礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

桃井銀平論文の紹介・その4

2016-09-04 02:25:20 | コラムと名言

◎桃井銀平論文の紹介・その4

 8月29日からの続きである。桃井銀平さんの論文「日の丸・君が代裁判の現在によせて(1)」の四回目の紹介である。
 ②とあるのは、「(3) 蟻川恒正と日本における<憲法的思惟>」の②である。
 文中の太字は、傍点の代用である。

② 「徹頭徹尾「公的」位相の問題として争われるべき事案」
 長谷部恭男は、憲法上の権利を「「公共の福祉」を根拠とするもの」と、「「公共の福祉」の観点からの判断を覆す」もの(「個人の自立を根拠とする「切り札」としての権利」)とに別けて、後者のみを「人権と呼ぶのがより適切」だと主張し〔17〕、その観点から憲法第12条と第13条との文言上の不整合を解消する解釈を示している〔18〕。蟻川の主張は裁判を長谷部のいう「人権」には包含されない権利論へと重点化ないしは限定するものである。長谷部は、憲法上の諸権利のどれが「「切り札」としての権利」にあたるかは明示していないが、蟻川のいう「「私的」世界観の保護」を求める権利こそ、長谷部のいう「「切り札」としての権利」=(長谷部のいう)「人権」に含まれることは明白であろう〔19〕。それは、長谷部によれば、「いかなる個人であっても、もしその人が自律的に生きようとするのであれば、多数者の意思に反してでも保障して欲しいと思うであろうような、そうした権利」である〔20〕。これは個人としての存立根拠に関わる権利である。
 蟻川によれば、最高裁判決中にはピアノ裁判藤田反対意見への反論を意味する部分が2件あるという。それは2011年5月30日判決と6月21日判決である(何れも不起立に対する懲戒処分取消請求)が、蟻川は、それらを「「公的」な主張」を「「私的」世界観の保護を求める主張」に「すり替えた」ものだとして批判している〔21〕。しかし、それらは補足意見も合わせて解釈すれば、教師としての「公的」な信条が存在したとしても、儀式の場面での思想・良心の制約の有無を判断する場合は「個人の人格形成の核心をなす内心の活動」「核となる思想信条等」〔22〕(この場合、最高裁が念頭に置いているものは「個人の歴史観ないし世界観〔23〕」)に対する制約(「慣例上の儀礼的所作」という外部的行為が求められる場面であるが故にそれは最高裁にとっては「間接的な制約」でしかありえない。)の有無によって判断すべきであるというものである〔24〕。言い換えれば、「個人の歴史観ないし世界観」に関係しないような信条については間接的制約すら生じないということである。判決文では「間接的制約に包摂」ではなく「間接的制約の有無に包摂」(傍点は引用者)と記しているのである。
 「教師の「私的」世界観の保護をどうするかという問題にしてはならない」〔25〕というのが2014年段階の蟻川の基本的立場である。この時点の蟻川は、「個人」と表現すべきと思われるところを、「公的」と対照させて「私的」と表現しているが、それによって問題の構造が見えにくくなっている感がある(本稿では私の主張を展開する際は、極力「個人」という語を使用することにしている。)。しかし、網羅的に事例を検討したわけではないが、私には以下のように思える。多くの原告にとっては、教師が個人として有する日の丸・君が代に関連した歴史観・世界観と戦後教育の国家主義化に対する批判とは結びついたものであり、学校儀式での国旗国歌儀礼強制は個人としての思想・良心及び教師としての信条の双方の危機であったのではないか(各要素の比重は当然個人それぞれ違うだろう。)。国旗国歌儀礼の強制に直感的に歴史上の既視感を抱いた教師は多いはずである。すなわち、典型とすべき原告は、個人としての歴史観・世界観とは関連なしに教師としての「公的」責務から不服従を行った事例ではなく、個人としての歴史観・世界観、教育内容としての是非の判断そして自身の儀礼に対する行動の選択とが相互に結びついた事例だということである。違反者に対して懲戒処分を行うことを予定した職務命令に抗してまで多くの教師が不起立等を選び取ることは、単に「公的」立場からのみの判断によってだけではなしがたいことである。むしろ蟻川とは逆に、<教師としての信条>の存在は<個人としての思想・良心>(それは必ずしも日の丸・君が代についての歴史観・世界観に限らない。)と強固に結びつけて一体のものとして主張するべきものだと思う。
