礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

ごく自然な庶民が、どこかに他力の心を持っている

2022-01-09 00:09:44 | コラムと名言

◎ごく自然な庶民が、どこかに他力の心を持っている

『文藝』「日本論特集号」(季刊秋季号、一九八七年八月)から、対談・吉本隆明×網野善彦「歴史としての天皇制」を紹介している。本日は、その六回目。文中、(……)は、引用の際、省略した箇所を示す。

川村 そのときに異類、異形の人達が、いわゆる被差別民という形で差別化されてくる。そのプロセスというのはどういうことなんでしょうか。最初のころと言いますか、異類、異形と言われ始めたときには差別的用語ではなかったし、そういう要素もなかったというふうに読めるわけですが。
網野 これはそう簡単には言えないと思います。ただあの本のなかでも一寸ふれたことで、 これからもっと勉強しなければいけないんですけれども、南北朝内乱で権威の構造が変わってしまうことが差別に転化する大きな理由だと思いますね。僕には宗教のほうは不勉強なので、十分にはわからないけれども、それまでは神仏や天皇に直属する神人〈ジニン〉や供御人〈クゴニン〉の権威は、かなり強力なんですよ。その中で異類異形の「非人」も犬神人〈イヌジニン〉として、神に直属しているんですね。
 それが室町時代以後になると、神人供御人の称号やその特権はまだ残っているけれども、もう神仏や天皇の権威で、ことが通るような状況じゃなくなっちゃうんですね。僕は、差別の固定化に通ずる敬意を一応そういう筋道で考えていけるんじゃないかなと思っているんですけれども。
 ただ神仏、天皇の権威の低下は内乱によって起ったというだけではない、もっと本質的 な人間と自然との関係が、やはりこの時期に大きく変わっていくんじゃないかと思うので、 そのなかで、異類異形の人々に対する卑賤視が浸透、定着していくということになるのではないかと一応考えています。
 一向にお答えにはなっていないんですけれども、答えられんのですよ、そんな話は。そう簡単には(笑)。
吉本 僕の知っている唯一の異形の者への言及は、覚如〈カクニョ〉の『改邪鈔〈カイジャショウ〉』です。そのなかで宗教的な異形のものが否定的に出てくるところがあります。近頃、異形の風体をした輩〈ヤカラ〉がやたらに出てきて、後世〈ゴセ〉を願う僧侶のような顔をしている、それは、たぶん一遍とか、他阿弥陀仏〈タアミダブツ〉の門人の輩じゃないか。ちょうど聖書のキリストの言葉と同じなんですが、この連中、ひとところ自分をよく見せようと思っている輩なんで、祖師親鸞の考えと一見すると同じように見えて(下層の人達を教化しようとしましたから)、まるで背中合わせに違うんだと覚如は言っているんです。
 祖師親鸞の言った言葉を自分は覚えているが、親鸞はたとえば牛盗人と言われようとも、後世者〈ゴセシャ〉とか僧侶とか善人だとか、そういうふうに見られるようなことをしちゃいけないと語られたと、は言っています。
 網野さんの言葉で言うと自由民ということになるのかもしれないんですが、ごく自然な庶民がごく自然に他力の心を、どこかに持ってやっていくというのが、祖師親鸞の理想なんで、なんか異形の風体をして来世を願うみたいなのは、一見同じようでもまるで違うんだというのです。
 祖師親鸞はいつも、自分は非僧非俗だった「教信阿弥の定〈ジョウ〉だ」と言っておられた、と覚如は述べています。教信という人は天台宗の高僧でしたが、僧侶を辞めちゃって旅人の荷物運びなどで生活する普通の人になっちゃうんです。そして死ぬときだけ、瑞相を現わすのです。俺はそれが理想だと親鸞はそう言っていたと言っているところがあるんですね。
 川村さんは文学的だから、異形って立川流みたいなところと連想してさ、奇態な奇妙な政権みたいなイメージをするけれども、僕はとても透明に考えますね(笑)。
 天皇制というのは、わりにモダンなんですよ。だからその時代の宗教は、真先に取り入れるんだと思いますよ。現在で言えば、天皇制は、習慣的な宗教として神道なんでしょうが、キリスト教の子女から嫁さんを貰っているわけだしね。
 そういうことについては、融通無礙〈ユウズウムゲ〉でかつ進歩的ですよ。とても適応性が素早いというふうに僕には思えるんですよ。
異形ということは川村さんのように過大に考えちゃうと、ちょっと実像と違うんじゃないかという気がするんです。(……)【以下、次回】

 川村湊氏は、異類異形の人々と「被差別」の関係に深い関心を持ったらしく、自分の理解したところを示して、網野の意見を求める。これに対する網野の反応は、「そう簡単には言えない」と冷ややかである。
 このヤリトリを聞いた吉本は、浄土信仰に関するみずからの見識を踏まえた上で、網野の「異類異形」論を再解釈を試みる。しかも、この再解釈には、川村氏に対して、その「異類異形」理解の偏狭さをたしなめる意味も含まれていた。さすがは吉本、なかなかの芸当である。

*このブログの人気記事 2022・1・9(なぜかこの間、東京市水道鉄管問題へのアクセスが多い)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« そのこととは話が飛んでしま... | トップ | 天皇制論には二つの流れがあ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

コラムと名言」カテゴリの最新記事