◎柳田國男の講演記録「餅と臼と擂鉢」を読む
明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
昨年の11月、五反田の古書展で、『社会経済史学』のバックナンバー十数冊を入手した。そのうちの一冊に、1934年(昭和9)1月発行の第3巻第9号があった。
同号の巻頭を飾っているのは、柳田國男による講演の記録「餅と臼と擂鉢(すりばち)」である。本日以降、しばらく、この講演記録を紹介してゆきたい。なお、同号の末尾にある「社会経済史学会第三回大会の記」によれば、この講演は、1933年(昭和8)11月4日、慶應義塾大学で開かれた公開講演会(社会経済史学会第3回大会の初日午後)に、「食物の変遷」と題しておこなわれたものという。
餅 と 臼 と 擂 鉢
―食物変遷に関する一考察― 柳 田 國 男
一
私の研究は著手〈チャクシュ〉が遅く、又この問題が余りにも広汎である為に、未だ全般の傾向を、一つの文章に要約し得る状態にまでは達して居ない。僅かに比較的重耍だと思ふ若干の事実を、やや秩序立てゝ叙述することによつて、幾分でも嗣いで〈ツイデ〉起る学者の労力を省くことが出来るとすれば、先づそれを以て一応は満足しなければならぬ。標題の聊か〈イササカ〉奇を好んだのは、古来不当に省みられなかつた一箇の大きな生活問題の為に、もう少し多くの経済史家の注意を引付けたいからである。
食物の変遷、我々日本人の食事が前代と比べて見て如何に改まつて居るかを知るには、最初に先づ晴【はれ】と褻【け】との差別を明かにしてかゝる必要がある。何れの民族に於ても共通に、この二つの者の次第に混同して来たことが、近世の最も主要なる特徴であつたからである。晴と褻との対立は、衣服に於ては殊に顕著であつた様に考へられて居る。晴衣【はれぎ】といふ語は標準語中にも尚存し〈ナオ・ソンシ〉、褻衣【けぎ】といふ語も対馬五島天草等、九州の島々には方言として行はれて居る。即ち一部には今も活きて働いて居るのだが、しかも両者の境目は次第に忘れられようとして居る。たとへはイツチヨウラといふ語は、一挺蝋燭といふ戯言から出たもので、ケにもハレにも是れ一つといふことを意味したのであるが、何でさういひ出したかを知る者が無い。ケにもハレにもといふ成句自身も、折々之を用ゐる老人などは有るが、既に間違へてしまつて、テンもハリヤもなどと謂つて居る土地は少なくない。さうして我々の常用の褻衣には、晴衣の古くなつたのを其侭〈ソノママ〉用ゐるやうになつてしまつた。是と比べると食物には尚事実上の差異が少しは遺つて〈ノコッテ〉居る。我々は改まつた節には晴の膳に坐り、常の日には今でも褻【け】の飯を食つて居るのである。乃ち〈スナワチ〉この眼前の事実を観測して、其中から年久しい慣習の跡を覔める〈モトメル〉ことが出来るのである。
都会では今や宴会は殆ど全部が家の外の食事、もしくは主人一人の食事となつて、此より他には晴の食事をする場合が無くなつた。家々の家族は毎日のやうに、東京で所謂御惣菜〈ゴソウザイ〉ばかりで御飯を食べて居る。之に反して田舎では、正月と盆は申すに及ばず、大小の祭礼や休みの日には、カハリモノと称して、通例で無い食物を給与せられる。常の日の食物が思ひ切つて平凡であるだけに、家族一同婦人小児までが、是に参与することを楽しみにして居る。即ち今でも改まつた晴の食事の機会は多いのである。節供〈セチク〉は本来は此食事を意味する意であつた。供とは共同食事、神や祖霊と共に総ての家族が相饗することであり、節は即ち折目、改まつた日といふことであつた。オセチといふ語は年越の日の食事の名に残つて居るが、或は又餅を意味する地方もある。斯ういふ晴の食事には、衣服も亦晴のものを着た。それ故に晴着を「餅食ひ衣裳」といふ例も有るのである。
数量回数の点からいふと、褻の食事の日は一年に三百日以上、八百回近くまでがそれであり、非常に貧しければ晴の食はもつと少なくなる。経済上の重要度は、無論此方が遥かに高いと言ひ得る。世の多くの学者の食物論が、是ばかりを目標として居るのも一応の理由は有る。しかし他の一方の重要性は言はゞ宗教的であつた。我々の精神文化と深い交渉のあつたのは、専ら此部面であつたのみならず、それが又全体の生活様式に、人知れぬ刺戟を与へて居ることも事実である。史書文献の今日に伝はつて居るもには、通例は此部分に限られて居る。料理といふ語は晴の食物を調製することだけを意味し、料理物語といふ類の記述は、常の日の食事には触れて居ない。従つて当世の経済史家、即ち文書に拠つて食物の歴史を知らとする人々は、自身先づこの晴の食事の慣習の、影響を受けざるを得ないのである。問題の重要性は常の食物の上に認め、是を詳か〈ツマビラカ〉にせんとする史料は、異常食事の記録に求めて居たのである。現代の学界がこの最も痛切なる消費経済の沿革に関して、未だ多くのものを我々に教へなかつたのは、一言うでいふならばこの方法の誤謬からである。それで私は茲に〈ココニ〉改めて、現在眼前に横はつて〈ヨコタワッテ〉居る書外史料、即ち我々自身の眼と耳とを以て、直接に観測し採録し得る社会事実をして、自らその履歴を語らしめようとするのである。〈1~3ページ〉【以下、次回】