 かつて1994年の論文で蟻川恒正は教科書検定訴訟における問題構造及び訴訟構造を次のように分析している(ここでは権利主張について「私的」と「公的」という対比構造は存在しない。)。
「「政府」と「個人Ⅰ」(教科書執筆者-引用者注記)との間には、明確な強制の要素が検出されることが多いのに対し、「政府」と「個人Ⅱ」(生徒-引用者注記)との間には―事実上の強制の有無を別として―右要素が欠如することが多い。憲法上の人権が、従来、強制の契機を俟って発動されたことに鑑みるなら、かかる契機を欠く「政府」「個人Ⅱ」間関係に憲法上の統制が作用することは、期待しがたい。Government speech による「個人Ⅱ」への「政府」の価値投入は、まさにそうした既存の法的規範づけへのなじみにくさの故に、拘束を免がれ、結果、「個人Ⅱ」は、憲法上の保護を奪われた存在であり続けることを強いられているのである。」〔26〕(下線は引用者)
また、「個人Ⅰ」による<道具としての自己供出拒否>について蟻川は以下のように記している。
「それならば、かかる価値植え込みの危険は、如何にこれを縮減することができるのか。・・・・その役割を期待しうるのも、また「道具」たる位置に立つものである。彼は、政府と生徒との中間に介在する位置を占めることによって、government speech の「道具」として利用されることがある反面、「道具」としての自己供出を断固拒絶することを通して、government speechを、―それに「道具」を与えないことによって―頓挫させることもできるのである。 」〔27〕 (下線は引用者)
 蟻川がここで<道具による自己供出断固拒否>と表現しているのは教科書執筆者による検定意見拒否及び表現の自由等憲法上の権利を主張して行った裁判のことである。この論文で蟻川が当然の前提としている訴訟構造はあくまでも<国家対個人Ⅰ>である。ただ、訴訟構造とは別に憲法19条は「社会に生起する憲法問題を広く発見し、その解決のための指針を提供するという役割」で問題構造を提示しているのである〔28〕。この問題構造と訴訟構造のあり方は国旗国歌儀礼強制問題にも共通する。学校における国旗国歌儀礼においては、<個人Ⅰ>は自らが国旗に正対して国歌を起立斉唱することを明確に強制されている(ここでは問題を単純化するため起立斉唱強制に限定して述べる。)。その行為は、<個人Ⅱ>である生徒に同じ行為を事実上強制する役割を担わされている。<個人Ⅰ>が個人としての思想・良心を主張することが同時に、<個人Ⅱ>にも事実上強制されている行為の本質を剔抉し、それがさらに<個人Ⅱ>に対する事実上の強制構造(「価値植え込み」)を解体させることにつながるのである。個人としての思想・良心と分離した訴えでは、強制された行為自体の本質を直接には問えない。
 繰り返して強調するが、国旗国歌儀礼遂行を明確に強制されているのは教師である。そもそも教師個人の人権主張は、<生徒のため>という理由づけを必要としない。学校には、教育課程としての国旗国歌儀礼実施を自己の憲法上の権利(教育を受ける権利)の内容として要求し、教師の率先垂範をその当然の一部と見なす生徒・保護者もいるだろう。思想・良心の問題より集団に同調することの安心感を選ぶ生徒・保護者もいる。一方で、個人としての思想・良心の危機を感じながら職務命令への違反が職を失うことにもつながり兼ねない立場に置かれた教師、起立斉唱を忌避したいが学校特有の強力な同調圧力にさらされている生徒・保護者もいる。自己の権利を守るべき第一の当事者はそれぞれいったい誰であろうか。人権の主張は、本来的には、「強くあろうとする個人」として自らがおこなうものなのではないか〔29〕。
 蟻川は、東京都の国旗国歌強制問題について多くの重要な論考を著してきた。しかしながら、東京都で教師に対して強制された国旗国歌儀礼が、バーネット事件で生徒に強いられた国家儀礼と本質的に同質のものであるかどうかについては明確にしていない。名著『憲法的思惟』の著者に求められているのは、国旗国歌儀礼を「慣例上の儀礼的な所作」と見做し思想・良心の自由への制約については「間接的な制約となる面がある」ものでしかないとする最高裁の論理それ自体の粉砕なのではないだろうか。

