◎戦勢の後退が東亜への政治攻勢をもたらす
一昨日からの続きである。「時事叢書」の一冊、大屋久寿雄著『終戦の前夜――秘められたる和平工作の諸段階』(時事通信社、一九四五年一二月)を、紹介してゆきたいと思う。「はしがき」は、昨年の九月二〇日に、一度紹介しているが、本日は、これを再度、紹介した上で、「東條内閣の対ソ工作」の節の前半を紹介してみたい。
は し が き
今次の戦争に対する批判に、或る程度の歴史的価値を与へるためには、今後なほ相当の時間を必要とするであらうが、今日すでに一応の確信をもつていへることは、この戦争の持つ最大の特徴は、それが終始一貫して国民の大多数からは全く切り離された「覆面の大戦争」であつたといふことであり、国内政治の面に現れたこの戦争の姿は徹頭徹尾「独断と欺瞞」によつて厚く塗りこめられた、不可知な神秘的存在であつたといふことである。
今次の戦争の開戦に関して、日本国民は果してどれだけのことを今日知つてゐるであらうか。いふところの日米交渉たるものについて、その真相をわれわれ国民は果してどれだけ知つてゐるか。
緒戦に続く極く短い期間、一時的に甚だ優勢らしく見えた戦局が、その後果していつ頃から、そしていかにして漸次逆転し、遂に今日の破局を見るに至つたかについて、われわれは一体どの程度の真相説明をうけてゐるのか。
この間、国内における戦力諸元の動向について、日本国民は果してどれだけのことを知らされて来たか。また国際関係から見て、戦時中の日本が置かれた地位、自ら居らんとした地位、それがために払つた努力と打つた手等々についてわれわれは果して何を知らされてゐるか。
更にまた、終戦に至るまでの息詰まるやうな運命的なあの何ケ月間かの出来事について、国民の大多数は果して何を知つてゐるか。
一切は曖昧である、模糊としてゐる。国民の大多数は恰かも〈アタカモ〉通り魔の巨大な一撃にあつて呆然自失したものの放心状態の中で、今日、「無条件降伏」といふ峻烈な現実をみつめてゐるのである。
このやうな圧制は今後再び繰り返されてはならない。国民は己れの運命に関しては少なくとも相当自主的な判断を持ち得るだけの事実を知らされてゐなけばならない。一国の運命を決し一民族の興亡を左右するがごとき重大外交は、国民の耳目の前に堂々と公開されつつ行はれなければならない。
われわれはこの意味において敢へて「過去を問ふ」ものである。勿諭、もはや過去は問ふととも還らない。しかし過去を明かにすることによつて、われわれは将来に備へなければならない。
光輝ある二千六百年の皇国歴史を一朝にして泥土に委し〈イシ〉、われわれ七千八百万同胞を今日この悲境に陥れたあらゆる原囚は、冷厳な追求をうけるべきである。殊に今次の戦争に関する経緯は今後機会あるごとに明かにされて、国民的批判の前に置かるべきである。
終戦後日なほ浅き現在、われわれがこの小冊子を敢へて公にする所以のものも実はここにある。
これは勿論完全な記録ではない。後日補はるべき点も多々ある。しかし、終戦に至るまでの大筋としては、国民の「今次の戦争批判」に充分一個の資料たり得る内容のものであることを信じてゐる。併せてまた、他日、より権威ある人々によつて編まれるであらう歴史への些か〈イササカ〉たりとも参考となり得べきことを信じつつ、無条件降伏受諾に至るまでの経緯を能ふ限り忠実にし記述したわけである。文中多少の私的批判を混へた個所もあるが、これらに関しては事実の解釈乃至判断において或ひは失当の点もあるかとも思ふ。関係諸氏の御教示を得ることができれば、正誤の労を惜しまないことはもとより、筆者として幸甚の至りである。
東條内閣の対ソ工作
純戦略的に見て、太平洋戦争の峠が果してどこにあつたかは今日ほぼ明瞭になつてゐる。「転進」などといふ非良心的且つ偽瞞的な言葉で表現されたガダルカナル作戦の徹底的失敗が一般には彼我〈ヒガ〉攻防転位の分岐点であつたかのごとくにいはれて来たが、実際にはこの作戦開始に先立つこと約三ケ月、そして「ガダルカナルよりの転進」に先立つ約八ケ月、昭和十七年六月五日、帝国海軍の主力をもつて強行され、しかも完全な失敗に終つて多数有力艦の喪失を招来したミッドウエー島攻撃戦がその真の分岐点だつたのである。
当時「輝かしき大戦果」の一つとして国民に告げ知らされたミッドウェー作戦の真相が、実は帝国海軍にとつていかに致命的な大失敗であつたかは今日既に明瞭である。また昭和十八年二月九日、帝国議会第八十一通常議会の衆議院予算総会の席上、陸軍軍務局長佐藤賢了〈ケンリョウ〉少将の口から「南太平洋方面の我〈ワガ〉陸軍諸部隊は各要戦戦略拠点の設定を完了したので、ブナ、ガダルカナルの諸島から他へ転進した」云々と、堂々国民代表の前に発表されたその「転進作戦」の内容が、いかに惨めな〈ミジメナ〉殲滅〈センメツ〉的打撃の後の見る影もなき敗亡的脱出でしかなかつたかも、今日、これまた蔽ふ〈オオウ〉ところなき事実となつてゐる。
太平洋戦局の上に齎らされたかうした重大な変化、即ちわが進攻・攻撃力の急速な逓減〈テイゲン〉と敵の反撃力の全面的展開とは、当時の東條内閣によつてどんな風に判断されたか。
一方、欧洲戦局にあつては、華々しかつたドイツ軍のコーカサス作戦は、一九四三年(昭和十八年)一月末、遂にかの有名な「スターリングラードの悲劇」となつて終り、同じく一時華々しい快速進撃を続けた北阿〔北アフリカ〕攻略のロメル軍は、これまた同年一月末トリポリを撤収して北阿からの総敗退を開始し、かくて、彼此〈カレコレ〉相俟つて独・伊軍はここにその全面的戦線崩壊の第一歩を踏み出したのであつたが、当時の東條内閣はかかる世界戦局の推移をどう判断したのであつたか。
東條内閣は明かに「戦勢我に非」と見たのであつた。しかし、勿論いまだ望みなしとは考へなかつた。ただ、太平洋、欧洲の両戦線における枢軸軍戦勢の一斉後退が、わが与国、即ち中華民国南京政府その他の大東亜諸民族に及ぼすベき重大な悪影響に対する措置の如何により,その結果はまさに決定的なものとなり得るだらうといふ点については、これをより強く意識したのである。
昭和十八年一月以降、日・華同盟条約の締結に伴ふ対華新政策の策定、泰国〔タイ国〕に対する領土の割譲、スバス・チヤンドラ・ボース氏の自由印度運動絶対支援、ビルマ、フイリピン両国への独立賦与、大東亜会議の開催等、これら一連の政治攻勢は、明瞭に右の認識に基いて打たれたいはば逆手であつた。武力の面で漸次失はれんとしつつある帝国の威信を政治の面で補ひ、もつて後図〈コウト〉を策せんとする積極性を、それは内蔵してゐたのである。【以下、次回】