◎天皇制の構造は二本足になっている(網野善彦)
『文藝』「日本論特集号」(季刊秋季号、一九八七年八月)から、対談・吉本隆明×網野善彦「歴史としての天皇制」を紹介している。本日は、その九回目。
幻想としての単一民族説
網野 僕も偶然だけど似たところがあるんです。ただ、そこで非農業民のほうを追いかけていくうちに、最近非常によくわかってきた古代の贄〈ニエ〉にぶつかったわけです。古代の天皇は、公民の上に乗っかっていただけではない。班田収授制に基づいて租庸調をとっている天皇とは別に、海草を採ったり、魚をとったり、木の実をとったりしている海民や山民から贄をとっている。天皇はそういう律令制に規定されていない、神様に生まの食物を捧げるのと同じような贄の制度の上にも乗っかっているんですね。このことが最近よくわかってきた。そうなると私自身、天皇制を批判するつもりで、一生懸命漁民を追いかけていたら、その漁民も天皇に贄を捧げたり、天皇の供御人〈クゴニン〉になるような形で天皇を支えている。しかもそこから南朝を結果的に支えた海賊・山伏が出てくるということもわかってきたわけです。しかしさらにさかのぼると、これは皆、縄文にいくわけですね。そこまでやはり遡る必要がある。贄はもともと初尾〔ママ〕を神に捧げる習俗で、これは非常に早い時期からやっているにちがいない。それをもとにして天皇家は贄をとるシステムをつくって組織してしまうわけですね。
つまり天皇、天皇制の構造は一筋縄ではいかない。農業だけでなく非農業まで組織して、二本足になっているところがあるので、どうもなまやさしい相手ではないといわざるをえない。それをどう突破するかということなんですね。私が『無縁・公界・楽』(平凡社)なんていう本を書いたのも、そこを突破できないかという意識があったことはあったんです。そしたら、中沢新一に「無縁」というのは「資本主義」だねと言われましてね。最初度胆を抜かれたんだけど、考えてみると、たしかにそれはあたっている点はあるんだな。
まあ「資本主義」と言われると、ちょっと戸惑うんですけどね。しかし、何か本質的に似たものがあることは事実で、市場も貨幣も「無縁」から出発しているところがある。ですから非農業、農業というだけじゃなくて、そのもとにある何かをつかまえると、資本主義もわかるし、近代産業社会のもうひとつ先に行くものが何かつかめて、そこではじめて現代をつき抜けられるんじゃないかということを、ぼんやり考えているんですが、やはりなかなか難しいですな。
もうひとつ、これはちょっと話が違うんだけれども、いまの吉本さんのお話に関連することで、まさしくここに単一民族説の幻想の問題がでていると思う。いまのお話の沖縄の問題ですね。そのことについてもいろいろ伺いたいと思っているんですが、このごろ日本の文字社会の広がりに深刻な問題があるような気がしているんです。
だいいち沖縄に平仮名が伝わっているということも、さきほどの問題に重なってくるかもしれない。平仮名で「おもろ」が書かれるという形になっていること自体、ひとつの大きな問題になると思うんです。それにしても 沖縄は独自な王権を持っているわけだし、北海道のアイヌももちろんで、これを単一民族などということはできない。
しかし本州、四国、九州だって、鹿児島人と東北人の間で言葉で通じあえるかと言ったら、相当時間をかけないと不可能だと思うんですね。ところが鹿児島の文書も東北の文書も古文書を見るかぎり、鎌倉時代から江戸時代にいたるまで、ともかくかなりたやすく読める。だから文字社会の均質性は、日本の場合、おそらくヨーロッパよりもずっと深いものがあって、江戸時代のように村に何人かは必ず文字が書ける人たちがいるという状態がある社会は、世界どこを探しても、あまりないのではないでしょうかね。
しかもそれがほとんど「公」に吸い取られる形になっている。そういう文字の世界ができているわけで一見きわめて均質にみえるけれども、一皮はがしてみると、きわめて多様な無文字社会が見えてくるわけです。とくに東と西では別の民族になるぐらいの大きな違いがあると思うんです。しかしそれをみえなくさせているもの、文字世界の根の意外な深さを最近改めて考えているんです。中曽根の知的水準発言にからんでね(笑)。
いやいや、中曽根のいう通りの一面はやっぱりあるんですよ。知的能力を、もし識字率とか計算能力ということだけに限定して考えるなら日本の社会の水準は確実にきわめて高いんですよ。この事実を認めた上で、中曽根発言を批判する必要があるんです。だからただ他人事みたいな批判をしていたのではだめだと思うんですね。
「常民」のかなり深いところまで文字が浸透しているということ、庶民が文字を知っているだけに、江戸時代のような、一見きわめて専制的な体制をつくり出している。「庶民」が支配者に対して物わかりがいいということになる一面がある。もちろん「一見」であり「一面」なので、私はそこに裏と表を使い分ける一種のしたたかさもでてくるのだとは思うんですがね。
こうした表皮を剝がさないと、天皇を支えている構造全体をひっくりかえすようなところまでいけないんだと思うんですね。
いま吉本さんがここ数年とおっしゃった意味は、状況が数年前から变ゎってきたということなんですか。
吉本 いや、僕の考えかたが、なんとなくそういう感じになってきたような気がするんですね。
網野 そのへんをもうちょっと伺いたい気がするんですが。【以下、次回】
網野による、かなり長い発言があった。ここには、非常に興味深い内容が含まれている。
この長い発言の最後のところで、網野は、「いま吉本さんがここ数年とおっしゃった意味は……」と述べているが、これは、昨日(八回目)で引用した吉本の発言中の、「やっと、このごろそうじゃないんだ……」を受けたものと思われる。
文中、「初尾」とあるのは、原文のまま。ここは「初穂」とあるべきか。なお、「初穂」の読みは、「はつほ」、または「はつお」である。
また文中、「中曽根の知的水準発言」とは、一九八六年九月二二日に、中曽根康弘首相(当時)がおこなった、日本人とアメリカ人の「知的水準」に関する発言を指す。詳しくは、ウィキペディア「知的水準発言」の項を参照されたい。
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