◎東京周辺の難読地名(後藤朝太郎)
読みにくい駅名を紹介したついでに、読みにくい地名を紹介してみよう。
以下に引くのは、後藤朝太郎著『文字の智識』(日本大学、一九二三)の第二五章「不便なる地方文字の読方」である。(一)「難読文字の改善」、(二)「郵便局名の難読文字」は割愛し、(三) から紹介してゆきたい。
地名の後のカッコ内にあるのは、基本的に「郡」の名前である。また、〈カタカナ〉は引用者の付した読みである。
著者の後藤朝太郎〈アサタロウ〉は、支那通の言語学者として知られる。敗戦の直前、不審な死に方をしていることについては、過去に当ブログで触れたことがある(2016・1・22「後藤朝太郎、東急東横線に轢かれ死亡」)。
(三) 東京市及びその付近
今東京市及此の近在〈キンザイ〉に於ける地名の異様なるものに付いて言へば、東京市に於ては「采女」(京橋)を「ウネメ」と読ませそれから「狸穴」(麻布)之を「マミアナ」と読ませて居ると云ふやうなのがある。是は訓読があつても其の事情が違つて居る。頗る見当の付き難い地名である。若し「羽生」(北埼玉)とか、「幸手」(北葛飾)とか。之をそれそれ「ハニフ」、「サツテ」と読む如きは普通の訓読であつて大した分り難いものではない。併し「越生」(入間〈イルマ〉)之を「オゴセ」と読ます如きは稍〈ヤヤ〉其の趣きが変つて居るのである。次に音訓混合の地名であつては「恩方」(南多摩)之を「オンカタ」と読み、「拝島」(北多摩)之を「ハイジマ」と読み、「波浮湊」(伊豆大島)之を「ハブミナト」と読み、又宝珠花(北葛飾)を「ホウシユバナ」と読む如きは音訓混用ではあるけれでも稍読み易き地名である。次に純然たる字音ばかりから読むものは「草加」(北足立)「サウカ」と読み、「飯能」(入間)「ハンノウ」と読む如きは何れも字音のまゝ発音するのであるから是等は最も簡単な例である。
此の漢字を音のみから読むと云ふことは支那の本土の地名と同じ訳である。支那には別段漢字の訓を読むことはないのであるから北京にしろ、南京にしろ、天津にしろ、青島にしろ其の音の通り読むからして日本のやうな面倒は少しもない。それで若し日本の地名が支那流に字音ばかりで出来て居るとすれば其の字音の侭使へば訳はないのであるが。併し此の字音のみを使ふと云ふことは日本の言葉が綴〈ツヅリ〉の多い言葉であると云ふことと今一つは地名に何か直ぐ〈スグ〉その言葉の意味を示さうと云ふ考が伴つて来るが為にどうしても音のみで地名を現すと云ふことは甚だ難しい。又音のみでうつすは国民の趣味にも余り適せぬことである。そこで此の訓を用ひる方の方法が大分現はれて来て其の方が又土民にも能く記憶されるし、又後世にも其の方法が主もに〈オモニ〉遺る〈ノコル〉やうになつて来たのである。
次に上野〈コウズケ〉に付い述べよう。先づ字音の方面からの地名を申すと、「四万」(吾妻〈アガツマ〉)之を「シマ」と読ませるのは、最〈モットモ〉簡単な例である。次に訓のみで読まれて居るものを言へば「追貝」(利根)を「オツカイ」と読ませるもの、次に音訓混用の地名を申せば「万場」(多野)を「マンバ」、「平原」(多野)を「へバラ」と読ませ、「本宿」(北甘楽〈キタカンラ〉)を「モトジユク」と読ませ、「応桑」(吾妻)を「オウクワ」と読ませ、「湯桧曽」(利根)「ユビソ」と読ませる如きものがある。
次に下総〈シモウサ〉及上総〈カズサ〉の地名に付いて見るに、先づ音読せるものは「御宿」(夷隅〈イスミ〉)を「オンジユク」と読み、次に音訓混用のものは「検見川」(千葉)を「ケミガハ」と読む。是は「ケン」の「ン」を省いたものと見て宜からう。「酒々井」(印旛〈インバ〉)を「シスイ」と読む。是は洒の字の音を「シ」或は「ス」と見たものと解せらる。次に訓ばかりから来たのを述べると云ふと、「木下」(印旛)を「キオロシ」と読む。それから「刑部」(長生〈チョウセイ〉)を「オブカべ」と読むものがある。是等は発音の変化の原則から観察したり、或は其の地名の歴史に遡つて昔の古事来歴から解釈するならば皆相当の理由があつて容易に納得せらるのであるけれども単に是だけの地名を見ると云ふと頗る〈スコブル〉異様に感せられる。此の中でも「御宿」の如き「木下」の如きなかなか此の地面〔字面〈ジヅラ〉〕だけからは見当が付かないものである。
