◎「何とか今次の戦争を終結する方法はないか」
「時事叢書」の第九冊、大屋久寿雄著『終戦の前夜――秘められたる和平工作の諸段階』(時事通信社、一九四五年一二月)を紹介している。
本日は、「廣田・マリツク強羅会談」のうち、最後の部分を紹介する(一九~二〇ページ)。
以上五項目を中心とする対ソ交渉の開始について、陛下にはこれを御勅許あらせられたと承はるが、このとき、陛下には東郷外相に対して、畏れ多くも
「何とか今次の戦争を終結する方法はないか」との趣旨の御下問を賜はつたとのことである。
われわれ臣下として、しかも直接その衝に当つたわけでもない者が徒らに叡慮を忖度〈ソンタク〉し参らせることは憚り〈ハバカリ〉多いことではあるが、前後の事情から拝察するに、陛下には痛く戦争の帰結と国民の運命とを軫念〈シンネン〉あらせ給ひ、いま東郷外相が内奏し参らせた対ソ交渉案もさることながら、このとき叡慮は既にむしろ戦争それ自体の終結といふ方向に赴かせられてゐたのではないかと考えへられる。即ち鈴木内閣の根本的対外三案中、最終の(C)案こそ陛下におかせられては最も深き御関心をもつて御吟味あそばされたものではないかと拝察されるのである。
東郷外相は恐懼〈キョウク〉して退出した。そして、陛下の御言葉は御言葉として、ともかく御勅許を得た対ソ交渉原案はこれをそのままマリツク大使に伝達して、本国政府への取次方を依頼したのであつた。
しからば当時、この対ソ交渉案はわが外交専門家の間で一体どのやうに考へられてゐたかといふに、第一に条件そのものがこれではソ連の関心を惹き得るに足らぬ――いはば日本側としては可成り〈カナリ〉虫のよいものであると批判されてゐた。しかし、当時の日本国内事情としてはこれでも随分思ひ切つた案であつたともいへるのである。従つて率直な結論としては、この交涉はこれだけでも大体において駄目だといふやうに予想されてゐたが、加ふるに、かねて噂されてゐた重慶政府行政院々長宋子文氏のモスクワ訪問が六月末を期して実現するに至つて、日ソ交渉見込みなしとの観測はほぼ決定的なものとなつて来たのであつた。.
事実、ソ連政府はマリツク大使によつて取次がれた日本政府の具体案に対してはその対日参戦の日まで何らの回答をも寄せては来なかつたのである。