注〔17〕 「国家権力の限界と人権」p58~59(樋口陽一編『講座・憲法学 第3巻 権利の保障』日本評論社1994)
注〔18〕 「憲法一二条は「この憲法が国民に保障する自由及び権利」について、国民は「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」とする。ここで言う「国民の自由及び権利」が、前述したような個人の自立を保障するための自由や権利を意味しているとは考えられない。個人の自立を保障する権利の範囲が、常に公共の福祉によって支配され、固定されるという考え方は、憲法一三条前段の言う「個人の尊重」の原理と真っ向から衝突する。この原理と整合するように一二条を解釈しようとすれば、そこで言う「国民の自由及び権利」とは、人類普遍の人権ではなく、「この憲法が国民に保障する自由及び権利」と解さねばならない。人類普遍の、そして個人の尊重の原理から当然に導かれる「人権」に加えて、憲法が特に「国民」に対して、一定の「自由及び権利」を保障する理由は、それが人権のより有効な保証に役立つから、あるいは、その保証が何らかの公共の福祉の実現に役立つから、といういずれにしても手段的な権利として保障するという理由に帰着するであろう。」(同上p62)
注〔19〕 樋口陽一は以下のように記している。「憲法解釈論の場面で、「切り札」は,他の主張を斥ける強い機能を持つが、どこまでの内容に「切り札」としての資格を与えるかが問題となり、歴史の所産としての狭義の「人」権のもつ輪郭によって限定される。」(『国法学 人権言論【補訂】』p197注11)(有斐閣2007))「人間の精神活動、特にその表現の自由を、国家からの自由として確保することは、近代憲法の権利保障体系の核心部分をかたちづくってきた。」(『憲法 第三版』p217創文社2010)。
注〔20〕 長谷部前出p57
注〔21〕 前出 「不起立訴訟と憲法一二条」p176~180 。このような読み取りは個々の事件の具体的様相を踏まえて行うべきものである。
注〔22〕 2011年5月30日判決における千葉勝美の補足意見。
注〔23〕 「核となる思想信条等」をこれらに限定すること自体は議論のあり得るところである。
注〔24〕 2011年5月30日判決の該当部分は以下。
「なお,上告人は,個人の歴史観ないし世界観との関係に加えて,学校の卒業式のような式典において一律の行動を強制されるべきではないという信条それ自体との関係でも個人の思想及び良心の自由が侵される旨主張するが,そのような信条との関係における制約の有無が問題となり得るとしても,それは,上記のような外部的行為が求められる場面においては,個人の歴史観ないし世界観との関係における間接的な制約の有無に包摂される事柄というべきであって,これとは別途の検討を要するものとは解されない。」
 この点はとりわけ6月21日判決(広島県立高校における不起立についての懲戒処分取消請求事件。原告45名。)に明瞭であってその該当部分は以下。
「なお,上告人らは,学校の卒業式等のような式典において公的機関が参加者に一律の行動を強制することに対する否定的評価及びこのような行動に自分は参加してはならないという信条との関係でも個人の思想及び良心の自由が侵される旨主張するところ,この点も「君が代」に対する歴史観ないし世界観と密接に関連するものとして主張されているのであり,上記の式典において上記のような外部的行動を求められる場面における個人の思想及び良心の自由についての制約の有無は,これを求められる個人の歴史観ないし世界観との関係における間接的な制約の有無によって判断されるべき事柄であって,これとは別途の検討を要するものとは解されない。」
注〔25〕 「不起立訴訟と憲法一二条」の冒頭近く(p173)で彼の基本的な考えを以下のように要約している。 
「はじめに、不起立訴訟に対する私の基本的な考え方を申し述べますならば、この訴訟は、徹頭徹尾「公的」位相の問題として争われるべき事案であり、教師の「私的」世界観の保護をどうするかという問題にしてはならない、というのが、この訴訟に関する私の基本的な見立てであります。入学式・卒業式は、公立学校の教師にとつて、公教育における公的な職務遂行の場面です。そこでの教師の振舞いは、もつぱら公的観点から、教師として職責を果たしているか、という発問として問われるべきであると思われます。」
注〔26〕 「思想の自由」p126~127(樋口陽一編著『講座 憲法学 第3巻 権利の保障』日本評論社1994)
注〔27〕 同上p123
注〔28〕 同上p132
注〔29〕 「「法的ヒューマニズム」と「強い個人」の自己決定は,矛盾しないか。ここでも,擬制=フィクションの持つ意味が重要である。ほんとうに強い者は,権力を持っている。私人相互間であれ,まして公権力との関係で権利を主張する必要にせまられるのは,弱者である。しかし,弱者が弱者のままでは,それによって担われる「権利」は,恩恵的,慈恵的な性格にとどまる。「『自由』が弱者の側の願望」だということを前提として,しかしなお,つぎのことが決定的であろう。―「弱者が弱者のままでは『自由』にはならない。『自由』は,単に弱者ではなく,強者になった弱者・・・・・・でなければならない」。
 「権利のための闘争」を担おうとする弱者,その意味で,「強者であろうとする弱者」,という擬制のうえにはじめて,「人」権主体は成り立つのである。」(樋口陽一『国法学 人権言論【補訂】』(前出)p68~69。「・・・・・・」は原文にあるもの。)

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