次に安房〈アワ〉の地名に付いて見るに先づ音読のものを述べると、「見物」(安房)を「ケンモツ」と読み、「平群」(安房)を「へグリ」と読む如きものがあり、次に訓の方では布良(安房)を「ナラ」と読むのがある。
次には常陸〈ヒタチ〉では先づ音訓混用のものを言へば「山本山」(多賀)を「ザンモトヤマ」と読み、西金(久慈〈クジ〉)を「サイガネ」と読むのがある。常陸には余り字昔で読むものが少くて、訓で読むものに頗る異様のものが多い。今其一つのものを言へば大甕(多賀)を「オオミカ」と読み、「子生」(鹿島)を「コナジ」と読み、和村を「カズムラ」と読み、「海老沢」(鹿島)を「エビザワ」と読み、「天下野」(久慈)を「ケガノ」と読み、平子(久慈)を「タイゴ」と読み、又「潮来」(行方〈ナメガタ〉)を「イタコ」と読むやうなのがある。此の「イタコ」の「イタ」は潮の意味であつて、日本語では决して潮のことを「イタ」とは申さないのであるが、是はアイヌ語である。アイヌ人が昔此の常陸地方に居た時に此の「イタコ」の辺り〈アタリ〉迄泥水が浸して来て居つた為に斯様〈カヨウ〉な名前を遺して居るものと見られる。是は大和民族が東方に勢力を得る前の歴史を此の地名が示して居るものと見て宜からう。今一つは「高道祖」(筑波)を「タカサイ」を読んで居るが、是は「道祖」を塞ノ神〈サイノカミ〉と言へる名の「サヤ」を名乗つて「道祖」としたものである、此の「サヤ」又は「サイ」と言へる地名は九州其の外〈ホカ〉日本の諸地方に多く見る名称である。
次に下野〈シモツケ〉では先づ字音の例を申せば「道場宿」(芳賀)を「ドウシヨウジユク」と読み、「宝積寺」(塩谷〈シオヤ〉)を「ホウシヤクジ」と読むやうな例がある。次に音訓混用のものを言へば「草久」(上都賀〈カミツガ〉)を「クサキユウ」と読み、「喜連川」(塩谷)を「キツレガワ」と読み、「飛駒」(安蘇〈アソ〉)を「ヒゴマ」と読むのがある。次に訓読のもので著しいものを挙げると「小来川」(上都賀)を「オコロガワ」と読み、「茂木」(芳賀)を「モテギ」と読み、「祖母ケ井」(芳賀)「ウバガイ」と読み、「壬生」(下都賀〈シモツガ〉)を「ミブ」と読み、「玉生」(塩谷)を「タマニフ」と読み、「船生」(塩谷)を「フニフ」と読む如きものがある。此の中で「茂木」を「モテギ」と読むのは此の下野地方の特例であつて、人名にも能くあることある。長崎地方にも「茂木」(モギ)と云ふ地名があるがそれは決して「モテギ」とは読まない。
次に甲斐では先づ訓読では「日下部」(東山梨)を「クサカべ」と読み、「平寺」(東山梨)を「ヒラシナ」と読み「右左口」(東山梨)を「ウバクチ」と読む如きものがある。尚ほ音訓混用のものでは「石和」(東山梨)を「イサワ」と読む如きものがある。尚ほ音読であつても、訓読であつても宜い訳であらうが「猿橋」(北都留〈キタツル〉)を「サルハシ」と読んで居る。是は停車場の場合には「エンケウ」であるが、之を音読に「エンケウ」と云ふのは支那流に真似て読んで居るのであつて、事実は「サルハシ」で伝つて居るものであらう。是等は何れか一方に決定して然るべきことゝ思ふ。同一の地名に同じ漢字を書きながら二様に読み替へると云ふことは種々なる点に於て不都合を生ずるのであるからして、これらは然るべく何れか一つに極めたならば宜からう、尚音読の地名では「四方津」(北都留)を「シボツ」と読ませるのがある。
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