◎宮城県のオシトネは新米の粉を水で固めたもの
『社会経済史学』第3巻第9号(1934年1月)から、柳田國男による講演の記録「餅と臼と擂鉢」を紹介している。本日は、その六回目。
六
米を水に浸し柔げ〈ヤワラゲ〉て後に、臼で粉に搗くといふことの第二の便宜は、又是を以て色々の物の形象を作り得る点にあつた。今日の所謂シンコ細工は、一旦米の粉を煮てから作るのだが、それでは油でも用ゐないと手にくつゝいて仕方がない。生粉の水練りならば水を使ふから、取扱ひがずつと便利なのであつた。自分などはそれが粢【しとぎ】といふものゝ最初からの特徴であつたと思つて居る。日本人の食物の中で、最も古くから文献の上に見え、一方には又北海道の原住民の中にも、採用せられて居るのがシトギといふ語であるから、其使用は近世まであつたと言つてよいのだが、存外に多くの日本人はこの語の意味内容、もしくは是と餅との関係を早く忘れてしまつて居る。たまたま其語を用ゐる土地が有つても、是を用ゐるのは或る限られたる場合だけである故に、それが一般的なる前代生活の残留破片であると迄は心づかない。何処でもわが土地ばかりの方言と心得て、有りもせぬ標準語の対訳を見付けるに苦しんでゐる。其事自身がすでに驚くべき変遷であつた。
シトギという語の現在も行はれて居るのは、多くの場合には古い神社であり、祭礼の折にその語が現はれて来る。たとへば越前敦賀〈ツルガ〉郡の東郷村の諏訪社では、シトギは三合三勺の米を以て作つた三つの丸い餅であつた。餅とは云つても水練りの粉を固めたものだつたらうと思ふ。熊本県の北部で棟上式〈ムネアゲシキ〉の日に投げる餅だけをヒトギ、是は既にたゞの餅をさう謂つて居る。能登の北川村の諏訪神社九月二十七日の祭に作るヒトミダンゴ、是もシトギの訛音〈カオン〉らしいが此方は今いふ団子になつて居る。東北では宮城県北部の村々でオシトネ、九月九日の節供に新米を以て製するもので、是は生の粉を水で固めたものであつた。岩手県では一般にこれをシツトギと謂ひ、風の神送りの日に作つて藁苞〈ワラヅト〉に入れて供へ、又は山の神祭りの際に、田の畔〈クロ〉に立てる駒形〈コマガタ〉の札に塗りつけた。青森県の八戸地方で、同じく神に供へるナマストギも是である。人は今日では煮るか焼くかして食ふ故に、特に之を生のシトギといふのである。生米〈ナマゴメ〉を噛んで食ふ風習とも関係があつて、以前は人間も生のまゝで食べて居たのが、いつと無し嗜好が改まつて、後には神仏に参らせるだけの食物の如く考へられるに至つたのである。だから粢という古い言葉は用ゐなくとも、其実物を作つて居る土地は今でも中々多い。現在の名称の最も弘く行はれて居るのは、シロモチ・シラモチまたはシロコモチといふのが是に該当する。煮たり焼いたりしたのと比べると色がずつと白いからで、成人はめつたに是を生では食べぬが、子供は昔どほり珍しがつて貰つて食ひ、口の端〈ハタ〉を真白にして喜んで居る。伊勢の松阪あたりの山神祭りの飾り人形に、白餅喰ひといふのがあつたことは、本居〔宣長〕先生の日記にも見えて居る。秋の終りの神送りの日には、是は欠くべからざる神供〈ジンク〉であつた。三河の半島の或町の祭には、小児が烏の啼声〈ナキゴエ〉を真似て此白餅を貰つて食ふ風があつた。それで此日は彼等をカラスと呼んで居た。前に述べた石城平の、烏のオノリと同じ風習から出て居ると思ふ。白餅といふ名は東海道の諸国から紀州まで、九州でも北岸の島々ではシラモチと謂ひ、阿蘇の山村ではシイラ餅と謂つて居ると共に、一方秋田県の鹿角〈カヅノ〉地方などにもシロコダンゴといふ名がある。分布の此様に古いのを見ると、此名称もおそらく新たに起つたものではないと思ふ。