明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
昨年の11月、五反田の古書展で、『社会経済史学』のバックナンバー十数冊を入手した。そのうちの一冊に、1934年(昭和9)1月発行の第3巻第9号があった。
同号の巻頭を飾っているのは、柳田國男による講演の記録「餅と臼と擂鉢(すりばち)」である。本日以降、しばらく、この講演記録を紹介してゆきたい。なお、同号の末尾にある「社会経済史学会第三回大会の記」によれば、この講演は、1933年(昭和8)11月4日、慶應義塾大学で開かれた公開講演会(社会経済史学会第3回大会の初日午後)に、「食物の変遷」と題しておこなわれたものという。
餅 と 臼 と 擂 鉢
―食物変遷に関する一考察― 柳 田 國 男
一
私の研究は著手〈チャクシュ〉が遅く、又この問題が余りにも広汎である為に、未だ全般の傾向を、一つの文章に要約し得る状態にまでは達して居ない。僅かに比較的重耍だと思ふ若干の事実を、やや秩序立てゝ叙述することによつて、幾分でも嗣いで〈ツイデ〉起る学者の労力を省くことが出来るとすれば、先づそれを以て一応は満足しなければならぬ。標題の聊か〈イササカ〉奇を好んだのは、古来不当に省みられなかつた一箇の大きな生活問題の為に、もう少し多くの経済史家の注意を引付けたいからである。
食物の変遷、我々日本人の食事が前代と比べて見て如何に改まつて居るかを知るには、最初に先づ晴【はれ】と褻【け】との差別を明かにしてかゝる必要がある。何れの民族に於ても共通に、この二つの者の次第に混同して来たことが、近世の最も主要なる特徴であつたからである。晴と褻との対立は、衣服に於ては殊に顕著であつた様に考へられて居る。晴衣【はれぎ】といふ語は標準語中にも尚存し〈ナオ・ソンシ〉、褻衣【けぎ】といふ語も対馬五島天草等、九州の島々には方言として行はれて居る。即ち一部には今も活きて働いて居るのだが、しかも両者の境目は次第に忘れられようとして居る。たとへはイツチヨウラといふ語は、一挺蝋燭といふ戯言から出たもので、ケにもハレにも是れ一つといふことを意味したのであるが、何でさういひ出したかを知る者が無い。ケにもハレにもといふ成句自身も、折々之を用ゐる老人などは有るが、既に間違へてしまつて、テンもハリヤもなどと謂つて居る土地は少なくない。さうして我々の常用の褻衣には、晴衣の古くなつたのを其侭〈ソノママ〉用ゐるやうになつてしまつた。是と比べると食物には尚事実上の差異が少しは遺つて〈ノコッテ〉居る。我々は改まつた節には晴の膳に坐り、常の日には今でも褻【け】の飯を食つて居るのである。乃ち〈スナワチ〉この眼前の事実を観測して、其中から年久しい慣習の跡を覔める〈モトメル〉ことが出来るのである。
都会では今や宴会は殆ど全部が家の外の食事、もしくは主人一人の食事となつて、此より他には晴の食事をする場合が無くなつた。家々の家族は毎日のやうに、東京で所謂御惣菜〈ゴソウザイ〉ばかりで御飯を食べて居る。之に反して田舎では、正月と盆は申すに及ばず、大小の祭礼や休みの日には、カハリモノと称して、通例で無い食物を給与せられる。常の日の食物が思ひ切つて平凡であるだけに、家族一同婦人小児までが、是に参与することを楽しみにして居る。即ち今でも改まつた晴の食事の機会は多いのである。節供〈セチク〉は本来は此食事を意味する意であつた。供とは共同食事、神や祖霊と共に総ての家族が相饗することであり、節は即ち折目、改まつた日といふことであつた。オセチといふ語は年越の日の食事の名に残つて居るが、或は又餅を意味する地方もある。斯ういふ晴の食事には、衣服も亦晴のものを着た。それ故に晴着を「餅食ひ衣裳」といふ例も有るのである。
数量回数の点からいふと、褻の食事の日は一年に三百日以上、八百回近くまでがそれであり、非常に貧しければ晴の食はもつと少なくなる。経済上の重要度は、無論此方が遥かに高いと言ひ得る。世の多くの学者の食物論が、是ばかりを目標として居るのも一応の理由は有る。しかし他の一方の重要性は言はゞ宗教的であつた。我々の精神文化と深い交渉のあつたのは、専ら此部面であつたのみならず、それが又全体の生活様式に、人知れぬ刺戟を与へて居ることも事実である。史書文献の今日に伝はつて居るもには、通例は此部分に限られて居る。料理といふ語は晴の食物を調製することだけを意味し、料理物語といふ類の記述は、常の日の食事には触れて居ない。従つて当世の経済史家、即ち文書に拠つて食物の歴史を知らとする人々は、自身先づこの晴の食事の慣習の、影響を受けざるを得ないのである。問題の重要性は常の食物の上に認め、是を詳か〈ツマビラカ〉にせんとする史料は、異常食事の記録に求めて居たのである。現代の学界がこの最も痛切なる消費経済の沿革に関して、未だ多くのものを我々に教へなかつたのは、一言うでいふならばこの方法の誤謬からである。それで私は茲に〈ココニ〉改めて、現在眼前に横はつて〈ヨコタワッテ〉居る書外史料、即ち我々自身の眼と耳とを以て、直接に観測し採録し得る社会事実をして、自らその履歴を語らしめようとするのである。〈1~3ページ〉【以下、次回】
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