◎蓑田胸喜の「ナチス思想批判」(1940)
十年ほどまえ、蓑田胸喜〈ミノダ・ムネキ〉の『ナチス思想批判』(原理日本社、一九四〇)という小冊子を入手した。本文六七ページ、定価は三〇銭。古書価は覚えていない。最近になって一読してみたが、なかなか面白かった。
その当時、ナチスの政治思想や社会政策に飛びついた「学者、官僚、政治家」が多かった中で、蓑田胸喜が、堂々とナチス思想批判を展開していたことは知らなかった。蓑田胸喜には、「神がかった攻撃的右翼」というイメージがつきまとうが、少なくとも彼は、「ナチズム」を信奉するファシストではなかったようだ。
本日は、同小冊子から、「序=批判の見地」を紹介してみたい。
序 = 批 判 の 見 地
七月二十日のドイチエ・アルゲマイネ・ツアイツング紙上に「精神が勝利を得た」と題して、ドイツの勝因とフランスの敗因とを論じた外国新聞の記事を紹介しつゝ、「フユーラーは魂を有しドイツ青年の精力を完全に掌握して居つた」といひ、「ドイツの勝利は実際に於いて一つの信仰から生れたものである」と、この「信仰」「精神」を特に反覆強調してゐる。
評論家の小林秀雄氏が最近『マイン・カムプ』を読み『東朝』九月十二日紙に発表した感想文に「それは組織とか制度とか言ふ樣なものではない。」「ユダヤ人排斥の報を聞いてナチのヴアンダリズムを考へれり、ドイツの快勝を聞いて、をの科学的精神を言つて見たり、みんな根も葉もない、たは言だといふことが解つた。形式だけ輸入されたナチの政治政策なぞ、反故〈ホゴ〉同然だといふ事が解つた。ヒツトラーといふ男の方法は、他人の模倣など全く許さない」といつたのは、粗雑不正確ながらナチスのこの「信仰」「精神」に触れたものであつた。
全体主義、科学的精神、統制経済、機構、組織、指導者原理を云々する現日本の学者、官僚,政治家、また日本の政治外交の自主独自性を呼号する人々の間にも、ナチス思想の真価に対する硏究批判が正鵠〈セイコク〉を得てゐるのは稀有〈ケウ〉である。
著者は自己己の硏究を元より完全無欠のものといふものではないが、著者は十余年前『獨露の思想文化とマルクス・レニン主義』またと『学術維新原理日本」に於いてカント哲学、マルキシズムに対して根源的綜合的批判を加へた同じ学術原理をナチス思想に対しても適用して、その長所を闡明〈センメイ〉すると共に、その欠陥を明確に指摘し批判したのである。
今日に至つてはマルクス共産主義の信奉者らも時勢の転変により所謂「人民戦線戦術」からナチスの全体主義、指導者原理に表面批判を粧ひ〈ヨソオイ〉つゝ実際に於いては思想的に之に追随して謀略的意図から之を利用するに至つてゐる。昭和研究会の『新日本の思想原理』『共同主義の哲学的基礎』の如きはその顕著なる実例であつて、最近各方面から提出された「新体制」の私案や記事論文の上に、日本臣民として君臣の大義を遺忘〈イボウ〉して、このナチス的「指導者原理」に幻〔ママ〕を抜し〈ヌカシ〉つゝある為態〔ママ〕を見るのは、往年のデモクラシー、マルキシズムの流行現象と何等択ぶところはない。
著者はこの点に就いては本冊子と同時に公刊した「昭和硏究会の言語魔術』中に細論しておいたから今これ以上触れないが、『マイン・カムプ』中のアリアン人種優越論や日本文化誹謗〈ヒボウ〉論の如き、またローゼンベルクの『二十世紀の神話』の所論に対しても、ゲルマン神話の根源に遡つて厳密の批判を加へ、前者に就いては昨夏駐日ドイツ大使館を通じてその改訂を促したたことを付言しておく。
かくして著者はナチスの「世界観の戦ひ」を紹介しつゝ、これに対する日本人としての「世界観の戦ひ」を学術的形式に於いて表現したのである。本書は日本学生協会発行の『世界観の戦ひ』また原理日本社発行の『ナチス精神と日本精神』に若干増訂を加へたものである。猶ほこゝに尽さなかつた点に就いては、『原理日本』昭和十四年六月号『「二十世紀の神話」を読む』及び同年七月号『ナチス精神と日本精神』またマルキシズムとの関連に就いては前記拙著『独露の思想文化とマルクス・レニン主義』の参照を望む。
昭和十五年九月十四日 著 者