◎東條内閣、独ソ戦争の居中調停を試みる
昨日の続きである。「時事叢書」の一冊、大屋久寿雄著『終戦の前夜――秘められたる和平工作の諸段階』(時事通信社、一九四五年一二月)を紹介している。
本日は、「東條内閣の対ソ工作」の節の後半を紹介したい。文中、「居中」〈キョチュウ〉という言葉が出てくるが、「両方の中間に立って、どちらにも偏しない」の意である。
これらの事実について、その一々を実証してゐる余裕はないから、ここでは単に結論だけを記すに止めるが、当時洋の東西に亘つて悪化の一途を急激に辿り〈タドリ〉始めた枢軸側の戦局に対処する政治的方策の一つとして、東條内閣が打つたこれら一連の布石の中でも、今次の戦争それ自体の運命と、当時にあつてはなほ些か〈イササカ〉間接ではあつたが、既に相当不可分の関係を有したものとして、われわれが今日見逃すことのできないものに、昭和十八年九月、東條内閣重光〔葵〕外相の手で企てられた独ソ戦争に対する居中〈キョチュウ〉調停申入れといふ一件がある。
太平洋戦線においては、表面的には五月のアツツ島全員玉砕〈ギョクサイ〉、八月のキスカ島完全撤収以外に大した動きもないかのごとくであつたが、戦勢引続き我に不利であることは当局者の熟知するところであつた。欧洲では東部戦線の枢軸軍はその「戦略的後退」において止まるところを知らず、また敗けに敗けた北阿〔北アフリカ〕の枢軸軍は五月十三日に至つて遂に完全降伏し、続いて米・英・仏軍のシチリア島上陸、そして八月にはいはゆるバドリオ事件によつて、イタリアは逸早く戦線から脱落し去つたのであつた。
このときビルマに恰かも〈アタカモ〉葬式のやうなうら淋しい独立式典を挙行せしめ、続いて十月にはフイリピンにも「熱意なき独立祭典」を挙行せしめんとしてゐた日本帝国政府は、ビルマの独立とフイリピンの独立といふ二つの「歴史的な行事」の寸隙を得て、慌くも〈アワタダシクモ〉「独ソ戦居中調停」といふ大胆な仕事を企てたのであつた。勿論その狙ひは、もしこれが成功すれば、一には東部戦線の重大危機から解放されたドイツをしてその全力をもつて、日・独共向の敵であり、いまや完全に欧大陸に足場を得た米・英軍撃滅に立ち向はせることができるとともに、二にはわが陸軍の最精鋭部隊である関東軍兵力の相当部分を必要なる他戦線に転用できるかも知れない、といふにあつたこと明瞭である。
しかし、松岡洋右〈ヨウスケ〉氏の日・ソ中立条約以来、わが政府としてははじめての試みともいふべきこの対ソ積極外交は脆くも〈モロクモ〉失敗に終つた。
帝国政府の提案はソヴェト政府とドイツ政府との両者に対して同時に行はれたのであるが、ソヴェトに対しては、帝国政府特使として然るべき人物をまづモスクワに、それよりべルリンに派遣して、能ふ〈アタウ〉ベくんば独ソ間の和平を斡旋〈アッセン〉したいと思ふが、ソヴェト政府の意向はどうかといふ話を持ちかけたのであつた。これに対して、ソヴェト政府の答へは極めてにべもないもので、独ソ間には和平の余地は全然ないとの理由でかかる特使の派遣をきつぱり拒絶して来たのである。またドイツ政府に対しては、駐独大使大島浩陸軍中将をして、同様意向を探らせたところ、フオン・リツベントロツプ外相はまづ、日本のかかる提案はソヴェト政府との諒解に基いてなされたものかどうかといふ点を訊した〈タダシタ〉上、さうでないことが判明するに及んで、極めて冷炎な態度を示すに至り、これも結局そのままに葬り去ちれたのであつた。
*このブログの人気記事 2016・9・12(9位にかなり珍しいものが入っています)
- 古畑種基と冤罪事件
- 戦勢の後退が東亜への政治攻勢をもたらす
- ◎A級戦犯の死刑執行に、なぜ「絞首」が選ばれたのか
- 石原莞爾がマーク・ゲインに語った日本の敗因
- 大屋久寿雄の未発表遺稿『戦争巡歴』
- 憲兵はなぜ渡辺錠太郎教育総監を守らなかったのか
- 桃井銀平論文の紹介・その5
- 宮田輝・天池真佐雄の「三つの歌」
- 丸山作楽と神代直人
- 映画『大東亜戦争と国際裁判』(1959)