信州は南北とも、一般に之をカラコ又はオカラコと謂つて居る。主として秋の感謝祭の日に、今年米〈コトシゴメ〉を粉にして作るのだが、正月その他の式日〈シキジツ〉にも用ゐることがある。形は主として丸い中高〈ナカダカ〉の、今謂ふ鏡餅のなりに作るので、或は又その名をオスガタとも呼んで居る。オスガタは御姿、即ち色々の物の形といふ意味かと思はれる。是を湯に入れ汁に投ずれば、単純なる我々の煮団子〈ニダンゴ〉であり、鍋で焼けば普通のオヤキすなわち焼餅となるのだが、形をこしらへるには生のまゝの時に限るので、それで粢を御姿と謂つたのかと思ふ。後代技術が進んで搗き抜きの団子を丸め、臼で蒸米を餅にすることが出来て、始めて我々の慣習は改まり、材料も従うて変化して来たのである。滋賀県の田舎などでは、今でも餅団子をツクネモノと謂つて居る。ツクネルとは捏ね〈コネ〉あげることで、現在の餅や団子はつくねはしないが、本来が生粉の塑像であつた為に、今にその名前を継承して居るのである。ダンゴが上古以来の日本語で無いことは誰でも知つて居るが、そんならその前には是を何と謂つたかといふと、それには答へることが六づかしい〈ムズカシイ〉ので、人によつては名称と共に、支那天竺からでも入つてきた食物かの如くに考へられてゐるが、一方に粢【しとぎ】が国固有の古い食物である以上、是を外国から学ぶべき必要は有り得ない。新たに採用したのは言葉だけで、それはたしかに丸いから団子と謂つたのであつた。信州の諏訪あたりでは、正月の餅花〈モチバナ〉につける飾り団子をオマルと謂ひ、山梨でもカラコの白餅だけを、特にオダンスといふ村がある。団子は古くはダンシと謂つて居たのである。東北へ行くと、今でも之をダンス又はダンシといふから、其起原は想像することが出来る。或は壇供〈ダンク〉といふ漢字の音かとも考へえられるやうだが、この中間の団または団子【だんす】といふ語がある為に、是がもと仏教徒の用語に出で、丸く作った粢だけを意味して居たことが判つて来るのである。
ところが我々の作つて居たシトギは、必ずしも常に団なるものとは限らなかつた。長くも平たくも節毎〈セチ・ゴト〉の旧慣によつて、色々の形が好まれて居たのである。たとへば田植終りの頃のサノボリの小麦団子は、中国地方では馬のセナカと称して、鰹節を小さくしたやうな形であつた。盆の送り祭りの食物には、セナカアテと称して薄い平たいものを作り、もしくは鬼の舌などゝいふ楕円形のもの、編笠〈アミガサ〉焼きと謂つて笠の形をした焼餅を作る日もあつた。中部地方では二月涅槃〈ネハン〉の日にヤセウマという長い団子をこしらへ、又は同じ月にオネヂと謂ふものを作る日もあったが、是も後には捻り〈ネジリ〉団子には限らず、蕪〈カブ〉や胡蘿蔔〈コラフ〉等の野菜類まで、色々と形を似せて美しく彩色した。香川県には有名な八朔〈ハッサク〉の獅子駒〈シシゴマ〉がある。是も現在は米の粉を以て、見事な動物の形を作り並べて見せるので、此風習は中国地方に及び、之をタノモ人形などゝいつて、男女の姿に似せたものさへ作つた。尾張三河の方面では三月の雛の節供の日に、やはり米の団子を以て鯛や鶴亀七福神までも製作した。もう斯うなると工芸と言はうよりも美術で、専門家の手腕を必要としたのであるが、しかし日本の民芸は発達して居る。民間には屡々〈シバシバ〉無名の技術家があつて、一日か二日で食つてしまふ物に、斯様な手の込んだ製作を施して、僅かな見衆を感動させていたのである。
