◎昭和天皇「武士は忠義が第一じゃ……」
『サンデー毎日』臨時増刊「書かれざる特種」(一九五七年二月)から、石橋恒喜執筆「二・二六事件秘話」を紹介している。本日は、その二回目。
前年から数々の事件
ところで二・二六事件直前の昭和十年〔一九三五〕には一体どんな事件がおこっているのだろうか。当時の記者手帳の中からその主なものを抜きだしてみよう。
△四月二日、十一月事件関係将校の処分発表。
処分されたのは皇道派の陸大学生、大尉村中孝次、士官校付中尉片岡太郎、野砲一付主計大尉磯部浅一の三名。事件は昭和九年〔一九三四〕十一月皇道派一部将校を首謀者として元老、重臣、警視庁を襲い一気にクーデターを決行しようとしたものと伝えられる。皇道派はこれをもって真崎〔甚三郎〕打倒のための統制派の陰謀だと宣伝している。
△七月十五日、皇道派の首脳真崎教育総監解職。
△八月二日、「粛軍に関する意見書」「教育総監更迭に関する文書」を配布した件により村中、磯部免官となる。
△八月十九日、統制派の領袖永田〔鉄山〕軍務局長、相沢三郎のために暗殺される。
△九月五日、陸相林銑十郎辞職。
△十月五日、山田〔長三郎〕兵務課長自刃。
△十二月二十六日、一二・二六クーデター不発に終る。これは議会開院式の当日、軍中央部の中堅将校と政党有志と呼応して起つ。陸軍側のリーダーは山下奉文〈トモユキ〉。政党側は久原房之助〈クハラ・フサノスケ〉等政友会首脳といわれ、川島〔義之〕陸相を官邸に軟禁、岡田〔啓介〕内閣の辞職を迫って強力革新内閣を組織し無血革命に導こうとしたもの。
△十二月、予算総会に際し高橋〔是清〕蔵相、軍事予算に対する蔵相談を発表。
△昭和十一年〔一九三六〕一月十日、歩兵一連隊の入営式に当り同隊中隊長山口一太郎「高橋蔵相攻撃」の文書を兵の父兄に配布する。
△一月二十八日、永田事件軍法会議開く。
絶え間もなくまき起った数々の事件は平和ならんことを願う関係者の努力とは反対に、一路血のクーデターへと転落していった。つまり皇道派は、あらゆる事件が真崎甚三郎〈マサキ・ジンザブロウ〉を失脚させるための陰謀であるとみれば、統制派(清軍派)は彼らをもって血に飢えた狂犬の群のようににくみつづけたのである。歩一における「山口事件」も山口の願望とは全く逆の結果を生んで、いよいよ一部将校の決意を固めさせることとなった。先輩の山口としては自らの犠牲において青年将校の「暴発」をはばもうとしていたのだった。そしてこの事件には次のような秘話が綴られているのである。
山口事件のニュースは翌朝の東京日日の特種となってデカデカに発表された。これをご覧になった天皇陛下はただちに待従武官長本庄繁をお召しになった。
「けさの新聞によると兵営内で大蔵大臣攻撃の文書がまかれたとあるが事実か」
というおたずねである。温厚な武官長は恐縮してお答えした。
「全くそれにちがいありません。そして事件を起した山口はわたくしの娘婿であります」
しばらくのあいだうなずかれながらお耳を傾けられていた陛下は、ただ一言「武士は忠義が第一じゃ……」とおっしゃった……という。
「武士は忠義が第一」…というこの「お言葉」はたちまち青年将校のあいだにひろまった。しかも血気にはやる彼等はこの「お言葉」を自分たちの陣営のため有利に解釈したのである。
しかしあとになって冷静に考えると、暴発将校たちは全然逆に陛下のお言葉を解釈したものといえる。【以下、次回】
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます