターを残した天体は二重小惑星」そこを城郭都市に』

2023-04-12 08:07:12 | 城・城郭・城塞

『世界の城郭 7(ネルトリンゲン城郭都市は隕石のクレーターに)』

『奇跡の「二つのクレーターを残した天体は二重小惑星」そこを城郭都市に』

 

 城郭は、いつ見てもロマンを掻き立てます。 この要塞は、自分たちの家族・同胞を守るために『ロケハンと予想縄張り』を繰り返し、最終的にたどり着いたのが、ここ『直径24kmの巨大なクレーター(ネルトリンガー・リース)の中央から南西よりの、直径1kmほどの円形の中央丘に円形の街・城郭都市』が築かれました(落下した隕石は直径1.5km程度)

 ネルトリンゲンは、1500万年前に、シュヴァーベンジュラ山脈(ドイツ連邦共和国、バイエルン州)に落下した隕石のクレーターであるネルトリンガー・リースに位置する。 このクレーターは直径24 kmあり、その縁は環状の連丘に見える。 この環状連丘が、実際の戦いに役立ったかどうかは不明です。

 
 
 ネルトリンガー・リースの中心から西南西42 kmにあるシュタインハイム盆地(左下隅)はもう一つの衝突クレーターです。 このシュタインハイム・クレーターは、直径3.8 kmと、リース・クレーターよりずっと小さい。 このクレーターもおよそ1500万年前に形成されたと考えられており、リースとほぼ同時のイベントであったと考えられています。(ウキぺぺデイアから引用)
 
 二つのクレーターを残した天体は二重小惑星であったと考えられている。 二重小惑星は、結構発見されていますが、『二重小惑星の地球への衝突』は、めったにはないようです。

ネルトリンガー・リース盆地の地図(ウキぺぺデイアから引用)
 

 

ネルトリンガー・リース盆地の俯瞰図(ウキぺぺデイアから引用)
 


ネルトリンゲン城郭都市の空中写真(ウキぺぺデイアから引用)


 
 この城郭都市は、直接攻められたことはありません。 攻防はクレーターの中で戦われました。 その攻防はウエブ情報からです。

 三十年戦争で歴史の転換点となったのがネルトリンゲン包囲戦とそれに続く1634年に起きたネルトリンゲンの戦いである。 この戦いでスウェーデン=プロテスタント軍は初めて皇帝=ハプスブルク軍にはっきりとした敗北を喫したのであった。 ネルトリンゲンは勝者に城門を開かねばならなかったが、高額の賠償金を支払うことで略奪行為を免れた。 しかし、この都市は包囲戦からその後にかけて飢餓や病気で住民の半分以上を失うという被害を受けていた。さらにその後のスペイン継承戦争でも、近くで起こったヘーヒシュタットの戦いによりこの都市は打撃を被っている。

 どんな戦いも、戦いでは幸せは、勝ち取れません。 結局、堅固な城塞都市も落とされます。 城は落ちなくても負け戦はあります。 それが歴史でしょうか。

(記事投稿日:2020/05/24、最終更新日:2023/04/12、#193)
                                      

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