しかしそれも是も、すべて水で練つた生の穀粉の彫塑であつたから出来たのである。是がもし蒸した粉や穀粒であつたら、つくね上げることは相応に困難であつたらう。私達が少年の頃には、酒屋の職人たちが酒の仕込みの日に、蒸した白米を釜からつかみ出して、ヒネリ餅というものを拵へて居た。普通には扁平な煎餅のやうなものしか出来なかつたが、巧者〈コウシャ〉な庫男〈クラオトコ〉になると是で瓢箪や松茸や、時としては又人形なども作り上げた。蒸米は冷えるとすぐに固くなるので、熱いうちに手を火ぶくれにしてこんな技術を施したのであつた。シンコに比べると餅の方は殊に細工を施し得る間が短かい。故に今では丸餅や熨斗餅〈ノシモチ〉などの、至つて単純な物しか出来なくなつたのである。是が生粉であるならばゆつくりといかなる形の物をでもつくね上げ得たのは当然である。問題は所謂オスガタを作る手段よりも、如何にしてさういふ色々の物の形を、現はさなければならぬと考へたかの、動機如何といふ点に存在する。注意をして見ると我々の晴の日の食物は、単に是が為に時と労とを費したゞけで無く、その形態にも幾通りかの計画が有り意途〈イト〉があつた。一つの顕著な例は三月の桃節供に、必ず菱形の餅を飾ることである。是を桝形〈マスガタ〉の餅とも称して、奥州では正月に人の家に贈る餅の、定まつた〈キマッタ〉一つの形となつて居た。出羽の方の正月には、昔からヲカノモチといふものが、家族一人に一つゞつ作つて歳棚〈トシダナ〉に飾られて居た。是は楕円形で中程に指で窪みを附けたものであるといふ。東京でも婚姻の祝に配る鳥の子または鶴の子といふのが、一部分是と似て居る。つまりそれぞれの機会に対して特殊の形といふものがあつて守られたのである。其中でも特に私たちの注意して居るのは、五月端午〈タンゴ〉の節供に作られる色々の巻餅〈マキモチ〉が、必ず上を尖ら〈トガラ〉せた三角形に結ばれたことである。是なども最初は生粉の間に形をきめ、それを湯に入れて煮て引上げて食つたのである。それと同じ形が年の暮の供物、御霊【みたま】の飯といふものにも附いてまはつて居る。是は米粒であるがやはり笹の葉などで三角形に包み、蒸して食ふやうにしたのである。葉に包まぬ場合には握り飯だが、是もこしらへる手がきまつて居た、必ず三角に結ぶことになつて居た。それを盆と暮とに御霊に供へて居る土地も多いのである。私の一つの想像では、鏡餅は円いといふ点ばかり問題にされているが、是が上尖り〈ウエトガリ〉に出来るだけ高く重ねようとして居た点は、五月の巻餅や粽〈チマキ〉の円錐形と、同じ動機に出て居るものではないか。すなわち是を人間体内の最も主要なる一臓器と、わざわざ似せて作り上げた所に、是を儀式の日に食ふといふ意義があつたのでは無かつたか。仮に其想像が半分でも中つて〈アタッテ〉居つた〈オッタ〉とすると、粢が我々の晴の食物として、選まれた理由は略〈ホボ〉わかるのである。握り飯の三角などは只偶然のやうだが、此歴史の無い他民族に任せたら、自然には斯うは握れぬのみならず、現に我国でも凶事の際だけには、わざと違つた形の握り飯を作つて居るのである。要するに此等の食物が、ぜひとも一定の姿にこしらへぬと、晴の日の食物とするに適しなかつた其理由こそ先づ考へて見るべきである。〈15~20ページ〉【以下、次回】
『社会経済史学』第3巻第9号(1934年1月)から、柳田國男による講演の記録「餅と臼と擂鉢」を紹介している。本日は、その六回目。
六
米を水に浸し柔げ〈ヤワラゲ〉て後に、臼で粉に搗くといふことの第二の便宜は、又是を以て色々の物の形象を作り得る点にあつた。今日の所謂シンコ細工は、一旦米の粉を煮てから作るのだが、それでは油でも用ゐないと手にくつゝいて仕方がない。生粉の水練りならば水を使ふから、取扱ひがずつと便利なのであつた。自分などはそれが粢【しとぎ】といふものゝ最初からの特徴であつたと思つて居る。日本人の食物の中で、最も古くから文献の上に見え、一方には又北海道の原住民の中にも、採用せられて居るのがシトギといふ語であるから、其使用は近世まであつたと言つてよいのだが、存外に多くの日本人はこの語の意味内容、もしくは是と餅との関係を早く忘れてしまつて居る。たまたま其語を用ゐる土地が有つても、是を用ゐるのは或る限られたる場合だけである故に、それが一般的なる前代生活の残留破片であると迄は心づかない。何処でもわが土地ばかりの方言と心得て、有りもせぬ標準語の対訳を見付けるに苦しんでゐる。其事自身がすでに驚くべき変遷であつた。
シトギという語の現在も行はれて居るのは、多くの場合には古い神社であり、祭礼の折にその語が現はれて来る。たとへば越前敦賀〈ツルガ〉郡の東郷村の諏訪社では、シトギは三合三勺の米を以て作つた三つの丸い餅であつた。餅とは云つても水練りの粉を固めたものだつたらうと思ふ。熊本県の北部で棟上式〈ムネアゲシキ〉の日に投げる餅だけをヒトギ、是は既にたゞの餅をさう謂つて居る。能登の北川村の諏訪神社九月二十七日の祭に作るヒトミダンゴ、是もシトギの訛音〈カオン〉らしいが此方は今いふ団子になつて居る。東北では宮城県北部の村々でオシトネ、九月九日の節供に新米を以て製するもので、是は生の粉を水で固めたものであつた。岩手県では一般にこれをシツトギと謂ひ、風の神送りの日に作つて藁苞〈ワラヅト〉に入れて供へ、又は山の神祭りの際に、田の畔〈クロ〉に立てる駒形〈コマガタ〉の札に塗りつけた。青森県の八戸地方で、同じく神に供へるナマストギも是である。人は今日では煮るか焼くかして食ふ故に、特に之を生のシトギといふのである。生米〈ナマゴメ〉を噛んで食ふ風習とも関係があつて、以前は人間も生のまゝで食べて居たのが、いつと無し嗜好が改まつて、後には神仏に参らせるだけの食物の如く考へられるに至つたのである。だから粢という古い言葉は用ゐなくとも、其実物を作つて居る土地は今でも中々多い。現在の名称の最も弘く行はれて居るのは、シロモチ・シラモチまたはシロコモチといふのが是に該当する。煮たり焼いたりしたのと比べると色がずつと白いからで、成人はめつたに是を生では食べぬが、子供は昔どほり珍しがつて貰つて食ひ、口の端〈ハタ〉を真白にして喜んで居る。伊勢の松阪あたりの山神祭りの飾り人形に、白餅喰ひといふのがあつたことは、本居〔宣長〕先生の日記にも見えて居る。秋の終りの神送りの日には、是は欠くべからざる神供〈ジンク〉であつた。三河の半島の或町の祭には、小児が烏の啼声〈ナキゴエ〉を真似て此白餅を貰つて食ふ風があつた。それで此日は彼等をカラスと呼んで居た。前に述べた石城平の、烏のオノリと同じ風習から出て居ると思ふ。白餅といふ名は東海道の諸国から紀州まで、九州でも北岸の島々ではシラモチと謂ひ、阿蘇の山村ではシイラ餅と謂つて居ると共に、一方秋田県の鹿角〈カヅノ〉地方などにもシロコダンゴといふ名がある。分布の此様に古いのを見ると、此名称もおそらく新たに起つたものではないと思ふ。
信州は南北とも、一般に之をカラコ又はオカラコと謂つて居る。主として秋の感謝祭の日に、今年米〈コトシゴメ〉を粉にして作るのだが、正月その他の式日〈シキジツ〉にも用ゐることがある。形は主として丸い中高〈ナカダカ〉の、今謂ふ鏡餅のなりに作るので、或は又その名をオスガタとも呼んで居る。オスガタは御姿、即ち色々の物の形といふ意味かと思はれる。是を湯に入れ汁に投ずれば、単純なる我々の煮団子〈ニダンゴ〉であり、鍋で焼けば普通のオヤキすなわち焼餅となるのだが、形をこしらへるには生のまゝの時に限るので、それで粢を御姿と謂つたのかと思ふ。後代技術が進んで搗き抜きの団子を丸め、臼で蒸米を餅にすることが出来て、始めて我々の慣習は改まり、材料も従うて変化して来たのである。滋賀県の田舎などでは、今でも餅団子をツクネモノと謂つて居る。ツクネルとは捏ね〈コネ〉あげることで、現在の餅や団子はつくねはしないが、本来が生粉の塑像であつた為に、今にその名前を継承して居るのである。ダンゴが上古以来の日本語で無いことは誰でも知つて居るが、そんならその前には是を何と謂つたかといふと、それには答へることが六づかしい〈ムズカシイ〉ので、人によつては名称と共に、支那天竺からでも入つてきた食物かの如くに考へられてゐるが、一方に粢【しとぎ】が国固有の古い食物である以上、是を外国から学ぶべき必要は有り得ない。新たに採用したのは言葉だけで、それはたしかに丸いから団子と謂つたのであつた。信州の諏訪あたりでは、正月の餅花〈モチバナ〉につける飾り団子をオマルと謂ひ、山梨でもカラコの白餅だけを、特にオダンスといふ村がある。団子は古くはダンシと謂つて居たのである。東北へ行くと、今でも之をダンス又はダンシといふから、其起原は想像することが出来る。或は壇供〈ダンク〉といふ漢字の音かとも考へえられるやうだが、この中間の団または団子【だんす】といふ語がある為に、是がもと仏教徒の用語に出で、丸く作った粢だけを意味して居たことが判つて来るのである。
ところが我々の作つて居たシトギは、必ずしも常に団なるものとは限らなかつた。長くも平たくも節毎〈セチ・ゴト〉の旧慣によつて、色々の形が好まれて居たのである。たとへば田植終りの頃のサノボリの小麦団子は、中国地方では馬のセナカと称して、鰹節を小さくしたやうな形であつた。盆の送り祭りの食物には、セナカアテと称して薄い平たいものを作り、もしくは鬼の舌などゝいふ楕円形のもの、編笠〈アミガサ〉焼きと謂つて笠の形をした焼餅を作る日もあつた。中部地方では二月涅槃〈ネハン〉の日にヤセウマという長い団子をこしらへ、又は同じ月にオネヂと謂ふものを作る日もあったが、是も後には捻り〈ネジリ〉団子には限らず、蕪〈カブ〉や胡蘿蔔〈コラフ〉等の野菜類まで、色々と形を似せて美しく彩色した。香川県には有名な八朔〈ハッサク〉の獅子駒〈シシゴマ〉がある。是も現在は米の粉を以て、見事な動物の形を作り並べて見せるので、此風習は中国地方に及び、之をタノモ人形などゝいつて、男女の姿に似せたものさへ作つた。尾張三河の方面では三月の雛の節供の日に、やはり米の団子を以て鯛や鶴亀七福神までも製作した。もう斯うなると工芸と言はうよりも美術で、専門家の手腕を必要としたのであるが、しかし日本の民芸は発達して居る。民間には屡々〈シバシバ〉無名の技術家があつて、一日か二日で食つてしまふ物に、斯様な手の込んだ製作を施して、僅かな見衆を感動させていたのである。
しかしそれも是も、すべて水で練つた生の穀粉の彫塑であつたから出来たのである。是がもし蒸した粉や穀粒であつたら、つくね上げることは相応に困難であつたらう。私達が少年の頃には、酒屋の職人たちが酒の仕込みの日に、蒸した白米を釜からつかみ出して、ヒネリ餅というものを拵へて居た。普通には扁平な煎餅のやうなものしか出来なかつたが、巧者〈コウシャ〉な庫男〈クラオトコ〉になると是で瓢箪や松茸や、時としては又人形なども作り上げた。蒸米は冷えるとすぐに固くなるので、熱いうちに手を火ぶくれにしてこんな技術を施したのであつた。シンコに比べると餅の方は殊に細工を施し得る間が短かい。故に今では丸餅や熨斗餅〈ノシモチ〉などの、至つて単純な物しか出来なくなつたのである。是が生粉であるならばゆつくりといかなる形の物をでもつくね上げ得たのは当然である。問題は所謂オスガタを作る手段よりも、如何にしてさういふ色々の物の形を、現はさなければならぬと考へたかの、動機如何といふ点に存在する。注意をして見ると我々の晴の日の食物は、単に是が為に時と労とを費したゞけで無く、その形態にも幾通りかの計画が有り意途〈イト〉があつた。一つの顕著な例は三月の桃節供に、必ず菱形の餅を飾ることである。是を桝形〈マスガタ〉の餅とも称して、奥州では正月に人の家に贈る餅の、定まつた〈キマッタ〉一つの形となつて居た。出羽の方の正月には、昔からヲカノモチといふものが、家族一人に一つゞつ作つて歳棚〈トシダナ〉に飾られて居た。是は楕円形で中程に指で窪みを附けたものであるといふ。東京でも婚姻の祝に配る鳥の子または鶴の子といふのが、一部分是と似て居る。つまりそれぞれの機会に対して特殊の形といふものがあつて守られたのである。其中でも特に私たちの注意して居るのは、五月端午〈タンゴ〉の節供に作られる色々の巻餅〈マキモチ〉が、必ず上を尖ら〈トガラ〉せた三角形に結ばれたことである。是なども最初は生粉の間に形をきめ、それを湯に入れて煮て引上げて食つたのである。それと同じ形が年の暮の供物、御霊【みたま】の飯といふものにも附いてまはつて居る。是は米粒であるがやはり笹の葉などで三角形に包み、蒸して食ふやうにしたのである。葉に包まぬ場合には握り飯だが、是もこしらへる手がきまつて居た、必ず三角に結ぶことになつて居た。それを盆と暮とに御霊に供へて居る土地も多いのである。私の一つの想像では、鏡餅は円いといふ点ばかり問題にされているが、是が上尖り〈ウエトガリ〉に出来るだけ高く重ねようとして居た点は、五月の巻餅や粽〈チマキ〉の円錐形と、同じ動機に出て居るものではないか。すなわち是を人間体内の最も主要なる一臓器と、わざわざ似せて作り上げた所に、是を儀式の日に食ふといふ意義があつたのでは無かつたか。仮に其想像が半分でも中つて〈アタッテ〉居つた〈オッタ〉とすると、粢が我々の晴の食物として、選まれた理由は略〈ホボ〉わかるのである。握り飯の三角などは只偶然のやうだが、此歴史の無い他民族に任せたら、自然には斯うは握れぬのみならず、現に我国でも凶事の際だけには、わざと違つた形の握り飯を作つて居るのである。要するに此等の食物が、ぜひとも一定の姿にこしらへぬと、晴の日の食物とするに適しなかつた其理由こそ先づ考へて見るべきである。〈15~20ページ〉【以下、次回】
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