◎廣田・マリック強羅会談(1945年6月)
「時事叢書」の第九冊、大屋久寿雄著『終戦の前夜――秘められたる和平工作の諸段階』(時事通信社、一九四五年一二月)を紹介している。
本日は、「廣田・マリツク強羅会談」の最初の部分を紹介する(一七~一八ページ)。
廣田・マリツク強羅会談
戦争最高指導者会議の原案に基づいて、東郷外相がその衝に当つた対ソ特派遣の工作は既述のやうな経緯から失敗に終つたが、決定された三案を中心とする対ソ積極工作は何らかの形で急速に実行されなければならない。
ここで考へられたものが、特使となることは拒絶するが、他の方法でならばいかなる援助協力をも惜しまないと確約した廣田弘毅氏を煩はして〈わずらわして〉特使派遣に代る日・ソ下交渉〈シタコウショウ〉を東京で開始するといふ案であつた。
五月二十三、二十五の両日にわたる大空襲をクライマツクスとする無差別爆撃は帝都の大部分を焼野原と化したほか、地方の大小都市を片端から焼き払つて行つて、日本全土が完全なる焦土と化すのも数週間を出でない〈イデナイ〉であらうと考へられた。事態は極めて逼迫〈ヒッパク〉していたのである。
廣田氏は蹶起〈ケッキ〉を快諾した。私宅を焼かれて折柄鵠沼〈クゲヌマ〉に疎開中であつた廣田氏は人目を惹くことなしに箱根を訪れて、折柄箱根ホテルに疎開中であつたマリツク駐日大使と、会談の場所に当てられた強羅の星一〈ホシ・ハジメ〉氏別荘で、二日にわたる極秘会談を行つたのである。強羅会談と呼ばれるものが即ちこれである。
会談は六月三日、四日の両日に亘つて、通訳を介して行はれた。廣田氏は氏がかねて抱懐する日ソ親善提携論を提げて熱心にマリツク氏を説いたといはれる。私は廣田氏の論旨の詳細はこれを承知しないが、それは傍ら〈カタワラ〉に在る者をして「流石に〈サスガニ〉廣田氏である。これだけの見識は廣田氏を措いて他にこれを求むることは出来ない」と思はしむる底〈テイ〉の堂々且つ極めて合理的なものであつたといはれる。マリツク氏はこの会談では終始聴き役であつた。彼は充分に廣田氏の説を傾聴した。そして、結論として、廣田氏が日・ソ両国はこの際進んで「長期間の友好関係確立」に向つて具体的な方図〔方途〕を策すべきであると提言したとき、マリツク氏は日本側からその具体案を提出するやうにと希望したのであつた。【以下、次回】